【24】食べたいほど大好きで、食べたくないほど愛おしい
ロミーを助けてくれた少年オリヴァー・ランゲは、あの魔物狩りのランゲ一族の人間だった。
ランゲ一族──魔物達の間では有名だ。同胞が何人も狩られている。
それは分かっていたけれど、ロミーはどうしてもあの少年が気になって仕方がなかった。話をしてみたかったのだ。
だから、人間に化けて、こっそりオリヴァーに会いに行った。
「この間は、助けてくれて、ありがとう!」
思い切って話しかけ、礼を言うと、オリヴァーは不貞腐れた顔をした。
「助けてない」
「えっ」
「俺は、助けられなかった。猪の体当たりで気絶していただけだ」
違うよ、そんなことないよ、だってわたし、本当に嬉しかったの。初めてだったの──そんな気持ちを込めて、オリヴァーの顔を覗き込む。
あぁ、美味しそうだな、と思った。
同時に、食べるのは嫌だな、と思った。
「あのねっ、わたし……オリヴァー君が来てくれた時、とてもとても嬉しかったの。わたし、誰かに助けてもらったの、初めてで……」
「助けたのは父様だ」
「でもっ、一番に来てくれたのは、オリヴァー君だったよ!」
オリヴァーが顔を上げてロミーを見る。
あぁ、良いな。素敵。とっても素敵──抱きしめたいという気持ちと、食べたいという気持ちが同時に込み上げてきた。
それを押し殺し、ロミーは微笑む。
「だからね、ありがとうなの。オリヴァー君」
「……次は」
「うん」
「ちゃんと、助ける」
嬉しい、大好き、大好き。
食べたいぐらい大好きで、食べたくないほど愛しい。
「ありがとう、オリヴァー君」
* * *
水晶領域付近には、生きる目的をなくした人間が死にに来る場所が幾つかある。人の言葉で言うところの「自殺の名所」だ。時々死体の遺棄にも使われる。
そういうところにやってくる人間を餌に、魔物達は細々と食い繋いでいたが、餌が不作で、かつ土地の魔力濃度が下がった年があった。
特にロミーの母は力の強い魔物で、だからこそ、魔力濃度の低い土地で長時間活動はできない。人里に下りるということは、命を削るに等しい行為だ。
それでも、餌に困った蜘蛛女達は久しぶりに人里を襲うと決めた。
人里を襲うということは、ほぼ間違いなく魔物狩りのランゲが出てくるだろう。
ロミーは青ざめ、母に懇願した。
──お願い、母様。オリヴァー君だけは殺さないで。わたしを助けてくれた、勇敢な男の子なの。大好きなの。お願い母様、食べないで。
その願いは叶い、母はオリヴァーを逃がしてくれた。
ロミーはホッとしたけれど、結果、父を失ったオリヴァーは酷く消沈し、自分を責めた。
父が死に、兄は正気を失った。自分が弱かったせいだ。臆病だったせいだ。
そう言ってうずくまるオリヴァーが、あんまり苦しそうだったから、辛そうだったから。
「俺は強くなりたい。怖いものなど何もない、勇敢な男になりたい」
ロミーはその願いを叶えたのだ。
オリヴァーの頬に手を添え、目を覗き込む。そうして意識を酩酊させて、恐怖を啜る。少しずつ、丁寧に。
もう大丈夫だよ、オリヴァー君。これで怖いものなんて何もない。オリヴァー君は強くなれる。
そう思うと胸がいっぱいだった。
(あぁ、嬉しいな。役立たずのわたしが、好きな人の役に立てるんだ)
恋した人の「恐怖」は濃厚で、とろけるようで、脳髄が甘く痺れるほど美味しかった。
* * *
森の中、銀髪の蜘蛛女が糸を張り巡らせ、糸の間を飛び回る。
その糸から糸へ飛び移る瞬間、ハルピュイアの鋭い爪が蜘蛛女の体を切り裂いた。
「ルァァアアア!」
宣言通り、ティアは歌を使わず、その鉤爪だけで蜘蛛女を追い詰めていく。
最近はすっかり人間の戦い方に馴染んでいたが、ハルピュイアの体はちゃんと、魔物同士の戦い方を覚えていた。
例えば、〈楔の塔〉でした魔法戦。魔術だけを武器に、ダメージの分だけ魔力が減るという不思議な空間での戦闘──あれは、ティアにとって非常にもどかしいものであった。
あんな面倒な戦い方をせずとも、人間を殺すなら、鉤爪で首を裂くだけで良い。或いは、高いところから落とすでもいい。
魔物との戦闘は、もう少し力技がいる。なにせ、魔物は頑丈なのだ。首を裂いただけでは、なかなか殺せない。
──だからグチャグチャになるまで引き裂き、肉も骨も臓物も、命の全てを握り潰す。それが、魔物同士の戦いだ。
