第18話「届かぬ想い」
夜の二子玉川。
多摩川の水面が月光を受けて静かに揺れていた。
冷えた風が川辺の草を撫で、遠くで電車の音が小さく響く。
ユウヒはベンチに腰掛け、スマホを見つめていた。
呼び出されたのは、夜の十二時。
彼女の胸は、わずかに高鳴っていた。
――こんな時間にヤヤ君が電話してくるなんて、珍しい。
花火の夜の余韻がまだ残っている。
どこか、あの続きを期待していた。
「……ヤヤ君、遅いなぁ~」
その時。
少し離れた暗がりの中、足音がした。
ユウヒが顔を上げると、街灯の光にヤヤの姿が浮かぶ。
「……ヤヤ君?」
声が届くほどの距離で、ヤヤは立ち止まっていた。
黒のシャツに黒のパンツ。
いつもと違う、冷たい空気をまとっている。
ユウヒは微笑みながら、軽く手を振った。
「こんな時間にどうしたの~? もしかして、私に会いたくなっちゃった?」
返事はない。
ただ、ヤヤの瞳だけが、まっすぐユウヒを射抜いていた。
その沈黙が妙に重くて、ユウヒは冗談めかして続ける。
「なんかいつもと雰囲気違うね。仕事帰り?」
ようやく、ヤヤが口を開いた。
「……なんでなんだよ」
「え?」
ヤヤは視線を落とし、拳をぎゅっと握る。
風が二人の間をすり抜け、どこか遠くの街灯が滲んで見えた。
沈黙。
ユウヒが一歩、近づく。
「ねぇ、どうしたの……?さっきから、なんか変だよ」
その瞬間、ユウヒは気づいた。
ヤヤの頬を、光が伝っていた。
――涙。
「……ど、どうしたの!? 具合でも悪いの?!」
ユウヒが慌てて駆け寄ろうとした瞬間、
ヤヤは静かに顔を上げた。
その瞳には、痛みとそしてどうしようもない悲しみが混ざっていた。
「……黒蓮幇って、なんだ?」
ユウヒの足が止まる。
空気が一瞬にして張り詰めた。
「……え……?」
「どうしておまえなんだよ……ユウヒ……」
その言葉に、ユウヒの表情から血の気が引いていく。
唇が震え、瞳が大きく見開かれた。
「……………………………………………………………………なんで…………知ってるの……?」
声が裏返る。
まるで壊れかけた心がそのまま言葉になったようだった。
ユウヒの思考がぐるぐると回り始める。
――まさか……まさか……。
――まさかヤヤ君って……!
彼女がその続きを言おうとした瞬間、
ヤヤの低い声が静寂を切り裂いた。
「俺の仕事……まだユウヒに話してなかったな」
ヤヤの声は、どこか自嘲を含んでいた。
「……俺は、“ジャスティス”の殺し屋だ」
その言葉を聞いた瞬間、
ユウヒの世界が、音を立てて崩れた。
「…………嘘…………だよ。嘘だよね?」
耳の奥で、ざあっと血の音が鳴る。
足の力が抜けそうになるのを、必死にこらえた。
ヤヤは苦しそうに笑った。
笑っているのに、その瞳には涙が浮かんでいる。
「……ごめん。言えなかった。でも……おまえが“黒蓮幇”なんて思わなかった……」
ユウヒの唇が震える。
――ジャスティス。
――その言葉を、彼が自分の口で言った。
胸の奥で、何かが“きぃん”と鳴った。
心臓が、内側から焼けつくように熱い。
「……あ……だめ……」
ユウヒは胸を押さえた。
その瞬間、左胸に刻まれた“死咲きの印”が赤く脈打つ。
まるで、そこから血の蓮が咲き乱れるように。
「ユウヒ……!?」
ヤヤが駆け寄ろうとする。
「こ、来ないでッ!!に、逃げて!!ヤヤ君!!」
叫びと同時に、目の色が変わった。
紫から、藍色へ。
瞳孔が細く、獣のように鋭くなる。
「だめ……だめ……やめて……あぁぁぁーー!」
ユウヒは頭を抱え、苦しみに膝をつく。
胸からは赤い光が溢れ、
皮膚の下を走る血管が、呪いの紋様となって浮かび上がる。
蓮の花弁のように広がって、心臓を包み込むように輝いていた。
「ど、どうした?!ユウヒ!落ち着け!!」
ヤヤが必死に叫ぶ。
しかし、彼女の耳には届かない。
「……敵……」
ユウヒの口が、ゆっくりと動いた。
「……っ!」
ヤヤの胸が締めつけられる。
“な、なんだ?!何が起きてる?!ま、まさか死咲きの印の呪いが発動したのか?!”
ユウヒは顔を上げた。
その瞳に、もういつもの優しいの色はなかった。
代わりに、殺意と機械的な使命感が宿っている。
髪が夜風に揺れ、
その手に黒い煙のような異能の光が集まり始めた。
別人のように冷たい声でユウヒは呟く。
「――ジャスティス。抹殺対象、確認」
髪が夜風に揺れ、
その手に黒い煙のような異能の光が集まり始めた。
「裏切ったら死ぬだけじゃなく、敵と認識したら殺戮衝動を引き起こす呪いでもあるってことか……」
ヤヤは拳を強く握りしめた。
胸の奥が、壊れそうなほど痛い。
「……ユウヒ……やめろよ。おまえ……そんな顔、するなよ……」
一歩、彼が踏み出す。
だが、その瞬間――
ユウヒの右手に、淡い緑光が灯った。
空気が震える。
手の中に、花弁のように舞いながら金属が形を成していく。
音もなく生まれたのは、深緑の拳銃。
花の蔓が絡むような模様が、銃身に浮かび上がっていた。
「……アウトロートリガー……」
ヤヤが呟く。
その声が届くよりも早く、ユウヒの唇が動いた。
「――“リコリス”」
銃口が閃き、赤い光弾が夜を切り裂く。
風のような軌跡が走り、ヤヤの頬をかすめた。
熱い痛みとともに、血が一筋、夜気に散る。
「っ……!」
ユウヒの瞳は、もう何の感情も宿していなかった。
静かで、空虚で――まるで別の誰かがそこに立っているようだった。
「殺し屋――ジャスティス。月野ヤヤ。お前を――殺す」
その声に、震えが混じっていない。
まるで機械のように正確で、冷たかった。
ヤヤはその言葉を受け止めながら、拳を握りしめる。
俯いた視界の端に、血が滴り落ちる。
「……戦うしかないってか」
だが、ユウヒは何も答えない。
風に揺れる髪が、月光を反射して淡く光るだけ。
「……ふざけんなよ。誰が……こんな結末、望んだってんだ……」
ヤヤの足元の影が揺らぐ。
黒い粒子が指先から立ち上り、リボルバーの輪郭を描き出す。
二人の間に吹く風が、急に冷たくなった。
遠くで電車が通り過ぎる音が響き、川面の月がゆらりと揺れる。
静寂の中――
二つの“異能”が、ほぼ同時に息を吹き返した。
夜の川辺で、
花と闇、緑と黒――その対峙が、静かに幕を開ける。




