第47話「笑いを忘れた日。悪魔との契約」
時は一週間以上前に遡る。
夕暮れの学校帰り。
空は沈みかけた橙と群青のあわい。
街のざわめきが少しずつ遠ざかっていく。
藤堂アヤネはゆっくりと歩いていた。
手に持っていたカバンの持ち手を、無意識に強く握りしめている。
爪が白くなるほど。
——私、ヤヤ君にフラれたんだ……
視界が滲んで、アスファルトがぼやけて見えた。
涙がこぼれたのに、袖で拭うことすらできない。
(どうして……どうして、私だけこんな……)
心の奥で、誰にも聞こえない声が震えていた。
ヤヤの言葉。
あの優しい声が、何度も何度も頭の中で反響する。
「……気持ちは本当に嬉しかった。ありがとう。でも……応えられない。」
優しさの形をしていた拒絶。
その残酷さが、胸を締めつける。
彼の隣に立っていたのは――浜中ユウヒ。
笑っていた。
何もなかったように。
自分を見下ろすような、あの無垢な笑顔。
(あの子が邪魔したせいだ……あの子さえ……あの子さえいなければ……殺したい、殺したいっ!!)
ふと、風が吹いた。
髪が揺れ、頬を伝う涙が乾いていく。
通学路の角を曲がる。
見慣れた公園のベンチ。
そこに座り、うつむいたまま膝の上で拳を握った。
遠くから、子どもたちの笑い声が聞こえる。
幸せな音が、今の自分には耳障りだった。
「……浜中ユウヒ」
小さくつぶやく。
その声には、もう迷いがなかった。
「こうなると最初から全部わかってて……奪ったんでしょ。」
口にした瞬間、胸の奥が冷たくなった。
涙が止まり、代わりに静かな怒りが広がる。
(私、許さない。絶対に――)
視界の端で街の灯りがともり始める。
アヤネの表情から、悲しみの色はもう消えていた。
代わりに残っているのは、
静かに燃える、憎しみの光だけ。
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夜が落ちた。
街灯がまばらに灯る住宅街の道。
アヤネは俯いたまま歩いていた。
スマホの画面には、誰からも来ないメッセージアプリの通知。
その白い光が、彼女の顔を淡く照らす。
(……どこにも、居場所なんてない。)
学校でも、家でも。
笑っても、優しくしても――誰も本当の自分を見ていない。
ヤヤの「ありがとう」という言葉さえ、もう刃のように思えた。
足音が二つ、夜の静寂に混ざる。
後ろからゆっくりと近づく気配。
「……夜道、ひとり?」
声は、驚くほど柔らかかった。
アヤネが振り向くと、そこには大学生くらいの青年が立っていた。
整った顔立ちにスラッとした抜群のスタイル。
月明かりに照らされた横顔は、どこか憂いを帯びている。
「……びっくりさせた?ごめん。あまりにも美人だと思って。」
「……そういうの、大丈夫です。」
小さく会釈をして、アヤネは再び歩き出そうとした。
だがその背に、彼の声が静かに届く。
「君、泣いてたでしょ。」
足が止まる。
「……え?」
「目が赤い。無理して笑ってたでしょ。……何かあったんだね。」
アヤネの喉が震える。
誰にも触れられたくなかった痛みを、簡単に見抜かれた気がした。
「……あなた、誰ですか?」
「桐ヶ崎トワ。慶立大学で心理学を学んでる。……怪しい人じゃないよ。」
トワは苦笑してポケットから学生証を見せる。
そこに刻まれた大学名と顔写真が、ほんの少しだけアヤネの警戒を解いた。
「……そうですか……」
「ねぇ、こんな夜に一人で歩いてるの、もったいないよ。少し話さない?すぐそこにいい喫茶店あるんだ。人もいるし、安全だよ。」
少し迷った。
けれど、アヤネの中で何かが折れていた。
誰でもいい。
誰かに、話を聞いてほしかった。
「……少しだけなら。」
その言葉に、トワは穏やかに微笑んだ。
「よかった。君みたいな子が泣いてると、見過ごせなくなるんだよね。」
二人は並んで歩き出す。
街灯が途切れるたび、影が交わる。
トワの横顔には、温かい光が差していた。
けれどその瞳の奥には、淡く黒い色が沈んでいた。
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店内は静かで、夜のジャズがかすかに流れていた。
温かな照明の下、アヤネの前には湯気の立つカフェオレ。
