第19話「思い出」
月の光が、二人の影を裂いていた。
ユウヒの右手に握られた深緑の銃――《フローラ・モルティス》が、微かに脈打つ。
その表面に浮かぶ模様は、まるで血管のように脈動していた。
「……それが、お前の“異能”か……」
ヤヤが低く呟く。
ユウヒは答えない。無表情のまま、銃口をゆっくりとヤヤに向けた。
唇が、花の名を囁く。
「――ローズ。」
瞬間、銃口から紅蓮の花弁が散った。
火線が奔り、夜を裂く。ヤヤは身を翻して避けるが、爆ぜた炎が頬を掠めた。
熱と血の匂い。
その瞳の奥に、もはや“ユウヒ”の感情は存在しない。
「……ユウヒ、やめろ!お前はそんな――」
「対象の生存を確認。排除を再開する」
冷たい声が夜風に溶ける。
ユウヒは続けざまに花の名を唱えた。
「――アイリス」
周囲に淡い光が咲き乱れ、幻影が無数に生まれた。
それぞれのユウヒが一斉に銃を構える。
ヤヤは目を細め、集中する。
「幻影か!だが、どれが本物かなんて――」
弾丸が空を裂く。ヤヤは前転で回避し、蜉蝣の銃を構える。
引き金を引こうとするが――指が震えた。
撃てない。
彼女を、撃てるわけがない。
「ダメだ!想像力が働かない!……ユウヒを傷つけてしまう!!くっそぉぉーー!!」
「……ヒマワリ」
「!?」
ユウヒの声。次の瞬間、追尾する光弾が螺旋を描きながらヤヤを追う。
ヤヤは壁を蹴って跳び、ギリギリでかわすが、空気が爆ぜ、破片が頬を裂く。
「っ……!お前、本気で……!」
彼は拳を握りしめ、接近戦に切り替える。
銃を手にしたまま、ユウヒに肉薄――。
だが、ユウヒはそれを待っていたかのように足を動かす。
しなやかで美しい回し蹴りが、音を裂いてヤヤの腹に叩き込まれた。
「がはっ……!!」
息が詰まり、身体が宙を舞う。
ユウヒは無感情のまま歩み寄り、淡々と花の名を唱える。
「……ビスカリア」
銃口が赤黒く輝く。
その弾は“裏切り者への報い”の花言葉を宿していた。
発砲。
弾丸はヤヤの胸を直撃し、鈍い衝撃が走る。
血が口端から零れる。
「……あ……ぐっ……!ま、まずい」
「さようなら」
ユウヒがゆっくりと銃を構え直す。止めを刺そうと――。
その瞬間、夜の空間が歪んだ。
バシュンッ――!
無数の光の壁が展開し、ヤヤの身体を覆うように傘状の結界が広がった。
レインが現れる。
「遅れてごめん!ヤヤ君!」
その隣、カイトが煙草をくわえたまま、火花のようにタバコを弾き飛ばした。
煙が弾丸に絡み、軌道を逸らす。
「マジで、死ぬとこだったじゃねぇか……!」
「カイト、レイン……!助かった」
しばらくの間の後、ユウヒは状況を理解する。三体一になり自身が不利になったことを。そして不思議な行動をとる。それはヤヤ、カイトそしてレインが全く理解できないものだった。
「……状況はこちらが不利。――トリガーモード使用する」
「……な、何を――!」
ヤヤの質問にユウヒは答えない。
ドクン、と空気が鳴る。
彼女のこめかみに銃口が触れ、次の瞬間、引き金が引かれた。
光弾が脳に吸い込まれる。
その身体がふるえ、背中から――巨大な蝶の羽が咲いた。
光と闇が混ざり合うような、妖しく美しい輝き。
ユウヒの瞳は完全に虚ろになり、笑みを失った女神のようだった。
「な、なんだと?!これが、“真のアウトロートリガーの力”……なのか?!」
カイトが呟く間もなく、ユウヒが一閃。
風が走り、次の瞬間、二人は吹き飛ばされていた。
