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白翼のハルピュイア  作者: 依空 まつり
八章 境界の魔女
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【25】お腹いっぱいの悲しみを


 痛む体を無理して起こし、ヒュゥヒュゥと掠れた呼吸を繰り返しながら、フレデリク・ランゲは怒りに打ち震えていた。

 オリヴァーの恐怖を食い続けていた蜘蛛女のロミー。

 この魔物はあろうことか、「勇敢になりたい」という願いを叶えるために、オリヴァーの恐怖を喰い続けていたのだという。


 ──なんと愚かな。


 恐怖もまた、人間を構成する要素の一つだ。この要素は何か一つでも欠けると全体が傾き、危うい人間になる。

 恐怖を喰われたオリヴァーは、きっとフレデリクの心配なんてしていない。他者を失う恐怖がないなら、「心配」なんて形だけの思い込みだ。オリヴァーは幼い頃の「兄者の力になる」という誓いを、そのまま実行しているだけにすぎない。

 勇敢になれば強くなれる、という浅慮さは、なるほど弱者らしい思い込みだ。

 恐怖を知らない勇猛は、いずれその身を滅ぼすだろう。


(人は恐怖があるから慎重になれる。危険を警戒し、生存率を上げる)


 オリヴァーもロミーも弱者で、そして大馬鹿者だった。だから、オリヴァーは恐怖を失くせば強くなれると思い込み、ロミーはオリヴァーのために恐怖を喰った。


(魔物のくせに善意のつもりか、魔物のくせに、魔物のくせに、魔物のくせに!!)


 フレデリクにとって、魔物とは邪悪の塊で憎悪の対象だ。

 魔物が人間に向ける執着はおぞましく醜悪だ。だからこそ魔物は殺すべきだ。憎悪以外の感情など、向ける必要はない。


 ──ずっと、そう信じていたのに。


 ロミーにとって、オリヴァーはただの餌でしかなかった。どんなに綺麗事で取り繕っても、所詮は人喰いだ。

 そう自分に言い聞かせても、目の前の光景がそれを否定する。

 ロミーはオリヴァーを庇って串刺しになり、息絶えようとしている。

 オリヴァーがただの餌なら、命懸けで庇ったりなんてしないだろう。そう分かっていても、フレデリクは認めたくなかった。


(魔物が、人間の真似なんかするなよ)


 魔物はただ、魔物らしく醜悪であれ。


(魔物が、人の心に寄り添おうとするなよ)


 魔物は、人の心を踏み躙る存在であれ。

 そうでないと、フレデリク・ランゲは戦えなくなる。憎悪を燃料に、怒りの火を燃やし続けていないと、戦い続けることなんてできない。


(殺さないと、魔物は殺さないと、どんなに上手に人間のふりをしたって、どんなに人間の心に寄り添おうとしたって、所詮は魔物なんだ、そうして人間に近づいた結果がこれじゃないか、誰も幸せになってない)


