【1】記憶を辿る
──随分昔の夢を見た。
ハルピュイアは基本的に忘れっぽい生き物だ。
だから、楽しいことはなるべく沢山覚えておいて、嫌なことはさっさと忘れる。
それなのに、その記憶はいつまでもティアの頭にこびりついていた。
今も、うんざりするぐらい鮮明に夢に見る。
「こんにちは、小鳥さん。わたしはフィーネ」
サラサラとした真っ直ぐな黒髪に白い肌の少女だった。年齢はティアと同じか、少し下ぐらい。
身につけているのは白いドレス。
少女を見て感じた違和感を、あの頃のティアは上手く言葉にできなかった。
人を知った今なら、少しだけ分かる。
──あれは、何かを体現するべく大人達が手入れした少女だ。容姿も思考もその在り方も。
教室で勉強を受ける教育とは違う。選択の余地のない直接的な介入。
人形に服を着せて、リボンを結ぶように。
あるいは庭に手を入れて、整えるように。
あれは、大人達が少しずつ手を加えて、大人達が望む形にした少女だ。
けれどフィーネは、「自分」がないわけではない。
大人達の願いを受け入れながら、それでもなお、彼女は恐ろしいほど強烈な自我を持っていた。
「わたしは神様の子なの。みんなの幸せのために、ここにいるのよ」
神様。その単語をティアは知っている。歌の中に時々出てくる言葉だ。
人は歌の中で神様に願う。祝福を、慈悲を、救いを。
そして人は神に許しを乞う。
だけどティアは神様を見たことがないから、あまりよく分かっていない。
名前は知っているけれど、理解はできていないもの。それが神様だ。
「わたしは神様の子どもだから、人の子と友達にはなれないの。人の子は救済対象だから」
ティアにはフィーネの言っていることが理解できない。
ただ、気持ち悪いと思った。
「ティアは人ではないから、友達になっても良いでしょう?」
気持ち悪い。
「愛してるわティア」
気持ち悪い。
「わたしが男の子だったら良かったのに。そうしたら、ティアに卵を産んで貰えたでしょう?」
気持ち悪い。
(誰が、お前の卵なんて産むものか)
フィーネは大人達の理想で作られた存在だ。
それでいて、彼女は大人達が考えるのとは違う形に歪んでいた。少しずつ、けれど確かに。
(ここは嫌だ)
フィーネの部屋は快適な温度に保たれた清潔な部屋だ。ただ、子ども部屋という雰囲気ではない。
壁紙などは白を基調とし、調度品は美しく、ファブリックは清潔──全てが、この少女を清楚で可憐なものにするために用意されていた。
そこまで徹底して完璧な部屋なのに、何故かあの部屋には窓がなかった。
* * *
「………………ぺふぴょっ」
目を覚ましたティアは、布団の中でコロンと寝返りをうって起き上がる。
久しぶりに、あの子の夢を見た。
ティアにとって数年前は、そこそこ昔の話である。元より忘れっぽい気質のハルピュイアなのだ。数年前のことなんて、普通はそこまで覚えていない。
それなのに、空を飛べない事実を噛み締める度、あの頃の記憶が蘇るのだ。
何度でも、何度でも。
〈楔の塔〉に来て、色んな人と触れ合っていく内に、あの少女の記憶は忘れていくのだと思っていたのに。
(やだな。今日は魔法戦の本番なのに)
ティアは両手で己の頬をグニグニとこねる。ついでに頭もこねてみた。時々セビルがやるのだが、丁度良いところを押すとなかなか気持ち良いのだ。
頭をコネコネしていたら、ちょっとだけスッキリした気がする。
二段ベッドの下を覗き込むとセビルの姿はなかった。朝の訓練に向かったのだろう。
ティアは思い切り窓を開け、空を見上げた。
薄い水色が広がる秋の空。今日は少し風が強くなりそうだ、とハルピュイアの勘が言っている。
(大丈夫、どんな風でも上手に飛んでみせる)
自分は、空と歌を愛するハルピュイアなのだから。
* * *
〈楔の塔〉は城塞でグルリと囲った敷地内に、複数の塔や宿舎がある。これら全てを含めて、〈楔の塔〉と言うのだ。
ユリウス・レーヴェニヒは城壁沿いに敷地を歩き、時折足を止めては、手元の地図を広げて地図との差異を確認していた。
地図はここに来てから自分で作った物だ。まだ完璧には埋まっていない。
ユリウスは片手を持ち上げ、指輪に小声で囁く。
「ザームエルが頻繁に出入りしていた場所に心当たりはあるか、アグニオール」
『人間の建物はよく分からないです!』
