第59話「シャボン玉の落下点」
――15時45分・千代田区 桜田門
ビルの屋上に立つカイトの足元を、冷たい風が抜けた。
東京の空は澄んでいるはずなのに、遠くの空気には焦げた匂いと、微かに金属が焼けるような刺激臭が混じっていた。
カイトはジャケットの内ポケットからタバコを一本取り出し、無造作に火をつける。
紫煙がゆっくりと立ち上り、視界の境目で揺れた。
「……さて。コードⅨのバカども、どこで遊んでんだか」
呟きは軽いが、目は鋭い。
ビルの縁に片足をかけ、桜田門周辺のビル群を見下ろす。
九条マリサ、神楽ミナ、如月リュウジ。
コードⅨ──ジャスティスの中でも遊撃色が強い三人組。
今日は警視庁付近の見回りの任務にあたっていたはずだったが、どこにも姿が見えない。
煙をふうと吐くと、その白い線が風に流れた──その瞬間だった。
ドォォオオンッッ!!
腹の底を揺さぶる爆音。
カイトの背中まで熱が届くほどの衝撃波が屋上を撫で抜けた。
「……おいおいマジかよ」
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桜田門の通りが、一瞬で地獄に変わっていた。
建物は吹き飛び、外壁は裂け、車は横転し、炎をあげて燃えている。
道路には瓦礫。黒焦げのコンクリ片。倒れた民間人の影。
まるで巨大な刃物で都市を切り裂いたような惨状だった。
その崩れた街のど真ん中で――三つの影が立ち尽くしている。
マリサは口を開けたまま、スマホを足元に落とし。
神楽ミナは耳をふさぎながら腰を落とし。
如月リュウジは身体を盾のように二人をかばっていた。
「ちょ、ちょっと待って……マジで何!? いまの!」
「え、爆発じゃん? 待って、待って……うちら死ぬとこだったんだけど!」
「落ち着け! 二人とも後退しろ。二次爆発の可能性が──」
混乱と恐怖に満ちた声が、瓦礫の街に跳ね返る。
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その時。
カイトのタバコから立ちのぼる煙が、突然ひとつの方向へと吸い寄せられるように細く伸びた。
「……そこかよ。やっと見つけたぜ、ばかチームⅨ」
煙は、爆心地近く──マリサたち三人の位置を確かに指し示している。
カイトはタバコを口から外し、足元に落とした。
煙が地面に染み込むように広がる。
そして次の瞬間――。
「《煙走スモークダッシュ》」
足元で淡い煙がふわりと広がる。
次いで、圧縮された煙が破裂し、爆ぜた風圧がカイトの身体を押し上げる。
黒い残像を引きながら、屋上から屋上へ。
カイトの身体はビルの縁を蹴るたびに、煙の爆発的加速で次のビルへ跳び移る。
そして最終のビルから、地上へ向けて一直線に降下。
爆風の残り香の中、カイトの足が着地した。
瓦礫が跳ね、粉塵が舞い上がる。
「……よぉ。生きてるか、コードⅨ」
突然の登場に、三人の顔が同時に跳ね上がる。
「……え!? なんでカイトがここいんの!?」
「そ、そうだよ。コードXIIIは浅草じゃなかったの~?!」
マリサとミナはもっともな疑問を口にする。
「……状況を説明しろ、カイト。
なぜお前がここに?」
リュウジも後に続く。それに対してカイトはタバコを吸い、煙を吐きながら答える。
「……緊急事態だ。よく聞け。16時にエクリプスが警視庁を襲う。」
その言葉に――三人は一瞬、呼吸すら忘れた。
「……は?」
マリサが間の抜けた声を漏らす。
「はあああ!? いやいやいや、警視庁ってうちらの担当エリアよね?!」
ミナは肩を震わせ、言葉を失っている。
「警視庁が崩壊すれば、日本は無法地帯へと変わる……悪夢だな。」
リュウジは拳を握り、鋭い眼でカイトを見た。
カイトは淡々と話を続けた。
「うちのバカップル……ヤヤとユウヒが拾った情報だ。国会議事堂、首相官邸、そして警視庁。
この三つを、16時ちょうどに同時攻撃する。そういう計画らしい。」
カイトはタバコを地面に押しつけ、三人を順番に見回した。
「……で、お前ら。ここからが本題だ。」
マリサとミナの背筋がびくりと跳ねる。
「警視庁を守る。俺ひとりじゃ手が足りねぇ。だから──力を貸せ、コードⅨ。」
その言葉に、リュウジは即座に頷いた。
「もちろんだ。警視庁が落ちれば国家防衛は崩壊する。俺たちが動くしかない。」
だが──
「え、いや……ま、待ってよカイト……」
「責任重いっていうかぁ……うちら、そういうガチ系より、もっとこう……ねぇ?」
マリサとミナは、露骨に嫌そうな顔をしながら後ずさる。
瓦礫がガラガラと転がり、二人の曖昧な笑いが虚しいほどに響く。
リュウジは眉間に皺を寄せた。
「お前たち。俺達はジャスティスだ。悪から国を守るのが……」
「リュウジ真面目すぎ~! 無理無理!他のコードチームに任せればいいじゃん!」
「そうそう! だって警視庁にケンカ売るってことはエクリプスの構成員のトップが集まるってことでしょ?うちらのレベル超えてるわよ!!」
カイトはふぅ、とタバコの残り香を吐きながら、半眼で二人を見た。
