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第10話 姫様と皇帝陛下

 サレナタリアの村では、そろそろ収穫が始まる季節だ。

 積み上げた藁束の匂いが懐かしい。

 フォクセルはぼんやりと考えながら、色とりどりの天井のタイルを眺めつつ、皇帝の城の回廊を歩いていた。

 ここへ来て早半年。

 柱に支えられた屋根しかついていない回廊には、秋の涼しい風が吹き込んでくる。

 深呼吸をしても、藁束の匂いはしてこなかった。


 皇帝に反乱を起こそうとした人々が一掃されたせいか、最近は穏やかな生活が続いていた。

 相変わらず姫様に人形芝居を見せたり、剣技を練習したりしているが、最初の頃の緊張はすっかり取れ、もはや日常の一部になっている。

 前口上もしっかり覚え、剣の練習も真面目に続けたせいか、ときに手厳しいムーシュでさえぽろっと褒めてくれることが増えてきた。


 しかし何より嬉しいことは、最近『お達し』がないことだ。

 夏のカルミナ公爵暗殺の『お達し』の後、フォクセルが黒騎士として呼び出されることはなかった。

 ……もしかして、ムーシュやベッキオには依頼があったのかもしれないが、フォクセルが関わったのは、カルミナ公爵の目を皆からそらしたあの件だけだ。

 あの後、フォクセルは必死で思い込もうとした。

 皇帝の命を狙うのは悪いことだ。

 だから彼らは殺されても当然なのだと。

 だが、手段を問わず標的を殺す黒騎士の仕事は、フォクセルの頭にもやもやとしたものを残していた。

 あの後、何度も黒騎士をやめたいと思ったが、これはラスカにも相談できなかった。

 ラスカに言えば、白騎士も黒騎士もやることは一緒だと一蹴されるに違いない。

 そもそも、病気の婦人に毒を盛ろうとしたり、使者に化けた暗殺者を一撃で仕留めたラスカに、こんな気持ちがわかるわけがないだろう。

 フォクセルは下を向き、ため息をついた。


 カルミナ公爵の館は、宴で使うはずだった花火に誤って火がつき、爆発した––と表向きには発表されている。

 だが城のほとんどの者はそう思っていない。

 謀反が招いた不運、という噂をフォクセルは兵士の口から漏れるのを何度も聞いた。

 本当に何が起こったのか知っているのは、おそらく芸人たちと皇帝だけだろう。


 皇帝に英雄白騎士と認められ、剣と兵を与えられ、人類の敵である魔王を倒す。

 それが彼の輝かしい未来だったはずだ。

 彼は皇帝の城にいながら、そこからどんどん遠ざかっていく自分に気づいていた。

 黒騎士の仕事はどこまでいっても影の仕事だ。

 フォクセル達が芸以外の仕事をしていることは、誰も知らない。


 それに、黒騎士になってから嫌な制約もついてきた。

 黒騎士になってから、街に出るときは必ずムーシュか、他の二人と一緒でなければいけない。

 皇帝の秘密を知っている者を、おいそれと外に出せないというわけだ。

 このままでは魔王が成長しきるまで、カサンの城から出ていけない。

 半年前まではあれほど入りたかった城だが、出られないとなると今度は焦りが襲ってきた。

 このまま皇帝に英雄と認められないのなら、折をみて城を逃げ出すことも考えなければならない。


 そんなことをつらつらと考えていたフォクセルの後ろから、ぶつかるように何かが飛びついてきた。

 慌てて振り払い、後ろを見る。

 目についたのは真っ赤なフリルと、蜂蜜色の長い髪。

 今年五歳になったエリューシア姫が、秋風に髪をなびかせてニコニコしながら立っていた。


「フォクセル、見いつけた!」

「姫様! お探しでしたか、申し訳ございません」


 フォクセルはひざまづいて深々とお辞儀をしたあと、あたりを見回して姫様付きの召使いを探した。

 姫様が召使いなしに城をうろつくことなどほとんどないはずなのだが、広い廊下には他に誰の姿も見えなかった。


「そうよ、ずっと探してたのよ」


 五歳にしては幾分ませた表情の彼女は、腰に手を当て、可愛らしく口をとがらせた。


「フォクセル、ぼうっとしてた。どうしたの? 疲れたの?」

「そんなことはございません」


 黒騎士について考え、煮詰まっていたのは確かだったが、彼は首を横に振って笑ってみせた。

 エリューシア姫は、そう、と首をかしげたまま答えた。


「姫様、お人形と舞台を取ってきますので、中庭でお待ちください」


 フォクセルが立ち上がり、人形芝居の準備をしに行こうとすると、袖が引っ張られた。

 姫様が、フォクセルの袖をぎゅっと掴んでいる。


「あのね、お人形劇もだけど……聞きたいことがあるの」

「なんでしょう?」


 いつになく真剣な彼女の表情に、フォクセルは不安になった。

 姫様は、彼が––正確には彼の体に入ったラスカが––偽物の使者を殺すところを見ている。

 もしかして、フォクセルが黒騎士になった話が、どこからか漏れたかもしれない。

 勝手な願いだったが、姫様に知られるのは嫌だった。

 しかし、質問は意外な方向からだった。


「私ねえ、今度お姉ちゃんになるんですって。聞いた?」

「……はい」


 フォクセルは拍子抜けしてしまい、気が抜けた返事を返した。

 だが、エリューシア姫はますます眉をひそめ、泣きそうな顔になって言った。


「お姉ちゃんになるって、大人になるってことでしょ?

