【幕間】怖がり少年の幼馴染
オリヴァーの暮らすランゲの里の奥にある山の向こう側、深い森のそのまた先に、魔物達が棲む〈水晶領域〉があるという。
力の強い魔物に負けた弱い魔物は〈水晶領域〉を追われ、人の領域に逃げてくる。そうした魔物達を排除するのが、ランゲの家に生まれた人間の使命だ。
当時九歳だったオリヴァーは、毎日父に訓練をつけてもらいつつ、朝夕と時間があれば山に入って槍を振るっていた。
山には基本的に子ども一人で入るなと言われているが、ある程度のところまでは、入ってもそれほど咎められない。
いずれ大きくなったなら、オリヴァーもまた父達と一緒に山に入って、魔物狩りをするのだ。
ならば、今から山に慣れておいて、困ることはない。大人達はそう考えているのだろう。
大人達がオリヴァーの訓練を咎めない理由の一つに、オリヴァーの兄フレデリクの存在があった。
ランゲ一族は長子が家を継ぐのだが、フレデリクは怖がりで臆病で、隙あらば訓練をサボろうとする。大人達が魔物狩りの心得を語って聞かせると、魔物が怖いとシクシク泣き出す始末。
だからオリヴァーが強くなろうとすることを、大人達は歓迎していたのだ。
ある日の夕方、オリヴァーは槍を担いで山の中を歩いていた。
木々が密集した場所だと、槍は案外使いづらい。突いて使うには良いが、振り回すと木々にぶつかる。
故に、そういった場所での立ち回りを体に覚えさせるため、オリヴァーは木々が密集した場所で、槍を振るう訓練をしていた。
適当な木に目印の板をぶら下げて、走りながら正確に突く。正確に当てることばかり意識したら、動きが硬くぎこちなくなった。多分、これは父にダメ出しをされるだろう。
もう一回、とやり直したら、今度は槍の穂先がずれて、板をぶら下げるための縄を切ってしまった。
木から板が落ちて、オリヴァーの頭にゴチンとぶつかる。
「ぐぉおお……」
頭を押さえ、痛みに呻いていたオリヴァーは、その時、自分の唸り声とは違う、甲高い声を聞いた。
──今のは少女の悲鳴だ。
オリヴァーは槍を握り、声が聞こえた方角に向かって走った。毎日歩き回っているので、山の地形は凡そ把握している。声が聞こえた方に、どう向かうのが一番近道かも。
木々の間を駆け抜けた先、軽い勾配を下った先に見えたのは、へたりこんでいる少女と猪だ。
猪は魔物ではないけれど、野生動物だって子どもにとっては充分に脅威だ。
オリヴァーは震えそうになる己を叱咤し、足元の石を猪に向かって投げつけた。
「おい! こっちだ!」
オリヴァーに気づいた猪が、ブフォオ、ブフォオと荒い息を吐きながら方向転換する。
こっちを向いた──と思った瞬間にはもう、猪はオリヴァーの目前に迫っていた。速い。
「くっ、うぉぉぉおおおお!」
オリヴァーは槍を突き出す。正確に猪の顔を狙ったつもりだった。だが、僅かにそれた穂先は、突進の勢いに負けて、毛皮の上を滑り、呆気なく弾かれる。
猪の体当たりは、ギリギリ体を捻ったことで直撃こそ避けられた。それでも九歳の子どもの体は呆気なく弾き飛ばされ、ゴロゴロと勾配を転がり落ちる。
痛みに呻いていると、猪に襲われていた少女がオリヴァーのもとに駆け寄ってきた。
少女は涙で顔をグチャグチャに汚しながら、震える声でオリヴァーに話しかける。
「うぇえ、ひぐっ……だ、だいじょうぶ……?」
「大丈夫、だ……ゴフッ、オエッ……俺が、助げにぎだ……ゲェッ」
喋りながらオリヴァーは吐いた。頭がグラグラして起き上がれない。
立たなくては。槍はどこだ。
オリヴァーは震える手で槍を探した。そこに猪が突っ込んでくる。それでも、少女だけは守らねば。自分はランゲの人間なのだから。
そうして衝撃を感じたのと同時に、オリヴァーの意識はプツリと途切れた。
* * *
次に目を覚ました時は、屋敷のベッドの中だった。
目覚めたオリヴァーは寝返りをうとうとして、肋の痛みに呻いた。見れば、いたるところに包帯が巻かれている。
その時、ベッドのすぐそばで兄の声がした。
「オリヴァー、大丈夫!? 誰か! 誰かぁー! オリヴァーが目を覚ましたよ!」
どうやら兄は心配して、寝ているオリヴァーの様子を見にきていたらしい。
