第65話「ヤヤ君にキスしたよね? ――嫉妬に狂った怪物の死刑宣告」
ヤヤの身体を覆っていた灰色は、最後に――
左目を、静かに閉じた。
瞬間。
そこにあった“人”は、完全に消失した。
レインボーブリッジの中央。
夜の海風に晒されながら、ただ一体の石像が立ち尽くしている。
夕闇に沈む街の灯りを受けて、
その姿は――あまりにも美しく、
あまりにも、残酷だった。
「………………」
レインの呼吸が、止まる。
数秒。
――いや、一瞬だったのかもしれない。
次の瞬間。
「……は?」
喉の奥から、低い声が零れた。
「……」
瞳の色が、ゆっくりと失われていく。
怒り、嫉妬、恐怖。
感情の区別が溶け合い、黒い濁流となって溢れ出す。
「……なに、それ」
一歩、前へ。
「……なにそれ、なにそれなにそれ」
声が震え、
それでも足は止まらない。
「ヤヤ君に……なにしてるの」
冷え切った視線が、藤堂アヤネを射抜く。
「……殺してやるっ!!」
吐き捨てるように言い放った瞬間、
空気が、歪んだ。
レインは右手に意識を集中させる。
闇が凝縮し、風が鳴いた。
現れたのは、黒く濡れた傘。
《――ラルム》
その傘が開いた瞬間、夜そのものが軋んだ。
一方で。
ユウヒは、動かなかった。
いつもと変わらぬ、穏やかな佇まい。
だが――その目だけが、完全に温度を失っている。
「はぁ……」
小さく息を吐き、ユウヒは言った。
「いやぁ~、まさか藤堂さんが、エクリプスの構成員になっているとは思わなかったな~」
その言葉に、アヤネの眉が、わずかに揺れる。
ユウヒは続けた。
「……ねぇ、藤堂さん」
柔らかい声。
だが、そこに迷いはない。
「学校の屋上で、言ったよね?」
コツ、と一歩踏み出す。
「……ヤヤ君に手を出したら、殺すって」
そして、微笑んだ。
「……あれね。嘘じゃなくて、本当だったんだよ?」
右手に、淡い緑の光が灯る。
空気が震え、
花弁のような粒子が舞いながら、金属が形を成す。
音もなく顕現したのは、深緑の拳銃。
銃身には、蔓と花の意匠が絡みついていた。
「……フローラ・モルティス……」
アヤネは二人を見比べ、
そして――ユウヒだけを見て、首を傾げた。
「……私には、昔の記憶がありません」
静かな声。
「ですが……なぜでしょうか……?」
その視線が、不快そうに歪む。
「あなたを見ていると……この上なく、不快です」
ぞわり、と空気が軋む。
「は?」
レインが鼻で笑った。
「ちょっと。私のことは完全に無視?
……いい度胸じゃない!」
「……あなたには、特に何も思うことはありません」
アヤネは淡々と告げ、右手に意識を集中させる。
瞬間。
鈍色の禍々しいオーラが凝縮し、
石でできた異能のバットが現れた。
肩に担ぎ、
穏やかな微笑を浮かべる。
「……さっさと、死んでください」
次の瞬間、
アヤネは――消えた。
「っ!? 速い!!」
レインの叫びと同時に、距離が一気に詰まる。
無言。無表情。
上段から、容赦のない一撃。
「くっ……重っ!!」
レインはとっさに《ラルム》を構える。
衝撃が爆ぜ、アスファルトに亀裂が走った。
凌いだ、その刹那。
「……ネモフィラ」
ユウヒが引き金を引く。
淡い光弾が夜を裂く。
アヤネは余裕をもって回避――
だが、眉がわずかにひそめられた。
「……花の名を唱えると、性質が変わる銃弾……
なるほど」
ユウヒを見据え、静かに言う。
「ネモフィラの花言葉は……『嫉妬』」
石化したヤヤに視線を走らせ、
妖艶に微笑む。
「あなた、この方が好きですね?」
「……っ!!」
ユウヒは頬を赤らめ動揺する。
動きが、一瞬止まる。
その隙を逃さず、レインが叫んだ。
「だ・か・らぁぁぁっ!!
私を無視すんなぁぁぁ!!」
《ラルム》が振るわれ、
氷の斬撃が空間を裂く。
「霜裂っ――!!」
「……その攻撃……お返しします」
アヤネはバットで受け流し、
反射する。
「なっ……!」
「まずい! ローズ!!」
赤い光弾と氷が衝突し、爆発。
衝撃で二人は吹き飛ばされる。
間髪入れず、アヤネは地面にバットを叩きつけた。
「《撒石》……」
微細な灰色の粉塵が、夜気に溶ける。
そして――
「なによ……これ……」
「レインちゃん、足……!」
「……っ!? 石化……!?」
勝利を確信したように、アヤネは告げる。
「空気中に散布した、石化粉塵です。
吸い込んだ時点で、終わりですよ」
「ま、まずいわ。くっ……動かないっ!」
レインは必死になんとかしようと抵抗する。
だが抵抗するほど、石は侵食していく。
「……あなたはずいぶん落ち着いてますね」
アヤネはユウヒを見て不思議に思う。
ユウヒは、石像となったヤヤを見つめ、アヤネに問いかけた。
「藤堂さん。……教えてよ。
ヤヤ君の、どこがそんなにいいの?」
「一目惚れです」
頬を赤らめ、嬉しそうに語る。
「整った顔、綺麗な髪、スタイル、気だるげな雰囲気……全部好きです」
ユウヒは溜息をついた。
「……やっぱり、変わらないね~」
「……どういう意味ですか?」
「いやー、もうね。外見しかみてないじゃん。薄っぺらだなぁって」
アヤネの瞳が冷える。
「……あなたには関係ありません。
完全に石化した後、真っ先に粉々にしてあげます」
レインが叫ぶ。
「ちょっ……ユウヒ!