トワはコーヒーを頼み、穏やかな声で問いかけた。
「何かあったの?」
「……別に。ただ、ちょっと疲れただけです。」
「そっか。がんばりすぎたんだね。」
その一言に、胸の奥がじんと熱くなった。
アヤネは不思議と、言葉を続けていた。
学校のこと、友達のこと、家のこと――誰にも言えなかったことを、少しずつ。
トワは時折うなずきながら、決して急かさず、否定もしなかった。
その優しさに、アヤネの緊張が解けていく。
「……なんか、話してたら楽になりました。」
「それならよかった。」
トワは微笑み、カップを軽く揺らした。
「人って、誰かに聞いてもらうだけで少し救われるものだよ。」
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外に出ると、夜風が頬を撫でた。
店を出て並んで歩く二人。
アヤネはいつのまにか、自然と笑顔を浮かべていた。
「送るよ。こんな時間、危ないし。」
「……でも、ご迷惑じゃ」
「君が無事に帰る方が大事でしょ。」
軽く笑うトワ。
その言葉が、妙に優しく胸に染みた。
一緒に歩く帰り道。
足元に落ちる二人分の影が、街灯のたびに伸びて、また重なっていく。
アヤネはゆっくりと口を開いた。
「……今日は色々私の辛いことを聞いてくれて、ありがとうございます。」
「気にしなくていいよ。少しだけ、君の顔、明るくなったね。」
トワはそう言って微笑んだ。
その笑顔が本物なのかどうか、アヤネにはもう分からなかった。
ただ――その声の温度に、心が少しだけ軽くなったのは確かだった。
トワは少し前を歩きながら、ふと振り返った。
「夜って、不思議だよね。昼よりも本音が出る気がする。」
「……本音?」
「うん。みんな昼間は“いい人”を演じてる。でも、夜になると本当の顔が出る。」
アヤネはその言葉に、小さく笑った。
「……そうかもしれませんね。」
「君も、今日話してくれたこと――昼間なら言えなかったでしょ。」
「……はい。」
「正直で、いいと思うよ。」
トワの横顔には穏やかな笑み。
だが、その瞳の奥に映る光が、ほんの一瞬だけ冷たく揺れた。
曲がり角を過ぎた瞬間だった。
パスッ。
乾いた空気を切る音。
アヤネの肩のすぐ横を、何かが掠めて電柱に突き刺さる。
金属の反響音が、静かな路地に響いた。
「――っ!!」
アヤネが息を呑む。
トワは素早く彼女の腕を掴み、壁際へと引き寄せた。
「伏せて!」
低く鋭い声。
さっきまでの穏やかさが嘘のようだった。
アヤネは震える声で問う。
「な、なに……いまの音……?」
「……おそらく……銃声だ。」
トワの声は落ち着きすぎていた。
まるで、こうなることを“知っていた”かのように。
通りの向こう、ビルの屋上。
そこに、一瞬だけ赤いレーザーポイントの光が走る。
しかし、それはすぐに消えた。
「……逃げるよ。」
トワはアヤネの手を握り、裏路地の奥へと走り出す。
アスファルトを打つ靴音。
冷たい風。
「……トワさん……どうして、私が狙われるの……?」
「わからない。だが何者かが君を殺そうとしてるのはたしかだ」
短い言葉。
けれどその声には、優しさよりも“確信”を持っていた。
アヤネはその言葉の意味を考えようとした。
けれど、その瞬間――
「――っ!!」
乾いた破裂音が、夜を切り裂いた。
世界が一瞬だけ静止する。
次の瞬間、アヤネの身体が小さく跳ねた。
胸の奥に焼けるような痛み。
空気が肺に入らない。
何かが喉の奥を逆流して、赤いものが口からこぼれた。
トワが叫ぶ。
「アヤネ!」
トワの腕の中で、アヤネの身体がぐったりと崩れた。
白いシャツが、じわじわと赤に染まっていく。
呼吸がうまくできない。
世界が、遠ざかるようにぼやけていく。
(……ああ……ここで死ぬんだ…………)
視界の隅に、オレンジ色の街灯が滲んで見えた。
「くっ……!このままじゃ……!!」
トワの声が震える。
(どうして……)
(どうして、こんなことに……)
あのとき笑っていたヤヤの顔が浮かぶ。
――ありがとう。でも、応えられない。
その言葉がまた、耳の奥でこだまする。
(“応えられない”って……なに……?……意味がわからないよ……どうみても私があの学校で一番可愛かったじゃん……)
胸の奥で、何かが崩れていく。
