第5話「蜉蝣の銃《かげろうのつつ》」
夜のラブホテルの廊下は静まり返っていた。黒澤シロウは薄暗い照明の中、目の前で眠る女性の顔を見下ろす。手にしたグラスには、すでに睡眠薬が溶け込んでいる。今夜も夢を喰らい、身体をさらに超人的に強化する——その瞬間の快感を、彼は抑えきれない。
しかし、ドアのノックが突然、静寂を切り裂いた。
「……誰だ?」
警戒心を隠せぬまま扉を開けると、廊下には誰もいない。床に置かれた封筒だけが、淡い光に照らされていた。手に取り、中を覗くと、そこにはきっぱりとした文字でこう書かれていた。
『黒澤シロウ、貴様の企みはすべてお見通しだ。今から屋上にこい——貴様を殺す』
シロウは一瞬、眉をひそめた。これが誰の仕業か——手紙からは名前も姿も読み取れない。しかし、彼の感覚は知っていた。この罠は、単なる偶然ではない。
やがて屋上へと向かう。エレベーターを降り、非常階段を抜けると、開けた屋上が目の前に現れた。月明かりがコンクリートの床を銀色に染め、夜風が鋭く頬を撫でる。
少し離れた距離で、三人の影が浮かぶ。殺気を纏ったその姿——ヤヤ、カイト、レイン。
「黒澤シロウ……来たな」
低く響く声。カイトの唇がわずかに歪む。その言葉にシロウは鋭い目付きで尋ねる。
「……何者だ?あの手紙はお前達が書いたものなのだろう?」
「ふふっ……ええ、そうよ。私達は殺し屋ジャスティス。悪を裁く正義の殺し屋ってところかしら。あなたの悪事は見過ごせないの。だからここで死んでもらうわ♡」
「ジャスティス……異能の力を持った政府の犬どもか……クックック……今日は運がいい。四人の夢を喰らうことができそうだ」
シロウは薄く笑った。だが、その笑みの奥に、わずかな緊張が走った。月光の下、三人と向き合うその瞬間、屋上の空気が張り詰め、時間が止まったかのようだった。夜の風が、灰色のコンクリートをなでていた。街の喧騒はここまで届かない。ネオンの光だけが、遠くで脈打つ心臓のように瞬いている。
黒澤シロウはゆっくりと前に出た。
獣のように研ぎ澄まされた眼光。
その足取りには、躊躇という言葉が存在しない。
「さて……どっちから喰ってやろうか」
その声に、カイトが小さく笑った。
唇の端に煙草を咥え、火をつける。赤い火が風に揺らめき、瞬間、彼の瞳が焔のように光った。
「ヤヤ。さっきも言ったが……お前は今回は見とけ」
カイトの声は低く、落ち着いていた。
「殺し屋の戦いってのがどういうものか……見て覚えろ」
ヤヤは返事もせず、ただ静かに見つめていた。
その瞳は、獲物を狙う蛇のように冷たい。
だが、表情には一切の焦りがなかった。初仕事とは思えない沈黙。
カイトは煙を吐き出す。
白い煙が夜気に溶けると同時に――
「燃えろ、“灰鎖”」
タバコの先から放たれた灰が、瞬く間に鎖のような形へと変貌した。
金属のような光沢を帯びた灰の鎖が、蛇のように宙を走り、シロウの足元へ襲いかかる。
「っ……!」
シロウは即座に後退。
床を蹴ると、異常な脚力で数メートル先へ跳んだ。まるで弾丸のような速さ。
「やるな……異能ってやつは厄介だ」
シロウは口角を上げ、懐からナイフを抜いた。
銀の刃に月光が反射し、閃光が走る。
「だが、俺もただの人間じゃない。覚醒水晶で力を得たのはお前らだけじゃないってことを教えてやる。夢を喰らえば、俺は神にもなれる!」
叫びと共に、シロウの筋肉が膨れ上がる。血管が浮き、皮膚がひび割れた。
人間離れした跳躍――次の瞬間、彼の姿はもうカイトの目の前だった。
ギィンッ!
