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白翼のハルピュイア  作者: 依空 まつり
八章 境界の魔女
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【24】食べたいほど大好きで、食べたくないほど愛おしい


 ロミーを助けてくれた少年オリヴァー・ランゲは、あの魔物狩りのランゲ一族の人間だった。

 ランゲ一族──魔物達の間では有名だ。同胞が何人も狩られている。

 それは分かっていたけれど、ロミーはどうしてもあの少年が気になって仕方がなかった。話をしてみたかったのだ。

 だから、人間に化けて、こっそりオリヴァーに会いに行った。


「この間は、助けてくれて、ありがとう!」


 思い切って話しかけ、礼を言うと、オリヴァーは不貞腐れた顔をした。


「助けてない」


「えっ」


「俺は、助けられなかった。猪の体当たりで気絶していただけだ」


 違うよ、そんなことないよ、だってわたし、本当に嬉しかったの。初めてだったの──そんな気持ちを込めて、オリヴァーの顔を覗き込む。

 あぁ、美味しそうだな、と思った。

 同時に、食べるのは嫌だな、と思った。


「あのねっ、わたし……オリヴァー君が来てくれた時、とてもとても嬉しかったの。わたし、誰かに助けてもらったの、初めてで……」


「助けたのは父様だ」


「でもっ、一番に来てくれたのは、オリヴァー君だったよ!」


 オリヴァーが顔を上げてロミーを見る。

 あぁ、良いな。素敵。とっても素敵──抱きしめたいという気持ちと、食べたいという気持ちが同時に込み上げてきた。

 それを押し殺し、ロミーは微笑む。


「だからね、ありがとうなの。オリヴァー君」


「……次は」


「うん」


「ちゃんと、助ける」


 嬉しい、大好き、大好き。

 食べたいぐらい大好きで、食べたくないほど愛しい。


「ありがとう、オリヴァー君」



 * * *



 水晶領域付近には、生きる目的をなくした人間が死にに来る場所が幾つかある。人の言葉で言うところの「自殺の名所」だ。時々死体の遺棄にも使われる。

 そういうところにやってくる人間を餌に、魔物達は細々と食い繋いでいたが、餌が不作で、かつ土地の魔力濃度が下がった年があった。

 特にロミーの母は力の強い魔物で、だからこそ、魔力濃度の低い土地で長時間活動はできない。人里に下りるということは、命を削るに等しい行為だ。

 それでも、餌に困った蜘蛛女達は久しぶりに人里を襲うと決めた。

 人里を襲うということは、ほぼ間違いなく魔物狩りのランゲが出てくるだろう。

 ロミーは青ざめ、母に懇願した。


 ──お願い、母様。オリヴァー君だけは殺さないで。わたしを助けてくれた、勇敢な(、、、)男の子なの。大好きなの。お願い母様、食べないで。


 その願いは叶い、母はオリヴァーを逃がしてくれた。

 ロミーはホッとしたけれど、結果、父を失ったオリヴァーは酷く消沈し、自分を責めた。

 父が死に、兄は正気を失った。自分が弱かったせいだ。臆病だったせいだ。

 そう言ってうずくまるオリヴァーが、あんまり苦しそうだったから、辛そうだったから。


「俺は強くなりたい。怖いものなど何もない、勇敢な男になりたい」


 ロミーはその願いを叶えたのだ。

 オリヴァーの頬に手を添え、目を覗き込む。そうして意識を酩酊させて、恐怖を啜る。少しずつ、丁寧に。

 もう大丈夫だよ、オリヴァー君。これで怖いものなんて何もない。オリヴァー君は強くなれる。

 そう思うと胸がいっぱいだった。


(あぁ、嬉しいな。役立たずのわたしが、好きな人の役に立てるんだ)


 恋した人の「恐怖」は濃厚で、とろけるようで、脳髄が甘く痺れるほど美味しかった。



 * * *



 森の中、銀髪の蜘蛛女が糸を張り巡らせ、糸の間を飛び回る。

 その糸から糸へ飛び移る瞬間、ハルピュイアの鋭い爪が蜘蛛女の体を切り裂いた。


「ルァァアアア!」


 宣言通り、ティアは歌を使わず、その鉤爪だけで蜘蛛女を追い詰めていく。

 最近はすっかり人間の戦い方に馴染んでいたが、ハルピュイアの体はちゃんと、魔物同士の戦い方を覚えていた。

 例えば、〈楔の塔〉でした魔法戦。魔術だけを武器に、ダメージの分だけ魔力が減るという不思議な空間での戦闘──あれは、ティアにとって非常にもどかしいものであった。

 あんな面倒な戦い方をせずとも、人間を殺すなら、鉤爪で首を裂くだけで良い。或いは、高いところから落とすでもいい。

 魔物との戦闘は、もう少し力技がいる。なにせ、魔物は頑丈なのだ。首を裂いただけでは、なかなか殺せない。


 ──だからグチャグチャになるまで引き裂き、肉も骨も臓物も、命の全てを握り潰す。それが、魔物同士の戦いだ。


 人間の目から見たら、見苦しい戦いなのだろう。技術も何もない。

 だが、魔物は技術に頼らずとも、人間を凌駕する力がある、速度がある。ティアは単純な暴力で、人間や弱い魔物を容易く蹂躙できた。体が大きくて頑丈な獣の魔物とは相性が悪いが、虫の類には強いのだ。

