第15話「夕陽(ユウヒ)」
それからの二週間、ヤヤは毎日のように花屋《Première Amour》に通った。
理由は――“情報収集”。
そう、自分に言い聞かせている。
黒蓮幇の潜伏工作員《Lùhuā》の情報が出てから、偶然にも出会ったこの少女が怪しい。だから観察が必要だ。そういう理屈だ。
……の、はずだった。
「ヤヤ君、今日も来てくれたの?もしかして、私に会いにきた?」
「ち、ちがう。……別に、その、花の勉強を」
「ふふっ、そう?でも顔が“会いに来た顔”してるよ」
ユウヒの笑顔は、夏の花びらみたいに軽やかだった。
彼女の周囲だけ、いつも空気の温度が違う気がする。
気づけばヤヤは、花の名前を少しずつ覚えていた。
「これは“ラナンキュラス”。花言葉は“魅力的”……ヤヤ君にぴったりかも」
「な……なんで俺が?」
「だって、最初怖そうだったのに、話すとすごく優しいし。ね?」
頬が熱くなる。
……これは情報収集だ。
敵を知るために必要な観察。
決して、毎日が少し楽しみになってるわけじゃない。
閉店後、空いている時間にふたりで近くのカフェに行くことも増えた。というのもユウヒが勉強を教えてあげると言うからだった。
ユウヒは勉強を教えるのが上手く、ヤヤは高校に通っていないぶん、教わるたびになぜか胸がくすぐったくなる。
「ほら、ここは“二次方程式”だから、マイナスが移動するときは符号が変わるの。ね?ヤヤ君、こういうのは慣れだよ」
「お前、先生かよ」
「えー、じゃあ“先生”って呼んでくれる?ほら、ヤヤ君。言ってみて、“先生、教えてください”」
「嫌だ」
「言わないと次の問題、間違える呪いかけるよ?」
「そんな呪いねぇよ」
笑い合う声が夜のカフェに溶けていった。
その笑顔を見るたびに、ヤヤはふと頭の奥で小さなノイズを感じる。
――この子が、敵……なわけないよな。
--
そして金曜の夜。
携帯の画面が小さく震えた。
件名:『花火大会の誘い』
「ねえヤヤ君、明日予定ある? もしなかったらなんだけど……
花火大会あるんだって、みなとみらいで。
別にデートとかじゃなくて、ほら、“夏の研究”。
打ち上げ花火の科学、的な。どう?笑」
文末の“笑”が、なぜか胸の奥を温かくする。
ヤヤは返信を打ちかけて手を止めた。
――これは情報収集の延長だ。
潜伏の疑いを晴らすために近づくだけ。
……そう、自分に言い聞かせて。
「別に暇だし、行ってもいいけど」
送信。
たったそれだけで心臓が脈を打つのは、なんでだろう。
--
翌日。
みなとみらい駅に着くと、ユウヒはすでに待っていた。
白いノ-スリーブに黒いタイトなミニスカート。
髪はいつもよりふわりと巻かれている。
「おーい! ヤヤ君、こっち!」
手を振る姿が人ごみの中で一瞬光ったように見えた。
「なんかいつもと違うな……その……服が」
「そうかな?あ、でも“可愛い”って言ってもいいんだよ?」
「い、言わねぇよ」
「えー、残念~」
ユウヒは腕を組もうとするが、ヤヤが微妙に避ける。
それでも彼女は気にせず笑った。
「じゃ、花火まで時間あるしそれまでいっぱい遊ぶよ!まずはコスモワールド行こっか!」
アトラクションを巡る二人。
お化け屋敷ではヤヤが冷静に前を歩き、ユウヒが悲鳴を上げヤヤに抱きつく。
逆にジェットコースターでは、ユウヒが両手を上げて叫び、ヤヤは無言で隣の席にしがみついた。
「ヤヤ君、顔真っ青!可愛い~!」
「べ、別に余裕だし?こんなの!ユウヒこそお化け屋敷で震えてたよな?怖かったんだろ?」
「そ、そんなわけないじゃん!わざとだから!そ、それよりこ~んな可愛い女の子に抱きつかれて嬉しかったんじゃないの?!」
「な、何言ってんだ!……さぁ次行くぞ!」
「あ~照れてる!ねね!可愛いと思ったんでしょ?!」
「調子狂う……」
その後様々なアトラクションを楽しみ、最後はみなとみらいのシンボルとも言える観覧車へ乗る。楽しい時間はあっという間に過ぎ今はもう夕方である。
観覧車のゴンドラがゆっくりと空へ上がる。
窓の外には海、街、そして遠くの夕焼け。
ヤヤの隣に座るユウヒは頬杖をついて、窓の外を見つめた。
「わぁ~綺麗だね~。こういう時、“生きてる”って感じしない?」
「……そうだな」
ヤヤは短く答える。
どこか胸の奥が静かに熱を帯びている。
久しく味わっていなかった、穏やかな時間。
そんなことを思いながら、ふと隣の横顔に視線が吸い寄せられた。
夕焼け色の光が、ユウヒの髪をやわらかく染めている。
「……夕陽、綺麗だな」
ぽつりと零れた言葉に、ユウヒの肩がぴくりと動いた。
「……へっ?!な、なに?急に!?」
次の瞬間、彼女の頬がふわりと赤く染まる。
視線を泳がせながら、気丈に取り繕うように言った。
「そ、それは……夕焼けの方?それとも私の方?」
その問いに、ヤヤはふっと口元を緩めた。いつも自分がからかわれるが、逆にからかったらどんな反応をするのだろうと思う。
ゆっくりとユウヒの手のひらの上に、自分の手を重ねる。
観覧車の狭い空間に、二人の体温が密度を増していく。
ヤヤは少し身を寄せ、悪戯っぽく、けれどどこか艶を帯びた声で囁いた。
「どっちだと思う?」
「……っ!!!」
ユウヒの呼吸が止まる。
顔を逸らしたくても逸らせず、目の奥が揺れる。
彼女の唇がわずかに震え、視線は絡まり――けれど何も言えない。
(……な、な、なにこれ?!からかわれてるの、私? いつも私が仕掛ける側なのに!!)
ユウヒの胸の鼓動が早鐘のように跳ねる。
観覧車は静かに頂点に差しかかり、沈みゆく夕陽が二人を金色に染めた。
外の景色が溶けて見えなくなるほど、世界が小さく、近くなる。
ただ一つ、手のぬくもりだけが確かに存在していた。