「……へぇ。断るわけか?」
二人は顔をそらし、曖昧な笑みをうかべた。
カイトは肩をすくめながら、わざと何気ない口調で言った。
「まあいいけどな。これ、コードIの茜坂ケイと──」
その瞬間、マリサとミナの動きが止まる。
「……」
「……」
「──茜坂シルファからの“正式な命令”なんだが。」
「ひっ!?」
「え、ま、ま、ま、待って、それ最初に言いなさいよ!!」
マリサの顔が紙みたいに白くなり、ミナは両腕をぶんぶん振って全力否定の姿勢に入る。
「無理無理無理! シルファさん命令なら従うしかないじゃん! ていうか逆らったら殺され……」
「ちょ、言わないで! 思い出すからァァ!!」
二人は同時に頭を抱えた。
──昔。
シルファの夫・茜坂ケイをナンパして、シルファ本人に半殺しにされた悪夢を。
思い返しただけで涙がにじむレベルである。
「あぁぁー!!もう!!や、やるわよ!やればいいんでしょ?! 」
「むしろ走る!! 今すぐ行く!! 急ぐ!!」
豹変したギャル二人を見ながら、カイトは鼻で笑った。
「話が早くて助かるねぇ。じゃ、行くぞ。」
リュウジだけが苦笑いを浮かべていた。
「……お前ら、本当に成長しないな。」
「うるさーーい!!」
「だまれ真面目!!」
ギャル特有の圧と声量が瓦礫の街に響く。
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――16時・警視庁本庁舎前
空気が、ひときわ冷たく沈んだ。
警視庁の門柱がゆっくりと揺れ、
地面に影が伸びる。
最初に聞こえたのは――けたたましい悲鳴だった。
「う、うわああああ!!助けて!!」
「な、なんだこれ!? 動けない──っ!」
「離せ!! シャボン玉なんかに……!」
その中心に、あり得ない光景が広がっていた。
職員たちが“シャボン玉”に包まれ、次々と上空へ吸い上げられていく。
ふわり、ふわり。
虹色に光る膜が、逃げ惑う警官の身体を優しくすくい上げる。
優しい……はずなのに、ただの地獄だ。
ビル壁のひび割れ。
路上に散らばる破片。
上空へ舞い上がる数十人の警視庁職員。
夕陽がその膜に反射し、
血の赤色と混ざり合って奇妙に輝いていた。
そして――
パチンッ。
まるで飴玉を指で潰すような、小さな音。
直後、十数メートル上空のシャボン玉が一気に破裂する。
「ひ──」
「落ち──ッ!」
重力に引きちぎられた悲鳴が、
街の空気に吸い込まれていく。
人体が、降る。
アスファルトに叩きつけられ、
鈍い音と血飛沫が次々に跳ねた。
静寂。
その中心にひとり、
まるで絵画の中から切り抜かれたような男が立っていた。
黒い杖を手にし、
銀灰色の前髪が片目を覆っている。
シャツの袖口は汚れておらず、
革靴もひとつの傷がない。
すべてが、まるでこの地獄を背景にした“舞台の主役”のようだった。
水島イツキ。
彼は淡く息をつきながら、空に舞い上がるシャボン玉を見た。
「……やっぱり綺麗だなぁ。
落ちる瞬間が一番、好きだ。」
その声は優しく、静かで、残酷だった。
杖の先端をアスファルトに軽く触れさせる。
コツ。
その一音を合図に、
周囲の空気がひしゃげるように歪んだ。
新たなシャボン玉が、地面から湧き上がる。
逃げ惑う職員たちの脚を絡め取り、
そのまま体を丸ごと閉じ込めた。
「や、やめ──」
「助けてくれ──ッ!」
だが膜はふわりと浮かび、
職員ごと上へ上へと運ぶ。
イツキは少し首を傾けながら、
淡々と観察するように呟いた。
「人間って……落ちるとき、みんな同じ顔になるんだ。あれが、面白いんだよ。」
パチン。
今度は、イツキ自身が指を鳴らした。
破裂音──落下──悲鳴──肉と骨の砕ける音。
まるで都市そのものが、殺戮の楽園と化していた。
その時だった。
地面を滑るように、白い煙が一筋走り込んできた。
「……どうやら本当だったようだな。」
低く、くぐもった声。
シャボン玉の影を切り裂くように、カイトが姿を現した。
続いて、瓦礫を踏んでマリサ、ミナ、リュウジの三人も駆け込む。
息を呑む彼らの前に広がるのは、
職員の死体と、空に舞う虹色の檻。
「……嘘……なにこれ……?」
ミナが青ざめて呟く。
「これ……全部、あの男がやったの……?」
マリサは震える手で口を覆う。
リュウジだけが、蒼白ながらも一歩前へ出た。
「……もうすでに数十名が殺されている。」
イツキはようやく、彼らに視線を向けた。
薄氷みたいな瞳の奥に、興味の色がほんの少しだけ灯る。
「……あぁ、君たち、警視庁の応援?」
笑っているのに、まったく温度がない。
「でも……うん。
死体は、多い方が綺麗かもしれない。」
杖の先端が光る。
その周囲の空気が、泡のように膨張し始めた。
カイトは舌打ちしながら、三人の前に立つ。
「……下がれ。
こいつ、マジで“やべぇやつ”だ。」
イツキは首をかしげ、
まるで無邪気な子供のような表情で囁いた。
「君たちも……これから殺すね?」
その瞬間、
シャボン玉の群れが一斉に再生し、
地獄の第2幕が開こうとしていた──。