指輪の中の炎霊アグニオールが元気に答える。
アグニオールは元々は、ユリウスの父ザームエルの契約精霊だ。ザームエルが〈楔の塔〉にいた頃のことも知っている。
ただ、アグニオールは今も昔も指輪の中で待機していることが多い。
人の姿でも獅子の姿でも、とにかく大きくて騒がしいからだ。おまけに力が強いので、うっかりで大火災を招きかねない。
そういう事情があり、アグニオールは〈楔の塔〉の構造や人間関係について、それほど詳しくなかった。
『〈楔の塔〉って、精霊が出入りできない結界を張っているところも、いくつかあるんですよぉー。だから、そういうところに出入りする時、ザームエル君は指輪を外してたんです』
「なるほど……主に魔導具や魔導書を管理する部屋か」
『はい! 特に私は強いですから! 作りかけの魔導具に触ってドカーン! ってなって、よく怒られました!』
「クク……力が強すぎるというのも、考えものだな」
父ザームエルは、〈楔の塔〉を追放された理由を最期までユリウスに語らなかった。
語らないまま病に冒され、そして死の間際にこう言い残したのだ。
『クク……俺は、〈楔の塔〉の……帝国の抱える闇に触れたのだ……まったく、らしくもないことをした』
ザームエルの言う「らしくもないこと」が何なのか、ユリウスには分からなかった。
そもそも〈楔の塔〉を追放され、屋敷に戻ってきてからのザームエルは、ずっと彼らしくなかったのだ。
ザームエルは狡猾な男だ。不本意なやり方で〈楔の塔〉を追われたのなら、絶対に報復をする。
たとえ大病に冒され身動きがとれなくなっても、金の力で人を動かし、敵対者に一矢報いる。それがザームエルだ。
なのに、ザームエルにそういう動きをしている様子が全くなかった。
〈楔の塔〉を追放されてから、ザームエルは屋敷で余生を過ごし、そして静かに死んだ。
ユリウスは軽く手を握り、暗い目で指輪を見下ろす。
「アグニオール。一つ答えろ」
『いいですよ! いいですよ! 一つと言わず二つでも三つでも聞いてください!』
「ザームエルは……」
悔しさで、握る手に力がこもる。
何故、自分はザームエルが生きていた時に、この疑問を口にできなかったのだろう。
「ザームエルは、〈楔の塔〉を追放されたことを…………受け入れていたのか?」
『よく分かんないです!』
「…………」
これだから、この精霊は役に立たないのだ。
それでも、精霊を人の役に立てるという発想自体が、人間の思い上がりであることをユリウスは知っていた。ザームエルの教えだ。
──精霊より金の方が役に立つ。
ザームエルは折に触れてそう口にし、アグニオールは「お金に負けた!」と騒いで、ザームエルがクツクツと笑って…………懐かしい話だ。
「あら、朝から訓練ですか。ご立派ですね」
背後から聞こえた声に、ユリウスの顔から表情が消える。
ユリウスは昔日を懐かしむ甘さを隠し、蛇の狡猾さで笑った。
「クク……朝の散歩か。エーベル塔主?」
振り向いた先に佇んでいるのは、小柄で優しげな雰囲気の初老の女性。
第一の塔〈白煙〉塔主アウグスタ・エーベル。〈楔の塔〉における古典派筆頭の一人であり、ザームエル追放に深く関わっているであろう人物だ。
ザームエルはかつて、第一の塔〈白煙〉の塔主だった。
ザームエルが〈楔の塔〉を去った後、後任で塔主となったのが、このエーベルなのだ。
「今日は皆さんの魔法戦の日ですね。楽しみにしていますよ」
「ふん……たかが見習いの魔法戦など、塔主に興味はないだろう?」
「指導室も見習いも、第一の塔〈白煙〉の所属。わたくしの管轄なのですから、当然見に行きますよ。それと……」
目尻の皺を僅かに深くし、世間話のようなさりげなさでエーベルは続ける。
「メビウス首座塔主も、お見えになるとのことです」
その一瞬、エーベルは穏やかな笑顔でこちらの反応を探った。探られた、という感覚があった。
勿論、目に見えて動揺するほど馬鹿じゃない。
自分は、悪辣で狡猾なザームエル・レーヴェニヒの息子なのだ。
「なるほど、俺達見習いは、随分と期待されているらしい」
「えぇ、期待していますよ。ザームエル・レーヴェニヒの息子、ユリウス・レーヴェニヒ」
──貴様がその名を口にするな。
悪意は表情に滲ませるにとどめ、ユリウスはクツクツと笑った。
ザームエルが死の間際までそうしたように。とびきり悪辣に。