駆けつけた大人達の話を聞いたオリヴァーは、自分が猪に襲われ、気絶したことを知った。
少女の悲鳴を聞いた父が駆けつけ、猪は速やかに駆除。少女は無事保護され、村に帰ったという。
(魔物ですらない、動物に負けた……)
その事実にオリヴァーは打ちのめされた。
九歳の子どもには、猪だって脅威だ。命を落とすことも有り得ただろう。
それでもオリヴァーは、自分の非力さに打ちひしがれた。
* * *
猪と遭遇して一ヶ月が経ち、ある程度傷が癒えた頃、山の中で槍を振り回していたら、木々の合間に黒髪がチラチラと見えた。
以前猪に襲われていた、あの少女だ。
「そこに隠れるのは危ないぞ。槍が当たったら危険だ」
「あっ、あっ、あの……」
木の裏に隠れていた少女が、おずおずと顔を出す。
真っ直ぐな黒髪を背中の辺りまで伸ばした少女だ。年齢はオリヴァーと同じぐらいだろうか。あまり山歩きには向かなそうな、ふんわりした服を着ている。
「わたし、ロミー」
「俺はオリヴァーだ」
「うん。知ってる……魔物狩りのランゲの、オリヴァー君」
少女はスカートを両手でギュッと掴み、勢いよく頭を下げた。
「この間は、助けてくれて、ありがとう!」
「助けてない」
「えっ」
ロミーが目を丸くしてオリヴァーを見る。
オリヴァーは、少し不貞腐れながらボソリと言った。
「俺は、助けられなかった。猪の体当たりで気絶していただけだ」
あの猪を一撃で仕留められなかったのは、オリヴァーがあの猪に恐怖したからだ。
最後まで踏ん張ることも、向き合うこともできず、頭のどこかで逃げたいと考えてしまったから、穂先はずれ、そして弾き飛ばされた。
黙り込むオリヴァーのもとに、ロミーが駆け寄る。
オリヴァーは気まずくなって、ロミーから目を逸らすように俯いた。
「あのねっ、わたし……」
「…………」
「オリヴァー君が来てくれた時、とてもとても嬉しかったの。わたし、誰かに助けてもらったの、初めてで……」
「助けたのは父様だ」
「でもっ、一番に来てくれたのは、オリヴァー君だったよ!」
オリヴァーはハッと顔を上げる。
ロミーは頬を林檎みたいに赤くして微笑んでいた。
「だからね、ありがとうなの。オリヴァー君」
「……次は」
「うん」
「ちゃんと、助ける」
オリヴァーがボソリと言うと、ロミーはフニャフニャと頬を緩めた。
「ありがとう、オリヴァー君」
* * *
その日から、オリヴァーが山で訓練をしていると、時々ロミーがやってくるようになった。
ロミーは邪魔にならない場所に座って、オリヴァーの訓練をじっと見る。
あんまり真剣に見ているものだから、槍に興味があるのか? と訊ねたら、ロミーは勢いよく首を横に振った。
「槍に興味がないのなら、訓練など見ていてつまらないだろう」
「そんなことないよ! オリヴァー君見てるの、楽しいもん」
「楽しいのか?」
「うん!」
膝を抱えて座っていたロミーは、膝の上で頬杖をついて、オリヴァーを見上げる。
「わたしはね、オリヴァー君がカッコイイから、見てるんだよ」
ロミーの言うことが、オリヴァーにはピンとこない。
それは、オリヴァーが自分は臆病な人間であると自覚しているからだ。
「俺は格好悪い。本当は、怖いものだらけだ」
ランゲの人間は皆、兄のフレデリクを臆病と言い、弟のオリヴァーを勇敢だと言う。
だが、本当はオリヴァーだって臆病だ。いつだって、怖くて怖くて仕方がない。
「魔物が怖い。魔物のせいで、父様や兄者を失うのが怖い」
低木樹の茂みが怖い。小型の魔物はそういった場所に身を潜め、獲物が近づくのを待っているのだという。
だから、何かが飛び出してくるんじゃないかと思うと、怖くて怖くて仕方がない。
嵐の夜が怖い。嵐は魔物を連れてくる。そして夜は魔物達が最も活発になり、人間を暗闇に引き摺り込んで食らうのだと、大人達が言っていた。
「俺は、怖いものだらけの人間なんだ」
「大丈夫だよ」
ロミーは立ち上がると、俯くオリヴァーを下から覗き込む。
丸い目が、オリヴァーを鏡みたいに映した。
「オリヴァー君は、強いもの」
幼い手が、オリヴァーの両頬をフニッと優しく潰す。
ロミーはフニャリと頬を緩めて笑った。
「わたし、いっぱい応援する。頑張れ、オリヴァー君」




