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白翼のハルピュイア  作者: 依空 まつり
八章 境界の魔女
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【幕間】怖がり少年の幼馴染


 オリヴァーの暮らすランゲの里の奥にある山の向こう側、深い森のそのまた先に、魔物達が棲む〈水晶領域〉があるという。

 力の強い魔物に負けた弱い魔物は〈水晶領域〉を追われ、人の領域に逃げてくる。そうした魔物達を排除するのが、ランゲの家に生まれた人間の使命だ。

 当時九歳だったオリヴァーは、毎日父に訓練をつけてもらいつつ、朝夕と時間があれば山に入って槍を振るっていた。

 山には基本的に子ども一人で入るなと言われているが、ある程度のところまでは、入ってもそれほど咎められない。

 いずれ大きくなったなら、オリヴァーもまた父達と一緒に山に入って、魔物狩りをするのだ。

 ならば、今から山に慣れておいて、困ることはない。大人達はそう考えているのだろう。

 大人達がオリヴァーの訓練を咎めない理由の一つに、オリヴァーの兄フレデリクの存在があった。

 ランゲ一族は長子が家を継ぐのだが、フレデリクは怖がりで臆病で、隙あらば訓練をサボろうとする。大人達が魔物狩りの心得を語って聞かせると、魔物が怖いとシクシク泣き出す始末。

 だからオリヴァーが強くなろうとすることを、大人達は歓迎していたのだ。



 ある日の夕方、オリヴァーは槍を担いで山の中を歩いていた。

 木々が密集した場所だと、槍は案外使いづらい。突いて使うには良いが、振り回すと木々にぶつかる。

 故に、そういった場所での立ち回りを体に覚えさせるため、オリヴァーは木々が密集した場所で、槍を振るう訓練をしていた。

 適当な木に目印の板をぶら下げて、走りながら正確に突く。正確に当てることばかり意識したら、動きが硬くぎこちなくなった。多分、これは父にダメ出しをされるだろう。

 もう一回、とやり直したら、今度は槍の穂先がずれて、板をぶら下げるための縄を切ってしまった。

 木から板が落ちて、オリヴァーの頭にゴチンとぶつかる。


「ぐぉおお……」


 頭を押さえ、痛みに呻いていたオリヴァーは、その時、自分の唸り声とは違う、甲高い声を聞いた。


 ──今のは少女の悲鳴だ。


 オリヴァーは槍を握り、声が聞こえた方角に向かって走った。毎日歩き回っているので、山の地形は凡そ把握している。声が聞こえた方に、どう向かうのが一番近道かも。

 木々の間を駆け抜けた先、軽い勾配を下った先に見えたのは、へたりこんでいる少女と猪だ。

 猪は魔物ではないけれど、野生動物だって子どもにとっては充分に脅威だ。

 オリヴァーは震えそうになる己を叱咤し、足元の石を猪に向かって投げつけた。


「おい! こっちだ!」


 オリヴァーに気づいた猪が、ブフォオ、ブフォオと荒い息を吐きながら方向転換する。

 こっちを向いた──と思った瞬間にはもう、猪はオリヴァーの目前に迫っていた。速い。


「くっ、うぉぉぉおおおお!」


 オリヴァーは槍を突き出す。正確に猪の顔を狙ったつもりだった。だが、僅かにそれた穂先は、突進の勢いに負けて、毛皮の上を滑り、呆気なく弾かれる。

 猪の体当たりは、ギリギリ体を捻ったことで直撃こそ避けられた。それでも九歳の子どもの体は呆気なく弾き飛ばされ、ゴロゴロと勾配を転がり落ちる。

 痛みに呻いていると、猪に襲われていた少女がオリヴァーのもとに駆け寄ってきた。

 少女は涙で顔をグチャグチャに汚しながら、震える声でオリヴァーに話しかける。


「うぇえ、ひぐっ……だ、だいじょうぶ……?」


「大丈夫、だ……ゴフッ、オエッ……俺が、助げにぎだ……ゲェッ」


 喋りながらオリヴァーは吐いた。頭がグラグラして起き上がれない。

 立たなくては。槍はどこだ。

 オリヴァーは震える手で槍を探した。そこに猪が突っ込んでくる。それでも、少女だけは守らねば。自分はランゲの人間なのだから。

 そうして衝撃を感じたのと同時に、オリヴァーの意識はプツリと途切れた。



 * * *



 次に目を覚ました時は、屋敷のベッドの中だった。

 目覚めたオリヴァーは寝返りをうとうとして、肋の痛みに呻いた。見れば、いたるところに包帯が巻かれている。

 その時、ベッドのすぐそばで兄の声がした。


「オリヴァー、大丈夫!? 誰か! 誰かぁー! オリヴァーが目を覚ましたよ!」


 どうやら兄は心配して、寝ているオリヴァーの様子を見にきていたらしい。

 駆けつけた大人達の話を聞いたオリヴァーは、自分が猪に襲われ、気絶したことを知った。

 少女の悲鳴を聞いた父が駆けつけ、猪は速やかに駆除。少女は無事保護され、村に帰ったという。


(魔物ですらない、動物に負けた……)


