第53話「黒き秋葉原のチェックメイト」
秋葉原の街は死んでいた。
駅前の大通りは、人影が消えた代わりに黒煙と火花が散らばり、どこかの基盤がショートするような焦げた匂いが漂っていた。
キョウは倒れた街灯の横をゆっくりと歩き、耳に触れる風だけを頼りに周囲の気配を探っていた。
右手の携帯端末に通知が弾ける。
《各線運休。羽田・成田のフライト全便停止》
《新東名・東北道・関越・全ての高速道路閉鎖》
《関東圏への進入不可》
途切れることなく届く、"閉ざされた東京" の現実。
キョウは歯を噛み、深い溜息を吐いた。
「……まさかここまで徹底的に封鎖されるとはな。今都内にいるジャスティスのメンバーは25人。エクリプスの半分の戦力ということか……」
地方に散っていたコードチームは、これで完全に孤立した。
彼らの到着を待つ──という希望すら断ち切られたに等しい。
この街にいるのは、今ここにいる自分と……
そして、散らばった数名だけ。
「……この状況をどう打破する」
キョウは額に手を当て、そう呟く。
その瞬間――
風の流れが変わった。
無機質な静寂の中に、ひとつだけ生の気配が混じる。
キョウは背後へ意識を向け、誰よりも冷たい声で呟いた。
「……出てきていいよ。気配、隠しきれてないからね。」
金属が擦れるような音。
瓦礫を踏む、静かだが重い足音。
キョウの前に姿を現したのは──黒いタンクトップにジーンズ。逆立った黒い短髪。長身で鋭い眼光を持つ男。
明らかに他の人間とは雰囲気が違うその男は、ゆったりとした歩調で近づいてくる。
狩野ジン。
──かつてジャスティス最強の名を欲しいままにした“コードII”のメンバーの1人。
茜坂夫妻が加入するまでは絶対的エースと呼ばれ、
そして「次期ボス候補」とまで言われた男。
……だが。
過激な思想。
仲間を平然と捨てる冷酷さ。
非情な計算で語られた「秩序のための殺戮」。
すべてが問題視され、最終的に“追放”された人間。
ジンは立ち止まり、ゆっくりと口の端を上げた。
「久しぶりだな……キョウ。
こんな死臭の漂う街で再会とは、皮肉だな。」
キョウは目を細め、言葉を返さない。
数秒の沈黙の後、無感情に口を開いた。
「……お前、まさかエクリプスなんかに入ったのか。」
ジンは肩を竦める。
「“なんか”とは酷い言い方だな。元同じコードIIの仲間だったというのによ。
エクリプスは俺を追放したジャスティスよりは、ずっと“まっとう”な組織だぞ?」
「自分の価値観しか認めない連中のどこがまともなんだ。」
「ははっ。
それはジャスティスにも同じことが言えるだろ?
特にお前と……茜坂夫妻にな。」
キョウの表情が僅かに動いた。
ジンは喉の奥で笑い、続ける。
「あいつらが加入した時──俺は一瞬で理解した。
“この組織は変わる。自分の時代は終わった”とな。
お前がボスに選ばれた瞬間も同じだ。
くだらない正義と綺麗事が台頭し、俺の理想は『危険思想』と切り捨てられた。」
キョウの声は低く、鋭く、冷たい。
「……お前の理想は、仲間を守るためじゃなかった。
ただ、弱い者を“不要”と切り捨てるためのものだ。」
ジンの目がわずかに細くなる。
「弱い者は死ぬ──それは世界の摂理だ。
俺はその現実を肯定しただけ。
ジャスティスは綺麗事を押し付け、俺を悪に仕立て上げた。」
キョウはゆっくり距離を詰める。
踏みしめる瓦礫の音が、静かな街にやけに大きく響く。
「お前は追放されたんじゃない。
“ジャスティスが、お前の殺意に耐えられなかった”だけだ。」
ジンは笑みを深めた。
「殺意?
……違うな、キョウ。
俺が憎んでいたのは“役立たずが上に立つ組織”だよ。」
不意に、空気が変わった。
ジンの身体から殺意が漏れる。
キョウの背筋をぞくりと冷気が走る。
ジンは一歩前へ出た。
「キョウ。
今日ここで会えたのは──運命だ。」
「……」
「エクリプスがもっとも警戒する三人の内の1人……」
ジンは人差し指をゆっくりキョウへ向ける。
「天草キョウ。お前を殺す……」
「ジン……俺は今でも思っているよ。お前がボスにならなかったのは正解だったとね。」
キョウの瞳が冷たく光る。
その言葉にジンは怒りを爆発させる。
「なら……証明してみろよ。この世は勝った方が正義だよなぁぁ?!」
二人の殺気が、秋葉原の沈黙を切り裂く。
次の瞬間、世界が動く。
ジンの異能が顕現する。
《獣爪甲》──
黒鋼の爪が伸び、獣の牙のように輝く。
その向かいで、キョウは指輪《糸輪》に軽く触れた。
白い糸が、太陽の光に溶けるようにふわりと広がる。
「おいキョウ。俺はずっと思ってたぜ。
てめぇの戦い方は、どうにも“冷たすぎる”ってよ」
ジンの殺気が一気に膨れ上がる。
キョウは笑うでもなく、ただ静かに言った。
「冷たくていい。勝つために必要なら、心なんて後回しだ。」
「……だったら、力で全部壊すだけだッ!!」
秋葉原の廃墟に、黒い影が走った。
叫び声より先に、瓦礫が爆ぜる。
ジンの右腕に装着された《獣爪甲》が、一振りだけで地面をえぐり、鉄骨を紙のように切断する。
その一撃を、キョウは寸前で躱した――
はずだった。
「……ッ!」
次の瞬間、身体が横へ吹き飛んだ。
斜め後ろへ伸びた“見えない軌跡”が、
キョウの横腹を切り裂いていた。
ジンは爪を開いたまま、愉悦の笑みを浮かべた。
「避けたつもりか? 甘いんだよ。」
キョウが受けた傷は、鋭利で深い。
傷口から灰色の破片――街灯の鉄が落ちた。
「……斬っただけじゃない。鉄ごと削り取った……?」
「そうだ。俺の《獣爪甲》は“切る”んじゃねぇ。
“砕きながら裂く”。
お前の糸なんざ、触れた瞬間に粉微塵だ。」
次の瞬間、ジンの姿が消えた。
――速い。
キョウが反射で後退した地点へ、
破壊の爆風が巻き上がる。
ジンの爪が、地面を深さ2メートルのクレーターへ変えた。
キョウの背に冷汗が流れた。
(読めない……野生の本能というべきか……!)
