【25】お腹いっぱいの悲しみを
痛む体を無理して起こし、ヒュゥヒュゥと掠れた呼吸を繰り返しながら、フレデリク・ランゲは怒りに打ち震えていた。
オリヴァーの恐怖を食い続けていた蜘蛛女のロミー。
この魔物はあろうことか、「勇敢になりたい」という願いを叶えるために、オリヴァーの恐怖を喰い続けていたのだという。
──なんと愚かな。
恐怖もまた、人間を構成する要素の一つだ。この要素は何か一つでも欠けると全体が傾き、危うい人間になる。
恐怖を喰われたオリヴァーは、きっとフレデリクの心配なんてしていない。他者を失う恐怖がないなら、「心配」なんて形だけの思い込みだ。オリヴァーは幼い頃の「兄者の力になる」という誓いを、そのまま実行しているだけにすぎない。
勇敢になれば強くなれる、という浅慮さは、なるほど弱者らしい思い込みだ。
恐怖を知らない勇猛は、いずれその身を滅ぼすだろう。
(人は恐怖があるから慎重になれる。危険を警戒し、生存率を上げる)
オリヴァーもロミーも弱者で、そして大馬鹿者だった。だから、オリヴァーは恐怖を失くせば強くなれると思い込み、ロミーはオリヴァーのために恐怖を喰った。
(魔物のくせに善意のつもりか、魔物のくせに、魔物のくせに、魔物のくせに!!)
フレデリクにとって、魔物とは邪悪の塊で憎悪の対象だ。
魔物が人間に向ける執着はおぞましく醜悪だ。だからこそ魔物は殺すべきだ。憎悪以外の感情など、向ける必要はない。
──ずっと、そう信じていたのに。
ロミーにとって、オリヴァーはただの餌でしかなかった。どんなに綺麗事で取り繕っても、所詮は人喰いだ。
そう自分に言い聞かせても、目の前の光景がそれを否定する。
ロミーはオリヴァーを庇って串刺しになり、息絶えようとしている。
オリヴァーがただの餌なら、命懸けで庇ったりなんてしないだろう。そう分かっていても、フレデリクは認めたくなかった。
(魔物が、人間の真似なんかするなよ)
魔物はただ、魔物らしく醜悪であれ。
(魔物が、人の心に寄り添おうとするなよ)
魔物は、人の心を踏み躙る存在であれ。
そうでないと、フレデリク・ランゲは戦えなくなる。憎悪を燃料に、怒りの火を燃やし続けていないと、戦い続けることなんてできない。
(殺さないと、魔物は殺さないと、どんなに上手に人間のふりをしたって、どんなに人間の心に寄り添おうとしたって、所詮は魔物なんだ、そうして人間に近づいた結果がこれじゃないか、誰も幸せになってない)
「兄者」
フレデリクは憎悪で心を塗りつぶし、殺意のままに武器を探そうとした。
それを、弟の声が止める。
静かな声だった。こんな時なのに、腹立たしいぐらいにいつものオリヴァーだった。
「少し、時間をくれ」
フレデリクは心の中で強く念じた。
──その蜘蛛女にトドメを刺せ、と。
オリヴァーは魔物狩りのランゲで、ロミーは魔物。オリヴァーがするべきことは、トドメを刺す以外にないはずだ。
それなのに、あろうことかオリヴァーはロミーの体を抱き起こす。
オリヴァーはフレデリクに背を向けていた。多分それは弟の反抗だ。
オリヴァーはフレデリクに背を向けたまま、ロミーに語りかける。
「ロミー、ありがとう」
* * *
降り注ぐ言葉に、ロミーはゆるゆると瞬きを繰り返す。
オリヴァーの拒絶も怒りも覚悟していた。それなのに彼の声はいつもと変わらない。静かで、優しくて、誠実だ。
「ロミーは俺を勇気づけてくれていたのに、俺はずっと礼を言っていなかったな。礼が遅れてすまない」
ロミーは勇気を与えたわけじゃない。ただ、恐怖を取り除いただけだ。
オリヴァーに勇気というものがあったのなら、それはきっと最初からオリヴァーの中にあったものなのだ。
それでもオリヴァーの言葉が嬉しい。だって、ロミーはずっと役立たずだったから。
「……わたし、オリヴァー君の役に、立てた?」
「あぁ、ロミーのおかげで、今の俺は勇敢な戦士だ。怖いものなど何もない」
嬉しいな、嬉しいな、わたし、大好きなオリヴァー君の役に立てたんだ。
そう思うと、目に涙が滲んだ。悲しくなくても涙は出る。だって、ロミーは弱い魔物だから。
別れの時は近い。
痛みと空腹で苦しくて辛くて、それなのに、自分はとても幸せ者だと思った。
「ロミー、また食べてくれるか?」
「……いい、の?」
「あぁ」
優しいな、嬉しいな、オリヴァー君、大好き。
込み上げてくる感情は、涙になってポロポロとこぼれ落ちる。
「顔、近づけて、くれる?」
いつもは、相手の目を覗き込んで、少しだけ意識を奪う。
だけど今はそれをしない。だから、真っ直ぐな目がロミーを見つめてくれる。
ロミーは震える手を伸ばし、オリヴァーの頬に添えた。そうして、唇を重ねる。
食べるのは彼の中にある恐怖と、そして──。
「オリヴァー君」
唇を離す。もう、腹も心も満たされた。
多幸感に包まれたまま、ロミーは微笑む。
「だいすき」
サラサラと舌の上で溶けていくその感情は、ほろ苦くて、少しだけしょっぱい。
泣きたいほど美味しい「悲しみ」──それが、蜘蛛女ロミーの最期のご馳走だった。
* * *
動かなくなった蜘蛛女の亡骸を、オリヴァーはそっと地面に横たえる。
そうして、亡骸に刺さった槍を抜いた。
「兄者、俺はティアの加勢に行ってくる」
フレデリクは口の中に溜まった血混じりの唾液を、ベッと吐き捨てた。
まだ体は動かない。呼吸も苦しい。それでも、フレデリクは掠れる声を絞り出す。
「……そいつの死を、美談にするなよ」
視線の先には、蜘蛛女の亡骸。
オリヴァーを慕っていた、無邪気な魔物の成れの果て。
「……そいつは、僕達の父が死んだことを、なんとも思っていない……たまたま庇護したお前に、懐いていただけだ」
「兄者」
フレデリクの言葉を遮り、オリヴァーは眉一つ動かさずに言う。
「それは俺達とどう違うのだ。俺は、ロミーの家族の死に何も心動かない」
やめろ、と叫びたくなった。
人と魔物の類似点や共通点を挙げて、同じ生き物だ、分かり合える生き物だと括ることほど愚かしいことはない。
人と魔物は違う生き物だ。その線引きは明確にすべきだ。分かりあうこと、通じ合うこと、そういう共感を美談にすると目が曇る。
そう叫びたいのに、声が上手くだせない。
「美談になど、できるものか」
オリヴァーが、自分に言い聞かせるように呟く。
「俺は、これからロミーの母親を殺しに行くのだから」
それだけ言い残して、オリヴァーは槍を片手に走り出した。
宣言通り、あの銀髪の蜘蛛女を殺しに行くのだろう。
フレデリクはパタリと地面に倒れる。そろそろ体力が限界だったのだ。
視線の先にあるのは、ドロドロと体液を垂れ流す、惨たらしいロミーの亡骸。
(魔物の死骸などグチャグチャにしてしまえ、そうしないと僕は安心して眠れなかっただろう?)
それなのに、今のフレデリクには、ロミーの亡骸を踏みにじる気がこれっぽっちも起きないのだ。




