第20話「再会と初恋」
古びた時計の針が、午前四時を指していた。
街はまだ眠りの底にあり、
ノクターンの中だけが、かすかなランプの灯で夜を保っている。
ドアベルが鳴った。
ヤヤ、カイト、レイン――三人の影が、血と硝煙の匂いを連れて戻ってきた。
カウンターの奥、琥珀色の光に照らされて、
天草キョウはいつものようにカウンターの奥、革張りのソファに腰を下ろしグラスを軽く掲げた。
「……帰ったようだね。任務は?」
ヤヤが一歩前に出る。ヤヤはキョウにターゲットの写真を見せながら報告する。
「報告だ。対象――黒蓮幇工作員、Lùhuā(露花)の正体は浜中ユウヒ。ターゲットは……生存している。気絶した彼女を自宅に今さっき送ってきた」
一瞬、空気が止まった。
キョウの視線がヤヤを射抜く。
「……浜中ユウヒ?……“生存”?」
低い声。
その一言だけで、カイトが思わず肩をすくめた。
「いや、違うんです。ボス!あの女……浜中ユウヒは、敵として戦ったが、“呪い”によって操られてたんだ。自我を奪われてた」
レインが続ける。
「彼女は意志を失ってた。殺しじゃなく、救いが必要だったの。ヤヤ君が……それを、選んだのよ」
キョウの目が、ゆっくりとヤヤに向く。
琥珀色の瞳が、冷たく、深く光る。
「……それは本当かい?」
ヤヤは一瞬、唇を噛んだ。
だがそのまま、まっすぐに前を向く。
「ああ。悪い奴じゃなかった……優しすぎるくらいに。だから俺はユウヒを殺せなかった。あのときのユウヒは、敵なんかじゃなかった。“助けを求めてた”。だから、イマジンバレットで呪いだけを解除した――殺すためじゃなく、救うために」
沈黙。
長い、長い沈黙。
氷がグラスの中で小さく鳴った。
やがて、キョウがふっと息を吐いた。
グラスを置き、呟く。
「……“救済”か。まったく、君らしい判断だな、ヤヤ」
カイトが驚いたように眉を上げる。
「え、怒らないんですか、ボス?」
キョウは笑わなかった。
ただ、どこか遠い夜を見るような目をしていた。
「怒る理由はない。我々の仕事は悪を滅することだ。ターゲットが悪でないならば殺す必要はない」
その言葉にヤヤはキョウから目を反らしながら、静かに礼をいう。
「……ありがと」
レインが息をつき、少しだけ笑った。
「ほんと、素直じゃないわよね。でもよかったわ」
キョウはウイスキーを注ぎながら、淡く言葉を続けた。
「黒蓮幇の工作員が“呪い”を受けてた……その情報、価値はある。政府の上層部に報告する。ただし――この件は内部機密として扱う。浜中ユウヒの生存も、“救済”も。外には一切漏らさないでもらえるかな?」
「了解です」
三人が同時に頭を下げる。
キョウは一瞬だけ、ヤヤを見つめ――
ほんのわずかに、笑みのようなものを浮かべた。
「……それとヤヤ」
「なんだ?」
「君に新たな任務だ。その浜中ユウヒをしばらく監視しなさい。まだ疑いが晴れたわけではないからね」
「……えっ?!監視って……」
「浜中ユウヒと言う名前と写真を見て思い出したことがある……まさかのことだったよ。ヤヤ。君がその子を撃たなかったのは、間違いじゃない」
キョウは三人にその内容を話す。そのまさかのことに三人は目を見開き、言葉を失うのだった。
--------二週間後-----------
ここは青山学園高校。元々女子校だったが去年から共学となったばかりの都内屈指の名門校である。一クラスに男子は一人か二人しかいない。そんなほぼ女子校のような学校に浜中ユウヒは通っていた。
そして今日はやけに雨の匂いが教室を満たしていた。静かな朝。窓を打つ雨粒の音が、遠く感じる。
ガラス越しに見える街は、ぼやけた灰色のヴェールに包まれていた。
人も車も、みんな滲んで見える。
まるで世界ごと夢の続きみたいに、現実感がなかった。
浜中ユウヒは机に頬杖をついたまま、ぼんやりと外を見ていた。
長い前髪の隙間から、時おりスマホの画面を覗く。
通知は、ない。
電波はあるのに、世界のどこにも“あの人”はいない気がした。
『ヤヤくん、大丈夫?』
『あの後、ちゃんと眠れてる?』
『傷とか……残ってないよね?』
『返事、くれると嬉しいな』
『私……また、会いたいよ』
指先が震えながら、何度も送っては、後悔する。
既読はつかない。
“送信済み”の文字だけが冷たく並んでいく。
それが――もう二週間。
昨日の夜も眠れなかった。
ベッドの上で天井を見つめながら、あの夜の光景が何度も頭をよぎる。
闇の翼、銀の髪、紅い瞳。
それでも最後に見たのは、悲しそうな笑みだった。
(……あれは、夢なんかじゃない)
けれど現実のヤヤからは、何も届かない。
声も、言葉も、気配さえも。
(もしかして……嫌われたのかな)
胸の奥が締めつけられる。
“あんな姿を見たから、もう関わるなってことなのかな”
“あれは、任務だっただけ?”
