【28】朝になったら消えるから
ランゲの里を襲撃した魔物達は、〈楔の塔〉の魔術師達と、ランゲ一族の奮闘のおかげで、なんとか撃退することができた。
とはいえ、いつまた〈水晶領域〉から魔物が出てくるかは分からない。故に、夜になってもランゲの里は至るところに火を焚いている。
ティアはランゲの屋敷の廊下の窓から、外に焚かれた松明の火をボンヤリ見つめていた。
騒がしい夜だ。あちらこちらから、人の足音と話し声がする。
夜だというのに見張りは絶えず、医者を呼んだり、被害状況を確認したりと人が動き回っているせいだ。
ヒソヒソと聞こえてくる声は、里を守り抜いた安堵より、これからまた魔物が押し寄せてくるのではないかという不安の方が強い。
「ティアさん」
突然、背後から声をかけられてもティアは驚かない。足音は聞こえていた。
振り向いた先にいたのは想像通り、褐色の肌に黒髪の青年リカルド・アクスだ。
「今、お時間大丈夫ですかね?」
「だいじょーぶだよ」
良かった、と呟き、リカルドは少し気恥ずかしそうに切り出す。
「こんな時にあれなんですけど……ちょっと、フレデリクさんのお見舞いしてもらっても良いすかね?」
「手術、終わったんだよね?」
「はい。意識も戻ってるんですけど、全く寝る気配がなくて」
ただでさえ寝不足だった体で魔物と戦闘し、重傷を負ったのだ。治療のためにも充分な睡眠は不可欠であるのだが、どうにも眠る様子がないらしい。
「うん、いいよ。おやすみなさいの歌、歌うね」
「すみません、助かります。無理やり薬で眠らせないと、ってとこまできてたので」
ティアはリカルドに並んで歩き出す。
ペタペタと歩きながら、ティアは訊ねた。
「リカルドさん、教えてほしいことがあるの」
「なんすか」
「……ハルピュイアの大規模討伐があったのって、いつ?」
平坦な声で訊ねるティアに、リカルドは少し考え込む顔をする。
「そういえば、目玉鳥が増えたのって、ハルピュイアが減ってからでしたっけ。その検証っすか?」
ティアの質問の意図を、リカルドは上手いこと誤解してくれたらしい。
ヒュッター教室は、魔物が水晶片を用いて、〈水晶領域〉を離れることを推測している。ハルピュイア討伐に関することも、その検証の一環と考えたのだろう。
「ハルピュイアの討伐は二年ぐらい前すかね。自分とヘレナさんは、ハルピュイアと相性悪いんで別の仕事してたんすけど、フレデリクさんは参加してるはずです」
あぁ、やっぱり。とティアは思った。
ハルピュイアの討伐をするのなら、遠距離攻撃の得意な魔術師か、あるいは飛行魔術が抜群に得意な魔術師が適している。
飛行魔術の名手で、魔物を憎むフレデリクなら、きっと参加していただろう。
(やっぱり、わたしは間違えたんだ)
こんなに騒がしい夜なのに、ティアの心は夜の湖のように暗く、静かだ。
ハルピュイアの耳が人の声を拾う。魔物に対する怒りの声、怨嗟の声、恐怖の声──それは、魔物であるハルピュイアにとって心地良いものであるはず、だったのに。
「一番いっぱい、ハルピュイアを殺したのは?」
「メビウス首座当主とフレデリクさんが、半々っすね」
「……そっかぁ」
黒い夜の廊下を歩くティアの瞳が、燭台の火を受けて揺れた。
グラスで揺れる琥珀色の酒のように、トロリ、トロリと輝く目の奥、鋭い瞳孔が獲物を探す。
フレデリクが寝かされている部屋は、すぐそこだ。
この扉の向こう側に、ハルピュイア達を殺した男がいる──だが、ティアの耳は聞いてしまった。扉越しに聞こえる苦しげな声を。
「失礼します」
リカルドが扉を開ける。小ざっぱりした部屋のベッドの上で、苦しげに唸っているのはフレデリクだ。
ベッドの横には椅子があり、そこにヘレナが座っている。彼女は医者ではないが、医療行為を手伝える程度の心得があるらしい。
日中ずっと魔物と戦い続けていた彼女は、帰還してからもずっと薬を作ったり、包帯を巻いたり、甲斐甲斐しく怪我人の世話をしていた。
