【23】虫ケラに聞かせる歌はない
燃えろ燃えろ燃えろ、と念じながらティアは蜘蛛の糸を炙っていた。
こういう時、火の魔術を使えない自分がもどかしい。ユリウスやアグニオールがいてくれたら一発なのに。
その時、背後で轟音がした。ムカデの魔物の巨体がひっくり返っている。
フレデリクがオリヴァーの槍を奪って、魔物に反撃したのだ。
そこまでは良かったが、蜘蛛の魔物がフレデリクの手から槍を奪い、振りかぶった。
「兄者ぁぁぁ!」
オリヴァーがフレデリクの前に立つ。
(助けなきゃ)
だが、ティアとは距離が開きすぎている。跳躍用魔導具を使えばひとっ飛びの距離だが、ティアの両手は松明で塞がっていて、レバーが握れない。
(駄目、間に合わない!)
その時、ティアの耳はいくつかの音を捉えた。
蜘蛛女の笑い声、オリヴァーが兄を呼ぶ声、フレデリクの呼吸音、ムカデの巨体が痙攣する音、それと、もう一つ。
──カサカサという静かな音とともに、彼女はオリヴァーの前に飛び出した。
それは蜘蛛女だった。上半身は黒髪の痩せた娘で、下半身は蜘蛛。ただ、銀髪の蜘蛛女と比べると、一回りも二回りも体が小さい。
その若い娘の上半身、体の中心に槍が突き刺さった。
ゾブリと肉を抉る音がする。
黒髪がパッと広がり、少し遅れて鮮血が飛び散る。
「…………ロミー?」
オリヴァーの呟きに、黒髪の蜘蛛女が振り向く。
血で汚れたその顔は、確かに村でオリヴァーに話しかけていた娘──ロミーのそれだ。
ティアは声には出さず、胸の内で呟く。
(やっぱり。そうだったんだ)
槍に貫かれたロミーに、銀髪の蜘蛛女が大きく目を見開く。
その顔に浮かぶ表情は──絶望と悲しみだ。
「あぁ、あぁ、ロミー……お前は一体、何をしているのです。お前のために、また恐怖を用意していたのに……どうして、人間などを……」
「……ごめんなさい、母様……」
謝罪しながらロミーは全身を震わせる。それは、悲しみに体を震わせているのではない。痛みによる痙攣でもない。
──蜘蛛女が糸を吐く予兆だ。
ロミーは大量の糸を、銀髪の蜘蛛女目掛けて放つ。それとほぼ同時に、ティアの松明が行く手を阻む糸を焼き切った。
「オリヴァーさん! こっち!」
オリヴァーは槍で貫かれたロミーと、地に倒れるフレデリク。その二人を同時に担いだ。流石に重いらしく、その顔は真っ赤だ。
オリヴァーを手伝ってやりたいが、二人がかりで重傷者を運んでも、すぐに追いつかれるだろう。
ロミーが吐いた糸で、多少は時間を稼げそうだが、追いつかれるのは時間の問題。
(……それなら)
ティアは松明を足下に置いて、跳躍用魔導具のレバーを引いた。
金属でできた短い羽が背中に広がる。
「ティア!」
「オリヴァーさん、行って」
ティアは低い声で行って、近くの木の枝の上に飛び移る。
そうして、オリヴァーを見下ろし、ピョフンと鳴いた。
「わたしは、大丈夫だよ」
「…………」
「信じてくれる?」
自分でも信じられないような言葉が、ティアの口をついて出た。
オリヴァーは一度目を閉じ、声を張り上げる。
「この恩は必ずや返す! 死ぬな、ティア!」
「ピヨップ!」
元気に返して、ティアは跳躍する。白い糸がカーテンのように広がる森。それを飛び越えた先で、糸の塊が繭のようにもぞもぞと動いている。
やがて糸の隙間から飛び出した鉤爪が、それをブチブチと切断した。
中から姿を現したのは、あの銀髪の蜘蛛女だ。
「ロミーを連れて逃げおったか……なれば小娘、お前の手足を一本ずつもぐとしよう。その悲鳴を聞いたら、きっと戻ってくるじゃろうて」
ピョフッと喉を震わし、ティアはポケットから小瓶を取り出した。
小瓶の飴を一粒歯の間に挟み、ティアは口の端を持ち上げる。
「たかが虫ケラが、鳥の手足をもぐ?」
銀髪の蜘蛛女がピクリと目元を震わせる。
ティアは上着とブーツを脱ぎ捨てて、キャンディを噛み砕いた。
伸ばした両腕から伸びるのは純白の翼。枝を掴むのは、鋭い爪の生えた鳥の足。
虫にとって、鳥は天敵だ。蜘蛛女の顔が驚愕に歪む。
それを心地良く見下ろし、首折り渓谷のハルピュイアは高らかに告げた。
「虫ケラに聞かせる歌はない。啄み、引き裂き、殺してあげる」
* * *