「っがあ……!」
レインの傘が砕け、カイトは地面に叩きつけられる。ヤヤの視界に、ユウヒだけが残る。
「くっ……もうやめろよ、ユウヒ。そんな力で……お前、壊れるぞ!」
「――破壊、こそが再生。」
一歩、また一歩と近づいてくるユウヒ。止まる気配がないことを悟り、ヤヤは覚悟を決める。
「……これは賭けだな。」
ヤヤは自分のこめかみに銃を向けた。
倒れながらもそれを見たカイトとレインは止めようと叫ぶ。
「お、おい!ヤヤ!アイツの真似はやめろ!!どうなるかわからないんだぞ!?」
「そ、そうよ!ヤヤ君、死んじゃうかもしれないわよ!?止めなさい!!」
ヤヤは背後で倒れたカイトとレインの方を一瞬振り向いた後、目を瞑る。そして目を見開き、言葉を口にする。
「カイト、レイン!アイツを救うにはこれしかないんだ!!だからやる!!ユウヒを救うためなら俺は自分の命を賭ける!!行くぞ!!……トリガーモード!オン!!」
――カチリ。
空気が歪んだ。
まるで世界そのものが、ヤヤの変化を畏れて息を潜めたようだった。
血が逆流する感覚。脳の奥で、何かが“目を覚ます”。闇が脈打ち、心臓の鼓動と重なるたび――空気の色が変わっていった。
一瞬にして、闇が奔る。ヤヤの身体から黒い靄が噴き出し、それは生き物のようにうねりながら形を変えていく。その中心で、ヤヤの髪がゆっくりと色を失い――銀光へと変わった。
淡く月光を反射し、一本一本が細い刃のように輝く。その瞳は血のような紅に染まり、瞳孔が細く収束していく。まるで夜に潜む獣。だがその光には、どこか“哀しみ”が宿っていた。背中が裂ける。痛みではなく、覚醒の証として。
そこから広がったのは――闇そのものを編んだような漆黒の翼。羽ばたくたび、夜が揺れる。羽根の先はまるで墨のように滲み、光を呑み込みながら周囲の影を揺らす。内側には無数の光点が浮かび、それが星空のように瞬いていた。その姿は、神聖でありながらも背徳的。“天使”と“悪魔”の境界線を歩くような――美しく、恐ろしく、儚い存在。
「……これが、俺の中に眠ってた“闇”か。」
ヤヤがゆっくりと息を吐く。
その吐息さえ、闇の粒子となって空へと昇っていった。
「あの姿……ほ、本当にあのヤヤ君なの?」
「成功……なのか?……なんて凄まじいプレッシャーなんだ!!」
レインとカイトがヤヤのトリガーモードを目の当たりにして驚きの声をあげる。一方ユウヒもその姿を見て、感情のない瞳の奥に、微かに“恐れ”が浮かんだ。
「……月野ヤヤのトリガーモード……」
夜空の下、二人の“異能”が完全に目を覚ます。
闇と花、死と再生、愛と殺意――そのすべてが交錯する。
二人が羽ばたく。ユウヒの蝶の羽が夜を裂き、煌めく粉を散らす。その軌跡は美しく――だが、同時に死の宣告だった。
「――ローズ!」
炎の花弁が咲く。夜空に浮かぶ無数の赤い弾丸が、音もなくヤヤを狙い撃った。燃える愛と、焼けつくような激情。“花言葉”が、殺意の弾丸として顕現する。
ヤヤは空中で闇の翼を翻し、滑るように空を裂く。
弾丸が掠め、頬を焦がした。熱と血が混じり、夜の冷気に溶けて消える。
「……さっきよりも威力が上がってる……!?なら!!」
ヤヤの右腕に黒い稲妻のような文様が走り、銃口が夜を睨む。黒い雷を纏った闇の弾が放たれる。
それは銃弾でありながら、刃のように伸び、軌跡ごと空間を切り裂いた。炸裂音が川面を揺らし、火と闇が交錯。一瞬、夜が真昼のように輝いた。