温かいものが、全て色を失っていく。
(優しくなんて……してほしくなかった……)
(そんな顔で、突き放さないでよ……)
涙がこぼれる。
血と混じって、頬を伝っていく。
「アヤネ……」
トワが
彼の声だけが、かすかに耳に届く。
でも――もう、誰の言葉も、どうでもよかった。
(誰も、私なんかいらない……)
(学校も、家も、ヤヤ君も……)
(みんな……みんな……)
唇が震え、声にならない嗚咽が漏れる。
目の奥で、ユウヒの笑顔が弾けた。
あの無垢な笑み。
あれがすべての始まりだった。
(あの女が、壊したんだ……)
(ヤヤ君を奪って、私の居場所を奪って……)
(殺してやりたい……)
その憎悪が、最後の“生”の火種のように燃えた。
身体は動かないのに、胸の奥だけが熱くなる。
死にたくない――
「……どうして……」
かすれた声が、空に溶けた。
「どうして……私だけ……」
トワがその手を強く握る。
そして少しの沈黙の後、アヤネに問う。
「……生きて復讐したいかい?君の人生を狂わせたその浜中ユウヒに……。そしてこの理不尽な社会そのものを変えたいと思わないか?」
「……!」
アヤネの胸が、浅く上下している。
夜気が肺に入るたび、激しい痛みが走る。
血の味が、舌の上に広がっていく。
「……はぁ……はぁっ……」
喉が焼けるように痛い。
それでも――まだ、生きたい。
(死にたくない……!)
(まだ終わりたくない……!)
(あの女に……あの笑顔に、すべてを壊されたまま……終わるなんて……!)
「……生きたい……」
掠れた声が、震える唇から零れた。
トワがゆっくりと彼女の顔を覗き込む。
その瞳は、まるで深い湖の底のように、静かで――どこまでも冷たい。
アヤネは震える手で、トワの服を掴んだ。
その目は、涙と血で濡れていた。
「生きたい……っ!あの女を……ユウヒを殺したい……!月野ヤヤを手に入れたい!!」
声は壊れたように荒く、嗚咽混じりだった。
「そして全部……壊したい……!こんな世界なんて……!」
トワは微かに微笑んだ。
その表情は、優しさとも残酷さともつかない。
「そうか……いい子だ。」
彼はそっとアヤネの頬に触れた。
その手は冷たいのに、不思議と痛みが和らぐようだった。
「……君のその願い、俺が叶えてあげる。」
アヤネの瞳が揺れる。
「……叶……え……る?」
「そう。君が憎むものを、すべて消す力をあげよう。」
トワは穏やかな声で続ける。
「君が望むなら、君の命を“終わらせる”ことも、“生まれ変わらせる”こともできる。……どちらにしても、このまま苦しむ必要はない。」
アヤネの視界が、ゆっくりと暗く滲んでいく。
(……この人は……神様……?)
(……それとも、悪魔……?)
そのどちらでもよかった。
ただ――誰かに“救われたい”と願った。
「……お願い……」
「なにを?」
「……助けて……私に……力を」
トワの唇が、ゆっくりと笑みに歪んだ。
「いい子だ。」
彼はアヤネの頬を撫でながら、そっと彼女の胸に手を添えた。
「アヤネ。君の命、俺が救うよ。」
その言葉は、祈りのように優しく響いた。
――だが、次の瞬間。
彼の手に、黒い刃が閃いた。
冷たい金属の感触が、皮膚を割る。
アヤネの瞳が見開かれ、息が止まる。
「……トワ、さ……」
「静かに。」
トワの声はまるで子守歌のようだった。
「これでいいんだ。君は苦しみから解放される。次に目を覚ます時――君はもう、“今までの藤堂アヤネ”じゃない。」
血が、夜のアスファルトに静かに落ちる。
まるで花が咲くように広がっていった。
アヤネの視界の中で、街灯がひとつ、またひとつ滲んで消えていく。
その中で、トワの声だけが、鮮明に響いていた。
「さぁ、一緒に行こう。この理不尽な世界を――壊そう。」
最後に見えたのは、月の光に照らされた彼の笑顔。
それは、優しく、そして――底知れず冷たかった。
――夜風が、ふたりの影を撫でて通り過ぎていく。
その直後、世界から音が消えた。
アヤネの呼吸も、鼓動も。
そして、彼女という“存在”も。
ただトワだけが、夜の静寂の中で微笑んでいた。
「ごめんね……僕の夢のため、君には生け贄になってもらうよ……」
その声は、まるで誰かへの報告のように静かだった。
――そして、夜が完全に落ちた。