ジンは振り返り、キョウの方に首をコキリと傾けた。
「頭で勝とうとすんなよ、キョウ。
“暴力”には“暴力”しか通じねぇ。」
そして――
十秒間。
ジンが消えた。
残ったのは衝撃音だけ。
連続で。
連続で。
キョウの身体に、破壊が刻み込まれていく。
「がはッ!……ぐはッ!!」
右肩が砕け、肋骨が折れ、片膝が音を立てて沈む。
瓦礫が舞い、地面が陥没する。
キョウが必死に糸でガードを張ろうとした瞬間――
ジンの腕が、音を置き去りにして伸びる。
糸の壁を貫き、キョウの胸を殴り抜いた。
空気が肺から抜け、一瞬、視界が白く飛んだ。
ジンはキョウの髪を掴み、顔を持ち上げて笑う。
「どうしたよ、キョウ。分析は終わったか?
それとも、殴られ過ぎて考える余裕すらねぇか?」
キョウは答えない。
ジンの圧力は、もはや“異能”という枠じゃない。
兵器。怪物。
それは昔から何も変わらない“勝つまで止まらない狂気”。
「もういい。終わりだ。」
腕を振り上げ――
見下ろすその瞳は、憎悪でも侮辱でもない。
“処刑”の色だった。
キョウの口角が、わずかに動いた。
「……そうだな。終わりだ、ジン。」
ジンの拳が落ちる。
だが――その瞬間、ジンの足に違和感が走った。
――引っ張られた?
足元を見たジンの瞳が揺れる。
瓦礫の影、折れた電柱、地割れ。
あらゆる場所から伸びた“細い糸”が、
ジンの足首・すね・太ももに絡みついていた。
「…………なに?」
キョウは血まみれのまま、ゆっくりと立ち上がる。
「……“布石”は今から効き出す。」
ジンが糸を力任せに引き千切ろうとするが――
切れない。
「あり得ねぇ……! 俺の《獣爪甲》が……切れねぇ?!」
キョウが低く言う。
「お前が暴れまわってくれたおかげで、
糸を“触れさせ続ける”時間が稼げた。
俺の糸は、触れ続ければ続けるほど強度が上がる……《累積強化》。その性質を……お前だけが知らなかった。」
ジンの顔から一瞬、色が消えた。
「まさか……お前、序盤からわざと――」
「ああ。最初からこの展開を狙っていたさ。」
キョウは指輪を構える。
「お前の強さも、速さも、癖も、衝動も……
全部把握した。」
糸が地面を走り、四方の瓦礫が跳ね上がる。
爆音を伴い、空中に“巨大な立体の檻”が形成された。
「《断界糸・黒牢》」
ジンを中心に、“動けば動くほど締まる檻”が形を成す。
ジンが叫ぶ。
「俺は……まだ負けてねぇッ!」
「だろうね。だから――これで終わりにする。」
キョウの指が弾かれる。
瞬間、“一点だけ”糸の結節が解けた。
巨大な網が重心を失い――
爆発的な収束を起こす。
無数の糸が、ジンの身体を渦状に締め上げた。
筋肉が軋み、骨が悲鳴を上げ、
鋼鉄のような身体が、初めて本気で破壊されていく。
「ぐぅああああああああああ!!」
それでもジンは叫びながら前へ進んだ。
胸を裂かれ、腕を締め上げられ、
脚を千切られそうになりながらも――
――一歩。
――また一歩。
キョウの方へ。
「俺は……まだ……!」
倒れない。
諦めない。
その姿に、キョウはほんの一瞬だけ、
胸の奥が痛んだ。
「……ジン。
お前は……誰よりも強かったよ。」
ジンが最後の力で、血の泡を吐きながら笑う。
「……わかってる……わかってんだよ……
キョウ……お前の“正義”が……
俺には……届かなかった……」
そして、糸が最後の結節に到達した。
「……あばよ。」
キョウが囁き、指を下ろす。
「《断界糸・王手》」
白い閃光。
ジンの胸を貫き、
遍く糸が一斉に収束し――
静寂が訪れた。
ジンは跪き、前のめりに倒れる。
地面に落ちる瞬間、かすかに笑った。
キョウはその死を真正面から受け止め、
目を閉じてひとつ息を吐いた。
そして――誰に向けるでもなく呟く。
「……正義は勝つために使う言葉じゃない。
“背負った命に嘘をつかないこと”だ。」
秋葉原の風が、ゆっくりと二人の間を通り抜けた。