 蜘蛛女が体液をボタボタと垂らし、動きを止めた。そこにすかさずティアは飛びかかり、首の肉を食いちぎる。

 食いちぎった肉を咀嚼し、ティアは吐き捨てた。


「老いた肉だね。お前はもう長くない」


 虫の魔物はさほど寿命が長くない。人間の体に近い魔物でも、せいぜい二十年かそこらだ。ハルピュイアとそう変わらない。

 そして、この蜘蛛女はおそらく三十年近く生きている。この種にしては長生きした方だが、それでも寿命が近いのだ。

 蜘蛛女は美しい女の顔を歪め、しゃがれた声で笑った。


「そうとも、だから子のために残したいのだよ。恐怖を植えつけた極上の餌を。ランゲの子は二人いた。かつて逃げた方は勇敢ではないから、残った方がロミーの獲物であろう?」


 時に魔物は、同種の幼体のために餌を用意してやることがある。

 この蜘蛛女は、我が子のために餌を用意したのだ。


(フレデリクさんは間違えてる。この蜘蛛女が印を付けたのは、オリヴァーさんじゃない。フレデリクさんだ)


 この銀髪の蜘蛛女は、フレデリクに恐怖を植えつけ、極上の餌となるように育てた。

 いずれ我が子が飢えた時、その恐怖を啜らせるために。

 蜘蛛女は同種にも厳しいと噂に聞いたことがある。ましてこの銀髪は、蜘蛛女の中でも女王種と呼ばれる存在だ。子を甘やかしては周囲に示しがつかない。

 だから、こっそりご馳走を用意してやったのだ。


「だけど、お前の子どもは、その餌を食べなかった」


 ティアの指摘に、蜘蛛女は少しだけ眉根を寄せた。


「……おや、ロミーはランゲの子を食べているようだったが……違うのかえ? 勇敢そうな方に、恐怖をたっぷり植えつけてやったのに」


 やはりそうだ、とティアは確信した。

 この銀髪の蜘蛛女は、フレデリクとオリヴァーを間違えているのだ。

 そもそも、蜘蛛女はフレデリクとオリヴァーの区別がついてはいないのだろう。これはある意味、仕方のないことでもあった。大抵の魔物は、人間を識別するのが苦手なのだ。

 そうでなくとも、ランゲ兄弟は容姿が似ている。違いは髪型程度。オリヴァーの方が筋肉がついているが、服を着たらパッと見ただけでは分からない。だから、印をつける。


(母親の蜘蛛女はフレデリクさんに恐怖を植えつけたけど、ロミーさんは、ずっとオリヴァーさんの恐怖だけを食べ続けてたんだ)


 つまるところ、ランゲ兄弟は蜘蛛女母娘にそれぞれ印を付けられていたのだ。

 我が子の非常食のため、銀髪の蜘蛛女に恐怖を植えつけられたのが、兄のフレデリク。

 そして、ロミーに恐怖を食われ続けていたのが、弟のオリヴァー。

 ロミーが何を思って、オリヴァーの恐怖を食い続けてきたかは知らない。

 ただ、ロミーはオリヴァーの恐怖以外、人間を食ってはいないのだろう、とティアは確信していた。


(だってロミーさん、ガリガリだった。オリヴァーさんがランゲの里を出て、〈楔の塔〉に来てから、何も食べてないんだ)


 今目の前にいる銀髪の蜘蛛女は、娘のためにご馳走を用意した。

 ロミーはそれを知ってか知らずか、オリヴァーの恐怖を食い続けた。

 ランゲ兄弟は、そんな魔物達に巻き込まれた。

 ハルピュイアであるティアの心は、魔物の行動を自然なものと判断し、人間を知ったティアの心はランゲ兄弟に憐憫を覚える。


(そもそも、魔物は他の種の事情に嘴を挟まないけれど……)


 何故、こうしてティアが蜘蛛女の前に立ち塞がるのか。

 なんとなく蜘蛛女(こいつ)が嫌いだから──ではなく、ティアなりに戦う理由を考えてみたのだ。

 その上で、言葉にするならきっとこうだ。


「仲間のオリヴァーさんが、わたしを信じるって言ってくれたから。ライバルのフレデリクさんが死ぬのは嫌だから」


 そろそろ、ハルピュイアの姿でいられなくなる時間だ。

 ティアは痛みに喉を震わせながら、キャンディを口に放り込む。


「お前を、フレデリクさん達のところへは、行かせない」


 ティアは魔物のハルピュイアだが、同時に〈楔の塔〉の見習い魔術師という群れに属する生き物でもある。

 だから、群れのために戦うのだ。

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