右手に兄、左手にロミーを抱え、半ば引きずるようにオリヴァーは走った。走って、走って、腕が限界を迎えたところで、足を止め、二人を下ろす。
兄は全身を負傷し、蜘蛛の毒で痙攣している。
ロミーは体の中心に槍が刺さったまま、ぐったりと目を閉じていた。これを抜いたら、余計に出血が増すだろう。
下手に動かさず、医者が来るまで、抜かずにいるのが正解か。だが、医者がこの状態のロミーを見て、治療をしてくれるだろうか──上半身は人、下半身は蜘蛛の彼女を。
「ロミー、教えてくれ。どうすれば、お前を助けられる」
魔物のことは、魔物に訊くのが一番だろう。と率直に訊ねたら、ロミーは小さく笑った。
「オリヴァー……くん……わたしね、魔物なんだよ」
「あぁ、そうかもしれない、と思った」
ロミーが驚いたように、小さく瞬きをする。
「……いつ?」
「ついさっきだ」
なにそれ、と情けない声でロミーは笑った。笑った拍子に、コプリと口から血泡が垂れる。
魔物は人間より頑丈なはずだ。それなのに、痩せこけているロミーの体からは、生命力を感じなかった。
若い娘に似せた上半身は肉が薄く、首も腕も折れそうに細い。栄養が足りていないのだ。
「お前、が……」
その時、背後で掠れた声がした。兄のフレデリクだ。
あれだけボロボロになって、毒を受けて、それでもフレデリクは起きあがろうとしていた。両膝をついて、ガクガクと震える腕で上体を持ち上げて。
ガクリと傾いた兄の体を、オリヴァーは咄嗟に支える。
「兄者、起きてはいけない」
「黙れ、この、クソ馬鹿弟ッ」
フレデリクは震える手でオリヴァーの胸ぐらを掴む。
そして、怒りに歪んだ顔で怒鳴った。
「なんで気づかないっ! お前は、そいつに、恐怖を食われていたんだ。餌にされてたんだよっ!」
「そう」
フレデリクの罵声を、ロミーが静かに肯定する。
「わたしが食べたの」
ロミーの表情は静かで、どこか穏やかですらあった。
「わたしが、オリヴァー君の恐怖を食べてたの。子どもの時から、ずっと……ずっと」
* * *
ロミーは力の弱い魔物だった。
非力で、糸を吐くのも下手。食事も偏食で、蜘蛛女なのに人の肉が食えない。
本来、蜘蛛女は雑食だ。個体ごとの好みはあれど、人間から生じるものは大抵糧にできる。
肉も、血も、その感情も。
だが、ロミーはどうしても血肉を受け付けない。食えるのは感情だけ。それは生きていく上で、非常に不利だった。
血肉を糧にできるなら、人の亡骸を食えば良い。だが、死者に感情はない。感情を食うには、生きた人間を襲うしかないのだ。
力の弱いロミーは、母親のおこぼれをこっそりもらって、かろうじて生き延びてきたが、遂には同族達に「役立たず」「自分の獲物は自分で見つけろ」と追い立てられた。
ロミーは蜘蛛の魔物としては非常に力が弱かったが、人の皮を被るのだけは上手かった。
また、力が弱いからこそ、魔力濃度の低い人の領域で、長時間の活動ができる。
だから、ロミーは幼い子どもの姿に化けて、人里に近づこうとしたのだが、野生動物に追い回されて死にかける日々。
野生動物にも劣るなんて、魔物のくせに情けない。仲間達が嘲笑う声が聞こえるかのようだ。
同じ魔物達に見捨てられ、野生動物に襲われ、空腹を抱えて逃げ回る日々。
猪に追われ、坂を転げ回り、悲鳴をあげながら、ロミーは死を覚悟した。
(ごめんなさい、母様……本当は、私が母様に餌を届けなくちゃいけなかったのに……猪に食われるような、情けない魔物でごめんなさい……)
その時、猪にコツンと石がぶつかった。ロミーが投げた物じゃない。
「おい! こっちだ!」
それは、槍を握りしめた人間の子どもだった。
薄茶の髪をツンツン逆立てた少年は、果敢に猪に挑んだが、猪の体当たりで呆気なく吹き飛ばされる。
ロミーはグチャグチャに泣きながら少年に近づいた。魔物だって、泣けるのだ。弱虫のロミーは、多分他のどの魔物よりも泣き虫だった。
「うぇえ、ひぃん……だ、だいじょうぶ……?」
少年はどう見ても大丈夫ではなくて、フラフラしていて、それなのに、ロミーを庇って、こう言ったのだ。
「大丈夫、だ……ゴフッ、オエッ……俺が、助げにぎだ……ゲェッ」
その時、弱い蜘蛛女のロミーは生まれて初めて、誰かに守ってもらったのだ。