 もうフォクセルのお人形劇を観ていちゃ駄目なの?」


 彼は吹き出しそうになってしまった。

 ムーシュが、子供騙しの人形芝居とフォクセルの芸をけなすのは既に慣れてしまっていたが、こんなところで余波が来るとは思っていなかったからだ。

 しかし、姫様の手前、彼は真面目な顔を崩さずに手を取ってひざまずいた。


「そんなことはございません。

 お姉様になっても、人形劇をお望みでしたらいつでもお呼びください」


 エリューシア姫の顔が、ぱあっと輝くような笑顔に変わる。

 そして、フォクセルはまた、首にぎゅっと抱きつかれた。


「本当? よかった! フォクセル、だーいすき!」


 フォクセルも笑顔になりつつ、心底不思議に思った。

 この一見きらびやかな宮廷に、陰惨な闇が渦巻いていることは、知り過ぎるほど知っている。

 その中で、彼女一人だけが、光を放っているように思えた。

 柔らかい体で抱きつかれているうちに、胸の中に暖かなものが膨れ上がってきた。


 皇帝陛下のことはほとんど知らない。

 けれど、エリューシア姫が無邪気で、可愛らしくて、僕のことが大好きなのは知っている。

 僕は、姫様を守ろう。

 たとえ白騎士になれなくても。






 エリューシア姫に向けて人形劇を二回上演した後、フォクセルが自室で片付けをしていると、重々しいノックの音が聞こえた。

 扉を開けると、顔をだんだらに塗ったムーシュが立っていた。

 厚塗りの化粧の下でさえ、難しい顔をしているのがわかる。

 開口一番、ムーシュが唸るように言った。


「……お前は、何をやらかしたんだ」


 フォクセルは首をひねった。

 特に怒られる心当たりはなかった。

 最近は失敗も少なくなってきているし、さっきの人形劇もエリューシア姫は手を叩いて喜んでくれた。


「何もしてません」

「何もしなくて、こんなことが起こるか?」


 ムーシュも、どこか戸惑っているようで、視線をあちらこちらに彷徨わせている。

 が、やがて意を決したようにフォクセルの顔を見つめ、こう言った。


「皇帝陛下が直々に、お前をお呼びだ」


 フォクセルの頭から、すっと血の気が下がった。

 偽の使者を倒したあの日以来、皇帝陛下からはお呼びがかかっていない。

 今更何の用で呼ぶのだろう。

 まさか、知らぬうちに不敬ことでもしたのだろうか。

 呼吸も忘れて固まっているフォクセルに、ムーシュが険しい顔をして指南する。


「いいか、以前話したように、お辞儀を終えても頭は低くしているんだ。

 薄絹の中をまじまじと見てはならない。

 万が一、ご対面しても決して目を合わせぬように」


 ぱくぱくと口に開け閉めしながら、彼はムーシュの後に続いた。

 いつもと同じ廊下なのに、まるで悪夢の中を進んでいるようだった。






「ここだ」


 やがて、ムーシュが立派な樫の扉の前で止まった。

 普通は兵たちが扉の前に立っている部屋だが、今日は誰の姿も見えない。


「人払いをなされている。極秘任務かもしれんな」


 ムーシュの独り言に、フォクセルはますます青ざめた。

 剣技の練習をしているとはいえ、実際の任務はまだ一度しか経験していない。

 その一度にしても、フォクセル自身は一生懸命時間を稼いだだけだ。

 ムーシュすら緊張して、曲がった背中を最大限に伸ばしている。

 緊張の中、彼らは扉を叩いた。


「陛下、ただいまフォクセルが参上しました」

「よろしい」


 ゆったりとした低い声が聞こえ、フォクセルとムーシュはしずしずと扉を開け、できるだけ下を向いて部屋に入った。

 客間ほど広くはなかったが、床には色とりどりの絨毯が敷き詰められていた。

 壁際にはぎっしりと異国の家具や調度品が並べられ、一段高い場所には、やはり客間と同じように薄い布が垂れ下がっている。

 その薄絹の向こうに、長椅子に腰掛けた人影が見え––フォクセルは慌てて頭を低く下げ、お辞儀をした。


「フォクセルでございます。皇帝陛下にはご機嫌麗しく……」

「そう固くならずともよい」


 フォクセルの頭の上から、静かに、だが張りのある声が語りかけてきた。


「そなた、確か自分を英雄白騎士だと言っていたな」

「またまた、あんなものは戯言です。陛下もお人が悪い」

「ムーシュ。そなたは黙って、この手紙を取れ」


 ムーシュがおどけて笑ったが、皇帝は取り合わなかった。

 彼はおどけた表情を貼り付けたままで、薄絹に近づき、フォクセルの方からは布の中が見えないように横から入っていった。

 出てきたとき、ムーシュの手には白い封筒が握られていて、変わりにおどけた表情はすっかり消え失せていた。

 皇帝の柔らかな声が続く。


「実は、これがティルキア王国からの公式文書の束に紛れていた。

 誰かのいたずらかと思ったが、書かれている内容が不穏でな。

 お前なら、何か知っているのではないかな?」


 ムーシュが、真面目な顔でフォクセルに紙を手渡す。

 黒いインクで書かれた文字。錨にブドウが巻き付いたすかし模様がついた便箋。

 受け取った手紙をじっくり眺めたが、特におかしなところは見当たらない……見た目に関しては。

 フォクセルは白状しなければならなかった。


「僕……字が読めないのです。なんと書いてあるのですか?」


 はあ、とため息をついてムーシュが苦々しく言った。


「『カサン帝国の英雄白騎士殿に告ぐ』と書いてある」

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