どうしてそんな余裕なのよ!」
ユウヒは、ひざまで石化した足をみた後、自信に満ちた顔をレインに向ける。
「大丈夫大丈夫~。こういうのって能力者を倒せば元に戻るパターンでしょ~?」
「こ、この状況でどうやって……本当に勝算あるの?!」
「うん。……それよりレインちゃん」
「な、何よ」
ユウヒはレインの目を真っ直ぐみつめる。
一瞬の沈黙の後、口を開く。
「……さっきはありがとね。
まだ頬は痛いけど……」
「……あの時の、ビンタ……?」
「うん。目が覚めた。あとは任せてよ。私に」
ユウヒはまだ石化してない右腕を動かし、手に持った拳銃を自分のこめかみに当てた。
アヤネはその行為の意味をしらなかった。
「……自殺ですか?」
「さぁー?それはどうでしょう?」
引き金。
「トリガーモード……オン」
光弾が脳に吸い込まれる。
その身体がふるえ、背中から――巨大な蝶の羽が咲いた。
光と闇が混ざり合うような、妖しく美しい輝き。
石化が砕け散る。
「っ!!……そんな切り札を隠してたんですね!」
「ヤヤ君……レインちゃん。待ってて。必ず勝つから……」
レインは石化しながら、黙ってユウヒをじっとみつめる。
石化が顔まで侵食した頃、レインはユウヒに伝える。
「……あんたに託すわ。信じてるから」
そういい残し、レインは完全に石化する。
ヤヤとレインが完全に石化した状態を確認して、ユウヒは、ゆっくりと振り返る。
夜の橋の中央。
石像と、蝶の羽。
そして――
藤堂アヤネと、向き合う。
ユウヒは、ゆっくりと息を整えた。
夜風が、蝶の羽を揺らす。
その音さえ、今は邪魔に感じられるほど静かだった。
「さてと……」
その声には――笑みがない。
「ヤヤ君も、レインちゃんも……今なら……」
アヤネの眉が、わずかに動く。
「……何を言って――」
「ねぇ、藤堂さん」
ユウヒは、首を傾げた。
その仕草は、あまりにも柔らかい。
けれど――
その瞳だけが、異様だった。
「ヤヤ君に、キスしたよね?」
少しの沈黙。
「どうだった?」
一歩、前に出る。
「……唇、柔らかかった?気持ちよかった?」
さらに、間合いを詰める。
アヤネの背筋を、ぞくりとしたものが走る。
「……だから何が言いたいんですか」
「うん、聞きたかっただけ」
ユウヒは、くすりと笑った。
「だってさぁ……
あの人、私のだから」
声は、穏やか。
まるで当たり前の事実を確認するように。
「一緒に歩くことも、触ることも……えっちなことも全部私だけの特権なんだよ~?」
蝶の羽が、ゆっくりと開く。
「レインちゃんの前ではさ……
こういうこと、言えなかったんだよね~」
「猫をかぶってたわけですか……」
アヤネの言葉の後、視線が石像となったヤヤへ向けられる。
「……ヤヤ君に嫌われたくなかったから」
「本当に……嘘つき女ですね」
そして次の瞬間、
その視線が、鋭くアヤネを貫いた。
アヤネは黙ったままユウヒの次の言葉を待つ。
「でも、今ならヤヤ君も、レインちゃんも……誰もみてないよね?聞いてないよね?」
声が、低く落ちる。
そして次の瞬間――
ユウヒの唇が、ゆっくりと歪む。
人のものとは思えない、
粘度を帯びた笑み。
愛と狂気が、同じ比率で溶け合った表情。
「……あはっ……♡」
喉の奥で、笑いが弾ける。
そして――
「藤堂アヤネは」
一音ずつ、噛みしめるように。
「私のヤヤ君に――手を、出した」
指先が、震える。
「キス、した」
少しの間。
「したんだよね?」
声が、上ずる。
「キスした」
繰り返すたび、理性が剥がれていく。
「キスしたんだぁ……っ!!」
最後は、悲鳴に近かった。
笑顔のまま、目だけが壊れる。
「――――――!!」
ユウヒを見て、アヤネは目を見開く。
あまりの変容に言葉が出てこなかった。
「ねぇ?」
囁き。
「それってさ……」
甘く、優しく。
「生きてていい理由、ある?」
アヤネの正前に立つ、その少女は嫉妬に狂い、殺戮衝動を爆発させた怪物そのものだった……




