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 月明かりは分厚い雲に遮られ、山の麓にひたすら冷たい雨が降り注ぐ。


 風は右に左に、気の赴くまま暗闇を鋭く掻き分けて行った。島全体が、風神にでも飲み込まれたかのような喧騒の中、今宵も朽ちた鳥居の上に仮面の少女がひとり。白装束を靡かせ、少女の視線は今、一点に注がれていた。


 視線の先には、いつぞやの少年少女が蹲っていた。さらにそこから少し離れたところに、橙色の袴に身を包んだ山伏……『阿修羅』がいた。『阿修羅』はヤニで黄ばんだ歯を剥き出しにして、下卑た嗤いを浮かべていた。


 実際、『阿修羅』は今興奮していた。滾っていた。さっきまで、島の片隅で何人か捕まえて()()()()()ところだったが、それだけでは全然足りなかった。()()()()()を見せられちゃあ、こっちも湧き上がらねえはずはねえ。 


 殺したい。人を殺したい。


 心からそう思った。獲物が泣き叫んで、許しを乞い、その顔が絶望に染まるのが堪らなく好きだった。獲物は真人間であればあるほど良かった。真面目で、正義や道徳を疑わず、将来有望な人間など最高だ。そういう奴の未来を、描いていた夢を希望を、自分のような輩の手で汚し穢し蹂躙するのだと思うと、そのまま果ててしまいそうだった。肉を突き刺すと、潰れたトマトみたいに血が吹き出してきて、その匂いを嗅ぐと『阿修羅』はいつも理性を失った。


 紅花染の袴に身を包んだこの山伏は、およそ10年間、九州を拠点とする反社会的勢力の鉄砲玉として活躍してきた。背中に彫られた巨大な阿修羅像。些細なことで激昂しやすく、考えるよりまず手が出る性格が、この仕事に良く合っていた。


 その手口は決して洗練されている(プロフェッショナル)とは言い難かったが、組織で成り上がるよりも、現場で只管命を刈り取る方を好み、残虐で、たとえ女子供であっても容赦しないその殺り方は、仲間内からも忌み嫌われるほどであった。


 それでも『阿修羅』は気にしなかった。骨を砕くと、壊れた人形みたいに獲物が叫び声を上げて、その音を聞くと『阿修羅』はいつも威勢が良くなった。

殺せればそれで良かったのだ。

一匹狼型ローンウルフ・タイプ。村長の依頼で、六門島に死体を運ぶのはいつも『阿修羅』の役目だった。


 そして今まさに獲物と対峙し、『阿修羅』は嗤っていた。殺し甲斐のある若い肉が目の前にいた。未来ある子供たちの、その未来をこの手で捻り潰す享楽。血と汗と雨で、滑り易くなった鉈を、今度はしっかりと握り直す。


 くるぶしまでズブズブと泥の中に沈めながら、ゆっくりゆっくり、一歩ずつ獲物に近づいていく。先ほどは暗がりで仕留めそこなったが、二度外すほど腕は鈍っちゃいなかった。恐怖に彩られた2人を見下ろし、『阿修羅』は袖で涎を拭った。


 ガキを2人始末したら、次は村長だ。

 あの野郎この俺を嵌めようとしやがって、絶対許さねえ。俺は殺しは好きだが、自分を馬鹿にしたり、見下してくる奴は一生許さねえ。その次はあの舐め腐った管理人と、あとはそうだな……若い女がいい。年寄りばっかじゃ手応えがねえ。殺す。全員殺す。ケケ。ウケケ。ウケケケケ!


 半分白目を剥いたまま、『阿修羅』が拳を突き上げるようにして右手を天に掲げた。雨粒が掲げた得物に当たって、刃が一瞬白く輝いた。顔を強張らせた少年少女が息を飲む。悲鳴は雨音に掻き消された。『阿修羅』は喉を震わせ、斬ると言うよりも叩き潰すように鉈を突きつけた。少年の方が少女を庇って前に躍り出た。

「ケケケ!」

『阿修羅』は愉悦に浸り目を細めた。Tシャツを脱ぎ、小麦色の肌が露わになった少年に、重たい鉄の塊を力の限り叩き込む。


 少年が、勢い余ったポテトチップスみたいに内臓をぶち撒けようとした、正にその時、

「な……」

 一筋の風が『阿修羅』のそばを通り抜けた。その瞬間、『阿修羅』は膝から崩れ落ちた。

「なんだ……!?」

 斬られた、と分かったのはそれからずっと後になってからだった。大きく首を曲げ、背後を振り返るも、何も見えない。暗闇だけが、ぽっかりと広がっているだけだ。暗闇と、ただ……風だけが。


「なんだァア!?」


 ついに異常を察知して、『阿修羅』は獣のような唸り声を上げた。何が起きた!? 分からない。見えない敵に攻撃されている事だけは確かだ。狙撃だろうか。しかし音もなく、気配も何もなく、こちらを攻撃する事など可能なのだろうか?

「う……!?」

 そうしているうちに、再び突風が『阿修羅』の耳元を撫で、気がつくと首元から鮮血が吹き出していた。右手。くるぶし。脇腹。背中。構える間も無く、次から次に切り刻まれていく。

「冗談じゃねえぞ……」

 頭の中で何かがブチンッッ!! と切れる音がして、『阿修羅』は咆哮した。


「出てきやがれ、ゴルァァアアアッ!!!」


 その時だった。『阿修羅』は確かに見た。風が……

「な……」

『阿修羅』は大きく両目を見開いた。あまりにも強い風が、一瞬、厚い雲を吹き飛ばし、空から月明かりが覗いていた。月光の下で、崩れて斜めがかった鳥居が、こちらに向けて長い影を伸ばしていた。その鳥居の上に、白装束の少女がひとり。


「な……な……」

 

 顔は見えなかった。まるで鬼のように、真紅に彩られた、ツノの生えたお面を被っている。『阿修羅』は上唇を舐めた。髪の長い……黒髪の……少女? 華奢で、年老いては見えない。少女の手には、血を滴らせた薙鎌が握られていた。


 俺は……()()()()()()()()()()()()()。『阿修羅』は生唾を飲み込んだ。あの時……六門天主堂を覗き込んだあの時。磔にされた死体の前で、コイツは……。


 やがて少女は、ふわりと鳥居から飛び降りた──……。

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