ナイフと灰鎖がぶつかり、火花が散る。
カイトの腕から伸びる灰鎖が、まるで意志を持つかのようにナイフを絡め取り、ねじり潰そうとした。
だがシロウもただの化け物ではない。
異常な反応速度で鎖を引き裂き、逆にカイトの懐へナイフを突き込む――!
「させないっ!」
その刹那、レインの声が響いた。
彼女の手元で黒い傘が開かれる。
その傘の表面は、まるで夜そのもの――光を吸い込むような闇色。
「“リフレクト・シャドウ”」
シロウの突きが傘に弾かれ、ナイフは逆に彼自身の肩を切り裂いた。
「……なっ!」
血が飛び散る。反射の衝撃に顔を歪めるシロウ。
レインは傘を軽く回しながら微笑んだ。
「この傘、攻撃を“返す”の。男の攻撃も、言葉もね♡」
カイトが短く笑う。
「洒落てんな、レイン。……だがまだ終わっちゃいねえぞ」
再びタバコをくわえ、深く吸い込む。
その煙がカイトの背後で渦を巻き、無数の鎖となって屋上一帯に広がった。
「“灰獄”――逃げ場はねぇ」
鎖が地面を這い、柱を伝い、まるで蜘蛛の巣のようにシロウを包囲する。
シロウは息を荒げながらも笑った。
「ハァ……ハァ……おもしれぇ……!なら、全部喰ってやる!!」
彼の両目が赤く染まり、全身の筋肉がさらに膨張。
地面を蹴ると、爆発のような衝撃が走る。
鎖がいくつも弾け飛び、コンクリートの破片が宙を舞った。
「来るぞっ!」
カイトが叫ぶ。レインが傘を構えた瞬間、シロウは弾丸のように突進――
しかし、その進路の先にヤヤが立っていた。
「なぁ?!逃げろ!ヤヤ、今はお前の出番じゃねぇ!」
カイトが叫ぶ。
だが、ヤヤは動かなかった。
その瞳に、ほんの一瞬、奇妙な光が宿る。
「……夢を喰う力、ね。なるほど」
シロウの刃がヤヤの胸元を貫かんと迫った――
その瞬間、空気が歪んだ。時間そのものが息を止めたように、世界が凍りつく。
ヤヤの右手に、黒い光が集束していく。
闇の中から、滑らかな金属の輪郭が形を取り――それは漆黒のリボルバーとなって現れた。
「――蜉蝣の銃……」
その銃口がわずかに上を向き、ヤヤの指が引き金を絞る。
静寂を切り裂く一発の銃声。
夜風さえも、その音に怯えるように止まった。
闇を纏った弾丸が一直線に走る。
シロウのナイフを握る右腕に直撃――瞬間、光も音もなく、その腕が消えた。
「……あ……?」
シロウの表情が凍りつく。
血が流れることもない。肉片も、骨も、存在の痕跡すら残っていなかった。
まるで、最初からその腕がこの世に存在していなかったかのように。
カイトが目を見開く。
「……腕ごと、消えた……だと?」
レインも息を呑む。
「……な、何をしたの、ヤヤ……?」
ヤヤはリボルバーを下ろし、低く呟いた。
「“想像の弾丸”。俺がイメージした通りの効果を得る弾。
今の弾は――過去へ時間を遡る力を持っている……その腕はコイツが生まれる前の“無”へ戻した」
シロウは片腕を失いながらも、なおも笑おうとした。
だが口を開くより先に、膝から崩れ落ちる。
肉体強化による歪な身体は、もはや支えを失い、静かに瓦解していった。
ヤヤはその姿を黙って見下ろし、短く息を吐いた。
「任務完了……」
屋上に、再び静寂が訪れる。
月明かりの下、三人の影が長く伸び――
ただ、夜風だけがゆっくりと、消えた右腕のあった空間を撫でていった。