不思議なことに、そういう時の彼女は、「悲しいです」の口癖がピタリと止まるのだ。
「リカルド、見習いの子を連れてくるのは感心しません。ましてその子は日中夜働いていたと聞きます」
静かだがピシャリと厳しいヘレナの声に、リカルドは鼻白んだように黙り込む。
ヘレナはリカルドに厳しい目を向けていたが、ティアを見ると表情を和らげた。
「ティア・フォーゲル。貴女は先日、魔物と遭遇して帰還したばかり。その上、フレデリクを連れて帰ってくれました。今休んでも、貴女を責める者はいません」
部屋に戻っておやすみなさい、と優しく告げるヘレナは、さめざめと泣きながら悪態をつく、昼間の彼女とはまるで別人のようだった。首元の古代魔導具〈エウリュディケ〉も今は静かだ。
「心配せずとも、わたくしはこの手の患者に、喉に詰まらないよう薬をねじ込むのが得意です……そろそろ薬を飲ませて、黙らせようかと思っていました」
「ペブブ……」
やっぱりちょっと怖いかもしれない。
ティアはヘレナから目を逸らし、ベッドに横たわるフレデリクを見た。
フレデリクは眠れないというよりは、意識が朦朧としているという方が正しいのだろう。
相当熱が出ているらしく、青白い顔にはびっしりと汗が滲んでいた。
隈の浮いた目は虚ろで焦点が合っていない。乾いた唇から聞こえるのは、唸り声と呟きだ。
「……ぐぅぅ…………ものめ…………ぁぁ、あ……まものめ…………て、やる……」
人より優れたティアの耳は、フレデリクの言葉の意味を理解した。
『魔物め、殺してやる、父様の仇』
その言葉を、ティアは反芻する。
(……人間め、殺してやる。お姉ちゃん達の仇)
自分の中で呟いてみて、気がついた。
ティアはその言葉を、フレデリクみたいに憎悪で彩ることができないのだ。
「……んで…………との、…………なんて……ぁ、ぐぅ、ぅぅぅ」
その呟きに、ティアは顔を歪めそうになった。
『なんで、人の振りなんて』
それは人の皮を被ってオリヴァーに近づいた、ロミーに向けられた言葉なのだろう。
だけど、ティアにも同じことが言えるのだ。
酷く糾弾された気分だった。こんなにも胸が痛むのは、ティアが自分の犯した過ちに気づいたからだ。
「……ヘレナさん、ちょっとだけ、お歌のお見舞いをさせて」
「いけません。夜中に歌は……」
「ちょっとだけ」
ティアはじっとヘレナを見る。
ヘレナは水をたたえたような目でじっとティアを見つめ返し、立ち上がって椅子を譲った。
「どうぞ」
ティアはペフンと喉を鳴らして椅子に座る。
そうして、虚ろに開かれたフレデリクの目の上に、己の手をかざした。
人の指は不便だけれど、その気になれば目を潰すぐらいはできるだろう。弱っている人間相手なら、喉を絞めることだって容易いはずだ。
「…………」
ティアは目を閉ざし、歌いだす。
恐怖と不安からくる人々の囁きを、その歌声で遮るように。
さざめく声と、静かな夜を隔てるように。
「それは夜のおまもり
朝を待つ人への ささやかな
テイルフィア・ラーナ、リィール、シェート
とばりは旅人の身を隠し
ひとときの安らぎを与えるだろう
テイルフィア・ラーナ、リィール、シェート
その手に小さなおまもりを
朝を待つ人へ ささやかな
テイルフィア・ラーナ、リィール、シェート
朝になったら消えるから
……消えるから」
苦しげな唸り声が徐々に静かになり、やがて寝息に変わる。
安らかとは言い難い寝顔だ。半ば気絶するように眠りについたらしい。
ティアは、フレデリクさんが怖い夢を見ないといいな、と思った。本当だ、嘘じゃない。
この歌は、怖い夜を遠ざけるおまじないなのだから。
「……ライバルさん」
眠る人の指先に触れ、ティアは胸の内で呟く。
(わたし達、きっと殺し合うよ)
だから、どうかその日まで……なんだろう、自分でも何を願っているのかが分からない。
ただ、これだけは。
「今は、おやすみなさい」