しかし――。
「……甘い」
ユウヒの声は氷のように冷たかった。
「――アイリス」
幻影が咲いた。
十体を超えるユウヒが、夜空いっぱいに浮かび上がる。どれが本物かも分からぬまま、花弾が一斉に降り注ぐ。
ヤヤは闇翼を閉じ、身を翻した。
炎、幻、爆散、光――すべてが彼を焼き、打ち、押し潰そうとする。
けれど、ヤヤはその中で一歩も退かない。
「くっ……!」
なんとか攻撃をしのぎ切ったヤヤは息を切らしボロボロになりながらもユウヒに言葉をかける。それはヤヤがユウヒと過ごした日々のかけがえのない数々の思い出だった。
「なぁ……覚えてるか? 俺たちが初めて会った日のこと。」
ユウヒの弾丸が再び放たれる。
闇翼で軌道をずらしながら、ヤヤは続ける。
「雨の日の花屋だった。傘も持ってなくて……ずぶ濡れの俺に、お前がタオル差し出したんだよ。“使いなよ”って、笑って……。あの笑顔、いまだに覚えてる。」
ユウヒの指が、わずかに止まる。
だが、すぐにまた引き金が引かれた。
弾丸が夜を裂き、風が悲鳴をあげる。
「……それから、あのカフェ。高校に行けなかった俺に勉強教えてくれたよな。“数学苦手”って言った俺に、真面目な顔でノート広げてさ。“ここ、こうすれば解けるでしょ”って……いつの間にか、コーヒー冷めてたよな。」
彼の声は、もはや独白に近かった。
だが確かに――ユウヒの中に何かが揺れていた。
「みなとみらい、行った日もあったよな。花火、綺麗だったな……。俺初めてだったんだぜ?誰かと一緒に見に行ったの」
弾丸が止まった。
ユウヒの腕が、震えていた。
「ヤ…ヤヤく…ん……」
その声は、掠れていた。
「俺、お前に救われたんだ。この汚れた街で、花なんて興味もなかった。でもお前がいたから、花が“綺麗だ”って思えた。お前がいたから、俺……初めて人を好きになれた」
ユウヒの頬に、透明なものが伝う。涙――だった。
彼女自身が気づくよりも早く、それは夜風に散った。
「う……あ……ぁ……! や、やめて……!」
頭を押さえ、苦しむユウヒ。
銃が震え、花弁が弾け、光が暴走する。
「っ……あぁああああ!!!」
叫びが夜を裂いた。
闇と光が反発し、空が震える。
ヤヤはその一瞬を逃さなかった。
闇翼が一閃――。
彼の身体が闇の中を滑り、ユウヒの背後へと瞬間移動する。
その動きはまるで時間そのものを飛び越えたかのようだった。
ゼロ距離。
銃口がユウヒの背中に触れる。
鼓動が重なる。
ヤヤは、静かに目を閉じた。
そして、微笑んだ。
「俺に沢山の初めてを教えてくれて……本当に、ありがとな」
闇の銃口が光を放つ。
「解呪――」
バンッ。
光が弾け、闇が花を包み込む。蝶の羽が散り、無数の花弁が夜空を舞った。風が止まり、音が消える。
ヤヤは落ちていくユウヒの身体を抱きとめた。
その瞳には、もう狂気も呪いもなかった。
ただ、穏やかな“少女の顔”だけがそこにあった。
「……ヤヤ、くん……?」
「……よかった。帰ってきたな。」
ユウヒの手が、彼の頬に触れる。微かに笑う。
「……花、きれい……だね……」
その言葉を最後に、彼女の瞳が閉じた。
闇の翼がゆっくりとほどけ、夜風に溶けていく。
残されたのは――月明かりと、二人の影だけ。
ヤヤは空を見上げ、呟いた。
「……あぁ。きれいだよ、ユウヒ。」
月が二人を照らしていた。
まるで、もう二度と離れぬように。