思考がぐるぐると渦を巻くたびに、スマホの画面を開いては閉じた。
指が勝手に動いてしまう。
送らないと落ち着かない。
『ヤヤくん。ねぇ、ほんとに無事?』
『返してよ、せめて“うん”だけでもいいから』
『……ねぇ、ヤヤくん。私、あの時ちゃんと“ありがとう”言えてなかったんだ』
送った瞬間、胸が痛くなる。
自分の声が届かない場所に、ただ必死に手を伸ばしているようだった。
周りの女子が笑っている。
教室の空気は明るいのに、自分だけ別の世界にいる気がした。
――“もう、会えないの……?嘘……だよね?”。
ユウヒはそう思いながら、そっとスマホを伏せた。
画面に映った自分の表情は、泣きそうに歪んでいる。
「……いやだ……いやだよ……会いたいよ」
机の上に落ちた涙を、慌てて袖で拭う。
右隣の席の女子が心配そうに覗き込んだが、ユウヒは小さく笑って誤魔化した。
「だ、だいじょうぶ。寝不足なだけ……」
――嘘だった。
本当は、息をするたびに胸が痛んだ。
そんな時、朝のホームルームのチャイムが鳴った。
窓を打っていた雨の音が、少しずつ弱まっていく。
天草先生が教室に入り、教壇に立つ。いつもの柔らかい笑みを浮かべながら、手にした出席簿を軽く叩いた。
「えー……君たち、今日はちょっと特別な日だ」
ざわ、と小さなざわめきが走る。
女子たちは顔を見合わせ、男子の一人が小声で「また行事か?」とつぶやいた。
だが、天草先生の口元に浮かぶ微笑みは、いつもとどこか違っていた。
「今日からこのクラスに、新しい仲間が加わる。
転校生だ――仲良くしてやれよ」
その瞬間、
“カタン”とドアの向こうでノブが回る音がした。
まるで合図のように、
厚い雲の切れ間から、一本の光が教室に差し込む。
雨が止んだ。
あれほど灰色だった世界が、嘘のように明るくなっていく。
濡れた窓ガラスを光が照らし、虹色の粒が浮かび上がった。
“奇跡”という言葉が、ふと頭に浮かぶ。
ユウヒは、息を呑んだ。
まぶしさに目を細め、ドアの方を見た。
――そこに、彼が立っていた。
濡れた黒髪を指でかき上げ、
少しだけ眠そうな顔で、でも確かに“あの時”のままの彼。
制服のネクタイを緩く結び、教壇までゆっくりと歩く。
教室のざわめきが、どんどん遠ざかっていく。
ユウヒの耳には、鼓動の音だけが響いていた。
(……うそ、でしょ……?)
息が止まる。
視界がにじむ。
何度も夢に見た姿が、いま現実の中で動いている。
天草先生が軽く咳払いをして、紹介する。
「じゃあ、自己紹介を頼む」
ヤヤは短く頷いた。
黒板の前に立つと、ポケットに手を入れたまま、静かに口を開く。
「……月野ヤヤ。青山学園には、今日からお世話になります。……よろしく」
ただそれだけの言葉。
けれど、その声が教室に響いた瞬間――
ユウヒの胸の奥で、何かが弾けた。
指先が震える。
頬を伝う涙が止まらない。
やっと、やっと会えたのに、声が出ない。
ヤヤの目が一瞬、教室の奥を見た。
その視線がユウヒに触れた瞬間――
ほんのわずか、彼の口元が緩む。
まるで「おかえり」と言っているようだった。
光がカーテンの隙間から溢れ、
教室全体が眩しいほどに照らされる。
天草が出席簿を軽く閉じながら言う。
「じゃあヤヤ、席は……そうだな。浜中の左隣だ。空いてるだろ?」
その一言に、教室の時間がまた止まった。
ユウヒの胸が大きく跳ねる。
心臓が、痛いほど高鳴っている。
(ヤヤくんが……私の隣……?)
ヤヤは軽く頷くと、教室の中央をゆっくり歩き出した。
陽だまりが彼の足元を追いかけるように差し込む。
一歩ごとに、雨上がりの光が広がっていく。
ユウヒは動けなかった。
視線を逸らすことも、呼吸を整えることもできない。
やがて、彼が自分の席の横で立ち止まる。
その距離、わずか数十センチ。
ユウヒは唇を震わせた。
「……ヤヤ、くん……」
その声に、ヤヤは穏やかに微笑む。
優しく、懐かしい笑顔。
「――また会えたな。よろしくな、ユウヒ」
その言葉にユウヒが目を見開いた瞬間、
ヤヤは手を軽くひねる仕草をした。
「な、何を?」
「まぁみてろよ。軽い手品、練習したんだ」
何もなかった空間に、一輪の花が現れた。
淡い青の花弁。
まるで夜明けの空を閉じ込めたような小さな星。
「これ……」
ヤヤはその花をユウヒに差し出す。
「お前に、似てると思って。」
一瞬で、教室のざわめきが消えた。
ただ二人だけが、この世界に取り残されたようだった。
ブルースター――その花言葉を、ユウヒは知っていた。
“信じ合う心”
“一途な想い”
胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。
こらえようとしても、涙が溢れた。
「……ずるいよ、ヤヤ君。そんなの……泣いちゃうじゃん……」
頬を伝う涙は、止まらなかった。
笑いながら泣くユウヒを、ヤヤはただ優しく見つめていた。
陽光が二人を包み込む。
その光の中、ユウヒの心に“初恋”という名の花が静かに咲いた。