 その事実にオリヴァーは打ちのめされた。

 九歳の子どもには、猪だって脅威だ。命を落とすことも有り得ただろう。

 それでもオリヴァーは、自分の非力さに打ちひしがれた。



 * * *



 猪と遭遇して一ヶ月が経ち、ある程度傷が癒えた頃、山の中で槍を振り回していたら、木々の合間に黒髪がチラチラと見えた。

 以前猪に襲われていた、あの少女だ。


「そこに隠れるのは危ないぞ。槍が当たったら危険だ」


「あっ、あっ、あの……」


 木の裏に隠れていた少女が、おずおずと顔を出す。

 真っ直ぐな黒髪を背中の辺りまで伸ばした少女だ。年齢はオリヴァーと同じぐらいだろうか。あまり山歩きには向かなそうな、ふんわりした服を着ている。


「わたし、ロミー」


「俺はオリヴァーだ」


「うん。知ってる……魔物狩りのランゲの、オリヴァー君」


 少女はスカートを両手でギュッと掴み、勢いよく頭を下げた。


「この間は、助けてくれて、ありがとう!」


「助けてない」


「えっ」


 ロミーが目を丸くしてオリヴァーを見る。

 オリヴァーは、少し不貞腐れながらボソリと言った。


「俺は、助けられなかった。猪の体当たりで気絶していただけだ」


 あの猪を一撃で仕留められなかったのは、オリヴァーがあの猪に恐怖したからだ。

 最後まで踏ん張ることも、向き合うこともできず、頭のどこかで逃げたいと考えてしまったから、穂先はずれ、そして弾き飛ばされた。

 黙り込むオリヴァーのもとに、ロミーが駆け寄る。

 オリヴァーは気まずくなって、ロミーから目を逸らすように俯いた。


「あのねっ、わたし……」


「…………」


「オリヴァー君が来てくれた時、とてもとても嬉しかったの。わたし、誰かに助けてもらったの、初めてで……」


「助けたのは父様だ」


「でもっ、一番に来てくれたのは、オリヴァー君だったよ!」


 オリヴァーはハッと顔を上げる。

 ロミーは頬を林檎みたいに赤くして微笑んでいた。


「だからね、ありがとうなの。オリヴァー君」


「……次は」


「うん」


「ちゃんと、助ける」


 オリヴァーがボソリと言うと、ロミーはフニャフニャと頬を緩めた。


「ありがとう、オリヴァー君」



 * * *



 その日から、オリヴァーが山で訓練をしていると、時々ロミーがやってくるようになった。

 ロミーは邪魔にならない場所に座って、オリヴァーの訓練をじっと見る。

 あんまり真剣に見ているものだから、槍に興味があるのか? と訊ねたら、ロミーは勢いよく首を横に振った。


「槍に興味がないのなら、訓練など見ていてつまらないだろう」


「そんなことないよ! オリヴァー君見てるの、楽しいもん」


「楽しいのか?」


「うん!」


 膝を抱えて座っていたロミーは、膝の上で頬杖をついて、オリヴァーを見上げる。


「わたしはね、オリヴァー君がカッコイイから、見てるんだよ」


 ロミーの言うことが、オリヴァーにはピンとこない。

 それは、オリヴァーが自分は臆病な人間であると自覚しているからだ。


「俺は格好悪い。本当は、怖いものだらけだ」


 ランゲの人間は皆、兄のフレデリクを臆病と言い、弟のオリヴァーを勇敢だと言う。

 だが、本当はオリヴァーだって臆病だ。いつだって、怖くて怖くて仕方がない。


「魔物が怖い。魔物のせいで、父様や兄者を失うのが怖い」


 低木樹の茂みが怖い。小型の魔物はそういった場所に身を潜め、獲物が近づくのを待っているのだという。

 だから、何かが飛び出してくるんじゃないかと思うと、怖くて怖くて仕方がない。

 嵐の夜が怖い。嵐は魔物を連れてくる。そして夜は魔物達が最も活発になり、人間を暗闇に引き摺り込んで食らうのだと、大人達が言っていた。


「俺は、怖いものだらけの人間なんだ」


「大丈夫だよ」


 ロミーは立ち上がると、俯くオリヴァーを下から覗き込む。

 丸い目が、オリヴァーを鏡みたいに映した。


「オリヴァー君は、強いもの」


 幼い手が、オリヴァーの両頬をフニッと優しく潰す。

 ロミーはフニャリと頬を緩めて笑った。


「わたし、いっぱい応援する。頑張れ、オリヴァー君」



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