13.不幸を呼ぶ少女(3)
誘拐事件が起こる前、義母の真愛子は、人のいないところで私を叩くことがあった。
彼女はまだ三十歳になったばかりで、私の知っている多くの母親たちよりずっと若かった。
黒く長い髪にはゆるりとパーマをあてて下ろしていて、目元は切れ長で涼やか。涙ぼくろがあり、どこか妖艶な雰囲気の人だった。
その見た目と違わず、苛烈だった。
叩かれる理由は言いがかりのようなものばかりだった。私は悔しくて睨みつけ、そうしてさらに叩かれる。そんなことが続いていた。
教科書やノートがなくなることもよくあった。それは恐らく、真理愛の仕業だったのだと思う。
ところが、誘拐事件以降、継母の様子がおかしい。私と目を合わせようとしないし、近づこうものなら叫ばれることがある。
嫌がらせをしてくるのはむしろ、真理愛ばかりになっていた。
だが、そんな真理愛のことを、他でもないあの継母が止めはじめたのだ。その異様な光景に、真理愛までもが驚いていた。
なにがきっかけだっただろう。あれは、事件から1年ほど経った頃だったと思う。
久方ぶりに継母にぶたれたことがあった。そのときの彼女の狼狽ぶりといったらひどいものだった。
自分が叩いたということが信じられないのか、目を見開いて固まり、それからわかりやすく顔色をなくした。
口の端をなんとか上げて笑みを作ろうとし、震える声で私に謝った。
「ーーちょ、ちょっと手が滑っただけなのよ。冷やすものを取ってくるね」
真愛子はそう言って背を向けると、家の中にも関わらず走り出した。そのまま玄関から飛び出していき、直後、鈍い音が響いた。
その日、真愛子は死んだ。交通事故だった。
家族はみんな、私を責めた。真理愛は、瞳にいっぱいの涙を溜めて、私の胸をどんどんと叩いた。
「おまえが、ーーおまえがママを呪い殺したのよ」
不穏な話題に、静かだった通夜の席がざわめきはじめる。
その後、真理愛は悪夢にうなされるようになった。学校では、噂の姉妹を見ようとやってきた者が、真理愛を見るなりぎょっとして、それから私への態度を改めるということが続いた。
真理愛は連日の悪夢で眠りが浅くなり、いつでもひどい隈があった。食欲も失せ、いつもなにかぶつぶつと呟きながら、グレープフルーツやオレンジばかり食べている。
すっかり痩せ細ってしまい、死んでしまうのではないかと思った。大嫌いなあの子を可哀想だと思うくらいには不安になっていた。
そう考えると、不幸を呼ぶ少女という呼称が広まったのは、必然と言えるのかもしれない。だって、誘拐犯も義母も死に、義妹は寝込みがちになったのだから。
私は真愛子も真理愛も大嫌いだった。でも、ここまでの不幸を望んだことはない。
そう思いたいのだが、実は私に呪いの力があって、こんなことを引き起こしているのだとしたら?