「兄者」


 フレデリクは憎悪で心を塗りつぶし、殺意のままに武器を探そうとした。

 それを、弟の声が止める。

 静かな声だった。こんな時なのに、腹立たしいぐらいにいつものオリヴァーだった。


「少し、時間をくれ」


 フレデリクは心の中で強く念じた。


 ──その蜘蛛女にトドメを刺せ、と。


 オリヴァーは魔物狩りのランゲで、ロミーは魔物。オリヴァーがするべきことは、トドメを刺す以外にないはずだ。

 それなのに、あろうことかオリヴァーはロミーの体を抱き起こす。

 オリヴァーはフレデリクに背を向けていた。多分それは弟の反抗だ。

 オリヴァーはフレデリクに背を向けたまま、ロミーに語りかける。


「ロミー、ありがとう」



 * * *



 降り注ぐ言葉に、ロミーはゆるゆると瞬きを繰り返す。

 オリヴァーの拒絶も怒りも覚悟していた。それなのに彼の声はいつもと変わらない。静かで、優しくて、誠実だ。


「ロミーは俺を勇気づけてくれていたのに、俺はずっと礼を言っていなかったな。礼が遅れてすまない」


 ロミーは勇気を与えたわけじゃない。ただ、恐怖を取り除いただけだ。

 オリヴァーに勇気というものがあったのなら、それはきっと最初からオリヴァーの中にあったものなのだ。

 それでもオリヴァーの言葉が嬉しい。だって、ロミーはずっと役立たずだったから。


「……わたし、オリヴァー君の役に、立てた?」


「あぁ、ロミーのおかげで、今の俺は勇敢な戦士だ。怖いものなど何もない」


 嬉しいな、嬉しいな、わたし、大好きなオリヴァー君の役に立てたんだ。

 そう思うと、目に涙が滲んだ。悲しくなくても涙は出る。だって、ロミーは弱い魔物だから。

 別れの時は近い。

 痛みと空腹で苦しくて辛くて、それなのに、自分はとても幸せ者だと思った。


「ロミー、また食べてくれるか?」


「……いい、の?」


「あぁ」


 優しいな、嬉しいな、オリヴァー君、大好き。

 込み上げてくる感情は、涙になってポロポロとこぼれ落ちる。


「顔、近づけて、くれる?」


 いつもは、相手の目を覗き込んで、少しだけ意識を奪う。

 だけど今はそれをしない。だから、真っ直ぐな目がロミーを見つめてくれる。

 ロミーは震える手を伸ばし、オリヴァーの頬に添えた。そうして、唇を重ねる。

 食べるのは彼の中にある恐怖と、そして──。


「オリヴァー君」


 唇を離す。もう、腹も心も満たされた。

 多幸感に包まれたまま、ロミーは微笑む。


「だいすき」


 サラサラと舌の上で溶けていくその感情は、ほろ苦くて、少しだけしょっぱい。

 泣きたいほど美味しい「悲しみ」──それが、蜘蛛女ロミーの最期のご馳走だった。



 * * *



 動かなくなった蜘蛛女の亡骸を、オリヴァーはそっと地面に横たえる。

 そうして、亡骸に刺さった槍を抜いた。


「兄者、俺はティアの加勢に行ってくる」


 フレデリクは口の中に溜まった血混じりの唾液を、ベッと吐き捨てた。

 まだ体は動かない。呼吸も苦しい。それでも、フレデリクは掠れる声を絞り出す。


「……そいつの死を、美談にするなよ」


 視線の先には、蜘蛛女の亡骸。

 オリヴァーを慕っていた、無邪気な魔物の成れの果て。


「……そいつは、僕達の父が死んだことを、なんとも思っていない……たまたま庇護したお前に、懐いていただけだ」


「兄者」


 フレデリクの言葉を遮り、オリヴァーは眉一つ動かさずに言う。


「それは俺達とどう違うのだ。俺は、ロミーの家族の死に何も心動かない」


 やめろ、と叫びたくなった。

 人と魔物の類似点や共通点を挙げて、同じ生き物だ、分かり合える生き物だと括ることほど愚かしいことはない。

 人と魔物は違う生き物だ。その線引きは明確にすべきだ。分かりあうこと、通じ合うこと、そういう共感を美談にすると目が曇る。

 そう叫びたいのに、声が上手くだせない。


「美談になど、できるものか」


 オリヴァーが、自分に言い聞かせるように呟く。


「俺は、これからロミーの母親を殺しに行くのだから」


 それだけ言い残して、オリヴァーは槍を片手に走り出した。

 宣言通り、あの銀髪の蜘蛛女を殺しに行くのだろう。

 フレデリクはパタリと地面に倒れる。そろそろ体力が限界だったのだ。

 視線の先にあるのは、ドロドロと体液を垂れ流す、惨たらしいロミーの亡骸。


(魔物の死骸などグチャグチャにしてしまえ、そうしないと僕は安心して眠れなかっただろう?)


 それなのに、今のフレデリクには、ロミーの亡骸を踏みにじる気がこれっぽっちも起きないのだ。


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