第13話「花言葉」
――ざああっ。
表参道の並木道を叩く激しい雨。
傘を持たずに歩いていたヤヤは、咄嗟に近くの店の軒先へ駆け込んだ。
雨粒が服を叩き、靴は水を吸い、髪からは滴が落ちる。
視線を上げると、そこは小さな花屋だった。
白い外壁に、淡いピンクのネオン文字。
「Première Amour」――“初恋”という意味の名札が、雨の中で柔らかく光っていた。
ガラス戸を開けた瞬間、鈴の音が鳴る。
そして、奥から声がした。
「いらっしゃいませ……えっ、えぇー!? お兄さん、びしょ濡れじゃん!」
軽やかな声と同時に、ヤヤと同い年くらいであろう、とある少女が顔を出した。
肩から鎖骨にかけて髪を揺らし、長い脚を迷いなくこちらに向けてくる。
整った目鼻立ち。
艶めいた黒髪。
そして、どこか挑発するような笑み。
「待ってて~!」
そう言うと、少女は奥から白いタオルを持って駆けてきた。
ヤヤの頭にふわりとそれをかける。
「ほら、動かないで。風邪ひいちゃうよ?」
「……あ、ああ。悪い」
「んー、素直でよろしい♪」
笑顔が柔らかい。
だけど、目の奥に少しだけ“遊び”がある。
「お兄さん、どっから来たの? この雨、ヤバいね」
「駅から。仕事帰りだ」
「へぇ~。じゃあ運が悪かったね。雨宿り、していきなよ」
少女は振り返り、花の並ぶ棚を指さした。
「“Première Amour”へようこそ。雨がやむまで、うちの花たちとデートしていきなよ~。
あ、ていうかお客さん誰も来なくて暇だから、つきあって?」
その言葉に、ヤヤは少しだけたじろぐ。
「いや、俺、花とかよくわからないんだが……」
「わからなくてもいいの♪暇つぶしで充分。
ね? どうせ外出られないし」
そう言って、少女はカウンターに肘をつき、
まるで旧知の友のような距離でヤヤを見つめた。
「そういや、名前は?」
「月野ヤヤ」
「へぇ~、ヤヤ君か~。変わった名前だね。なんか猫っぽい」
「猫?」
「うん。無口で、触ったら逃げそうな猫」
「可愛くない猫だな。そりゃ。あんたは?」
「たはは……そういえばまだ名乗ってなかったね。私は浜中ユウヒ!この花屋で最近アルバイトはじめたんだ~♪よろしくね~」
こんなに自然に人との距離を詰めてくる人は、ヤヤにとって初めてだった。
店内に、雨音とユウヒの声が混じる。
白い花弁がゆらりと揺れ、ほのかな香りが漂う。
「ねぇ、ヤヤ君っていくつ?」
「十七」
「え~?同い年じゃん!なんか運命っぽいぞ」
ユウヒはぱっと笑顔を見せた。
それはまるで、曇り空の隙間から一瞬だけ光が差したような笑みだった。
「じゃあさ、どこの高校?」
「……通ってない」
「え?」
一瞬、ユウヒの表情が止まる。
けれど、すぐに茶化すように笑って首を傾げた。
「え、まさか……不良とか?」
「そういうのじゃねぇよ」
「ふふっ、冗談冗談。じゃあ、なんで?」
ヤヤは視線を外し、花棚の向こうをぼんやりと見つめた。
白いユリの花びらが、ゆっくりと開こうとしている。
「親が死んで、借金が残ってる。返すために働いてるだけ」
淡々とした言葉だった。
それでもユウヒの瞳が、わずかに揺れる。
「……そっか」
「悪い。変な空気になったな」
「ううん。……私も似たようなもんだよ」
ユウヒはそう言って、カウンターの縁に腰を乗せた。
足をぶらぶらさせながら、どこか遠くを見るような目つきになる。
「借金はないけど、物心つく前から親いなかったの。そして気づいたらね、中国にいたんだよ。上海。……笑っちゃうでしょ?」
「……いや、笑えねぇだろ」
「ふふっ、優しいね。ヤヤ君は」
その笑顔はどこか寂しげで、だけど強がるように明るかった。
ヤヤは何も言えず、ただその横顔を見つめる。
雨音が静かに店内を包み込む。
しばらく沈黙が続いたあと、ユウヒが話題を変えるように立ち上がった。
「はいっ! じゃあ気分転換。ヤヤ君に花の魅力を教えてあげましょうのコーナー!」
「は?」
「いいから、こっちきて~!」
ぐいっと手を引かれ、ヤヤは半ば強引に花棚の前へ連れていかれた。
「これは“ガーベラ”。花言葉は“希望”。
これが“カスミソウ”。花言葉は“感謝”。
あ、こっちの“アネモネ”は“あなたを信じて待つ”。なんか、ロマンチックじゃない?」
「……ぜんぶ覚えられねぇ」
「ふふっ、いいの。今は感じるだけで」
ユウヒは花びらに指先を滑らせながら、柔らかく微笑む。
その姿を見て、ヤヤは知らず知らずのうちに見とれていた。
「花って、すごいな。見方変わったよ」
「え?」
「花言葉の意味を知ってから見るとなんだか今までとは違う気がする」
「でしょ?だから私、ここ好きなんだ~。少しは花に興味を持ったかい?少年よ~」
「ああ。少しだけな」
目が合う。ヤヤの優しい笑みにユウヒはドキっとする。ほんの一瞬だけ、時が止まったような静けさの中ユウヒは少し顔を赤らめ、目をそらしながら言葉を口にする。
「ね、ねぇ……ヤヤくん」
「ん?」
「また、気が向いたら来てよ。なんていうか楽しいじゃん?話してて。……私ヤヤ君みたいな人、初めてかも」
その言葉に、ヤヤの胸が少しだけ熱くなった。
「……か、考えとく」
「ぷっ……アハハっ!ヤヤ君チョロいな~!あざとい女子にすぐ騙されそう♪」
「なぁっ?!か、勘違いすんなよ?!ちょっと可愛いなんて思ってないからな!」
「なんじゃそれ~!アハハっ!!ウケる!本物のツンデレかよ~!可愛いな~もう!とりあえず……はい!携帯だして~!連絡先交換しよ♪」
「……ほらよ」
ヤヤは照れながらも携帯を差し出す。ユウヒの笑顔が、花の香りよりも鮮やかに咲いていた。
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ドアの鈴が、からんと鳴った。
雨が止みヤヤが出て行ったあと、店の中に静けさが戻る。
さっきまでの雨が嘘みたいに、外は少し明るくなっていた。
「……行っちゃったか」
ユウヒはカウンターの上に肘をついて、ぽつりとつぶやいた。
ヤヤが使ったタオルがそのまま置かれている。
それを何気なく手に取ると、まだ少し温もりが残っていた。
「変な人……」
でも――その口元には、知らず知らず笑みが浮かぶ。
あんな無愛想そうなのに、話すと優しい。
人の話をちゃんと聞くし、目をそらすときの表情が、ちょっとだけ不器用で。
「……ヤヤ君……ヤヤ君か~」
その名前を口にした瞬間、胸の奥がふわっと熱くなった。
頬がじんわりと赤くなっているのが自分でもわかる。
「……もう少し一緒にいたかったなぁ~」
ユウヒはそっと頬を押さえる。
雨上がりの光がガラス越しに差し込み、花たちの影を床に落とした。
――気づけば、心の中にも同じように、淡い光が差していた。