怖くなった。
そして毎晩寝る前に祈った。もう恨んでいない、悪夢を止めて、と。
不思議な家で過ごす夢は今も見る。ふと気がついたのだが、この夢を見るのは、だいたい月に一度、新月の夜だけだった。
私はカレンダーを眺め、新月の夜を心の支えにして生きるようになった。
庭には四季があり、現実の世界と連動しているようだった。
春になるとたんぽぽやすみれの花が咲き乱れ、蝶が舞う。夏は朝顔の鉢が置かれ、窓から風鈴が吊られる。秋は落ち葉の絨毯がふかふかに重なり、冬は雪で覆われる。
でも、どの季節でも、庭の中央に植わったもみじだけは、いつでも赤く色づいていた。
庭にはいつでも小さなカナヘビが棲んでいて、もみじの木をねぐらにしているらしかった。カナヘビは、いつも何かに追われていた。たとえば真っ白な猫であったり、同じく白い色をした蛇だったりする。
「不自由はないか?」
いつもの声の人が、私を抱き寄せる。その人は雨のにおいがして、ひんやりと冷たい体をしている。
私はどきりとして顔を上げる。夢の中の私は大人になっていて、抱きしめられると、彼の肩口あたりに顔が埋まる形になる。
彼の顔は見えない。名前も聞いたはずなのに思い出せない。
美しい調度品に囲まれ、綺麗な着物を着て、毎日甘いお菓子が食べられる。顔は見えないけれど誰かがそこにいて、私を甘やかしてくれる。
今日のお菓子はシュークリームだった。カスタードクリームがたっぷり詰まっているそれは、一口サイズの小さなものだ。彼は、白く美しい指でシュークリームをつまみあげると、雛鳥に餌をやるように私の口元に運ぶ。
「そなたは食べるのが好きじゃのう」
相変わらず顔は見えないけれど、彼が笑った気がした。
中庭の方からキィキィと苦しげな声が聞こえてくる。
カナヘビは猫に捕まりそうになり、自らのしっぽを切り離して逃げ出した。
「ねえ、あの子はどうしていつも追われているの? 助けてあげて」
そう頼むと、彼は私の頬をそっと撫でた。
「彼奴は罰を受けているのだ。神のものに手を出したのだからな。でも、あれはいっとう軽い罰だぞ?」
彼は心底不思議だというように首をかしげる。私はその噛み合わなさに少し背筋が冷たくなるのを感じた。
その場には、いまだうねうねと動くしっぽだけが残った。
「可愛いおまえがそう言うのなら、もうそろそろ終わりにしようか」
彼は言った。
次の新月、いつものように屋敷でお菓子を食べていると、どこにもカナヘビの姿が見つからない。
「あの子はどこに行ったの?」
私が尋ねると、彼はもみじの木を指さした。庭は冬を迎えていた。もみじの大木が、はじめて紅葉していないことに気がついた。
葉はすべて落ち、ごつごつした枝だけが見えている。ふと、様子のおかしな枝が一本あった。
気がつくと私は悲鳴を上げていた。その枝には、あのカナヘビの小さな身体が刺さっていたのだ。
「あぁ、仕留めたのは百舌鳥だな」
彼は感心したように言った。
「この庭には四の眷属たちが居てな、猫に蛇、蝶、そして百舌鳥だ。百舌鳥はああして獲物を枝に刺して、後で食べるのだ。早贄とかいったか。残酷なことをするのう。--璃珠? おや、顔色が悪いがどうした?」
私は立ち上がると背を向けて駆け出した。硝子障子を開け放ち、廊下を走る。
「璃珠!」
後ろから、彼の縋るような声が聞こえる。
「あなたなんか嫌い! あんな残酷なことをどうしてできるの。もう顔も見たくない!」
振り返らずに建物を飛び出した。真っ白な光に包まれたかと思うと、朝になっていた。見慣れた客間のベッドだ。
彼の顔は見ていないはずなのに、どうしてだろう。泣きそうな顔をしている気がした。
義妹の悪夢が終わったのは、その翌日のことだった。別人のようにやせ細り、顔色が悪くなった真理愛は、家が怖いと言って、亡くなった母方を頼って出ていってしまった。
父は私を子ども部屋へ戻そうかと提案したが、私は断った。真理愛に盗られたものだ。もう要らない。
継母が亡くなった後に移ってきた客間で十分だった。
私は日々を淡々と過ごすだけになった。朝ごはんや弁当を作り、学校へ行き、勉強して、夕飯を作り、掃除をして寝る。それだけ。
はじめは父の食事も作っていたが、彼が食べてくれないので、一人分だけを作るようになった。
楽しいことといえば食事くらいしか見いだせず、安全な家になったというのに、私はどこかへ行ってしまいたい衝動にいつも駆られていた。
高校を卒業した。市外の大学に進むことにした。誰も反対はしなかった。あの父に至っては、怯えながら、生活費も学費もすべて出すと言っていたくらいだった。
あれから、夢の屋敷に行くことはできなくなった。彼を拒絶したからか、それとも、私の頭が作り出した幻だったのか。きっと後者なのだろう。
もう会えなくなって初めて、私は、彼を慕っていたことに気がついたのだった。顔も知らない、怜悧で甘やかな声のあの人を。