人間の目から見たら、見苦しい戦いなのだろう。技術も何もない。
だが、魔物は技術に頼らずとも、人間を凌駕する力がある、速度がある。ティアは単純な暴力で、人間や弱い魔物を容易く蹂躙できた。体が大きくて頑丈な獣の魔物とは相性が悪いが、虫の類には強いのだ。
蜘蛛女が体液をボタボタと垂らし、動きを止めた。そこにすかさずティアは飛びかかり、首の肉を食いちぎる。
食いちぎった肉を咀嚼し、ティアは吐き捨てた。
「老いた肉だね。お前はもう長くない」
虫の魔物はさほど寿命が長くない。人間の体に近い魔物でも、せいぜい二十年かそこらだ。ハルピュイアとそう変わらない。
そして、この蜘蛛女はおそらく三十年近く生きている。この種にしては長生きした方だが、それでも寿命が近いのだ。
蜘蛛女は美しい女の顔を歪め、しゃがれた声で笑った。
「そうとも、だから子のために残したいのだよ。恐怖を植えつけた極上の餌を。ランゲの子は二人いた。かつて逃げた方は勇敢ではないから、残った方がロミーの獲物であろう?」
時に魔物は、同種の幼体のために餌を用意してやることがある。
この蜘蛛女は、我が子のために餌を用意したのだ。
(フレデリクさんは間違えてる。この蜘蛛女が印を付けたのは、オリヴァーさんじゃない。フレデリクさんだ)
この銀髪の蜘蛛女は、フレデリクに恐怖を植えつけ、極上の餌となるように育てた。
いずれ我が子が飢えた時、その恐怖を啜らせるために。
蜘蛛女は同種にも厳しいと噂に聞いたことがある。ましてこの銀髪は、蜘蛛女の中でも女王種と呼ばれる存在だ。子を甘やかしては周囲に示しがつかない。
だから、こっそりご馳走を用意してやったのだ。
「だけど、お前の子どもは、その餌を食べなかった」
ティアの指摘に、蜘蛛女は少しだけ眉根を寄せた。
「……おや、ロミーはランゲの子を食べているようだったが……違うのかえ? 勇敢そうな方に、恐怖をたっぷり植えつけてやったのに」
やはりそうだ、とティアは確信した。
この銀髪の蜘蛛女は、フレデリクとオリヴァーを間違えているのだ。
そもそも、蜘蛛女はフレデリクとオリヴァーの区別がついてはいないのだろう。これはある意味、仕方のないことでもあった。大抵の魔物は、人間を識別するのが苦手なのだ。
そうでなくとも、ランゲ兄弟は容姿が似ている。違いは髪型程度。オリヴァーの方が筋肉がついているが、服を着たらパッと見ただけでは分からない。だから、印をつける。
(母親の蜘蛛女はフレデリクさんに恐怖を植えつけたけど、ロミーさんは、ずっとオリヴァーさんの恐怖だけを食べ続けてたんだ)
つまるところ、ランゲ兄弟は蜘蛛女母娘にそれぞれ印を付けられていたのだ。
我が子の非常食のため、銀髪の蜘蛛女に恐怖を植えつけられたのが、兄のフレデリク。
そして、ロミーに恐怖を食われ続けていたのが、弟のオリヴァー。
ロミーが何を思って、オリヴァーの恐怖を食い続けてきたかは知らない。
ただ、ロミーはオリヴァーの恐怖以外、人間を食ってはいないのだろう、とティアは確信していた。
(だってロミーさん、ガリガリだった。オリヴァーさんがランゲの里を出て、〈楔の塔〉に来てから、何も食べてないんだ)
今目の前にいる銀髪の蜘蛛女は、娘のためにご馳走を用意した。
ロミーはそれを知ってか知らずか、オリヴァーの恐怖を食い続けた。
ランゲ兄弟は、そんな魔物達に巻き込まれた。
ハルピュイアであるティアの心は、魔物の行動を自然なものと判断し、人間を知ったティアの心はランゲ兄弟に憐憫を覚える。
(そもそも、魔物は他の種の事情に嘴を挟まないけれど……)
何故、こうしてティアが蜘蛛女の前に立ち塞がるのか。
なんとなく蜘蛛女が嫌いだから──ではなく、ティアなりに戦う理由を考えてみたのだ。
その上で、言葉にするならきっとこうだ。
「仲間のオリヴァーさんが、わたしを信じるって言ってくれたから。ライバルのフレデリクさんが死ぬのは嫌だから」
そろそろ、ハルピュイアの姿でいられなくなる時間だ。
ティアは痛みに喉を震わせながら、キャンディを口に放り込む。
「お前を、フレデリクさん達のところへは、行かせない」
ティアは魔物のハルピュイアだが、同時に〈楔の塔〉の見習い魔術師という群れに属する生き物でもある。
だから、群れのために戦うのだ。




