覇王誕生
どこかで小鳥たちが囀っている。声が聞こえる。
(……地上は血まみれ地獄だってのに……空の小鳥さんは平和で良いなぁ……)
完全な闇に塗りつぶされた視界に、少しずつ光が浮き上がってくる。
最初に形になって現れたのは、天井のLE Dライトだった。
そして、無機質な光が照らす白い壁。
その壁に飛び散った赤黒い血。
……首を起こして見回す。
鏡。洗面台。掃除用具をしまうロッカー。
血でぐっしょり濡れた服。自分の体。
肘をつき、寝ていた上体を起こし、床の上に胡座をかいた。
「俺……どうなったんだっけ……」
目覚めた直後のせいか、頭がボーっとして回らない。
白タイルの床に手をついて立ち上がった。
左手に違和感があった。
見下ろすと、手首の九割の肉が抉り取られていた。
残った一割の肉で、どうにか左腕と左手が繋がっていた。
左腕を動かすと、たれ下がった左手がプラプラと揺れた。
(こういうのを『皮一枚で繋がっている』っていうんだろうな……)
そんなことを思い、何気なく洗面室の鏡を見る。
青白い男の顔。右側の首の付け根に、犬歯に噛まれ裂かれた傷が赤黒い口を開けていた。
凝固した血が、喉と顎にこびり付いていた。
(こいつ、誰だっけ?)
鏡に映った男の顔を見て首を傾げる。鏡の向こうも同時に首を傾げた。
直後に思い出す。
(……ああ……俺か……俺自身か)
まだ思考が戻ってきていない。記憶が曖昧だ。
目的もないまま、とりあえず狭い洗面室の扉を開け、外へ出た。
明るい光に晒され、目を細める。
向かって左側の壁は、全面ガラス張りだった。その全面ガラスを通して朝の日光が店内に差し込んでいた。
(ここ……コンビニか……)
ガラスの向こうには、血まみれ姿で通りを彷徨く人間たちがいた。
誰一人、彼に興味をしめさなかった。
(俺、何でコンビニなんかに居るんだっけ?)
少しずつ、少しずつ、記憶が戻ってくる。思考が回りだす。
(ああ、そうだ……弁当……トンカツ弁当を買いに来たんだった……途中なんか色々あって、今、俺はコンビニに居る)
店内を彷徨く女の店員と目が合った。
片方の目が無かった。残った方の目でしばらく彼を見たあと、興味を無くしたのか顔を横に向け、また店内をうろうろ歩き出した。
血で赤黒く染まった女の胸から、ギザギザの刃の長い剣が生えていた。
(あっ、俺の剣じゃんかよ……あとで返してもらわなきゃ……でも、それより今は……)
それより今はトンカツ弁当だ、と彼は思った。
重い足を引きずって弁当売り場まで行き、一つだけ残っていたトンカツ弁当を右手で持った。
ラップの表面に血が飛び散っていた。ラップを左手で剥がそうとして、左手が使えないこと思い出す。
(仕方ねぇなぁ)
彼は、弁当をいったん床に置き、右手を使ってラップを剥がそうとするが、なかなか思うように剥がせなかった。
彼は苛立った。
その苛立ちが、思考の回復を加速させた。
(くそっ、くそっ、くそっ、俺は腹が減ってるんだよ! ああ、イライラする! トンカツ! トンカツ食わせろ! 肉を食わせろ!)
どうにかラップを剥がし、透明の蓋を開け、冷たいままのカツを右手で摘んで口の中に放りこんだ。
クチャクチャと音を立てて冷たい衣と硬い肉を咀嚼する。
思考が徐々に回復していくのと同調して、体のコントロールも戻ってきた。
一切れ目を飲み込む前に、素早く右手を動かし、二切れ、三切れと、カットされたトンカツを口の中に押し込んだ。
噛んでいるうちに、舌が……味覚が機能し始めた。
「おえええええ!」
いきなり、口いっぱいに詰め込んでいたトンカツを全てコンビニの床に吐き出してしまった。
「不味ぃ! 何だ? この味……」
大好物のはずのトンカツの味を、舌が受け付けない。
ご飯を指で掬って口の中に入れた。
……不味い……
すぐにベッと吐き出す。
キャベツの千切り、付け合わせのポテトサラダ、たくあん……
(駄目だ……)
彼……毒虫ゲンタ……は、棚にある弁当を片っ端から取ってラップを剥がし、蓋を開けて中身を口の中に入れた。
鮭弁当、ハンバーグ弁当、幕の内、唐揚げ弁当……全部、不味い。
(とても食えた代物じゃねぇ)
ゲンタは、床に手をつき、スッと立ち上がった。
全てを、思い出した。
同時に、体の動きも完全に回復した……いや、以前よりも体に力が漲っているような気さえした。
目の前に、コンビニの店長が立っていた。ゲンタの拳を噛み、右肩を噛んだ男だ。
店長の〈噛みつき魔〉は、しばらくゲンタを見つめ、急に興味を無くしたように視線を外し、飲料売り場の方へノソノソ歩いて行った。
「そうだよな……俺なんかにはもう興味ねぇよな……お前ら、一度噛みついた人間には、二度と噛みつかないもんな?」
(……ってことは、もう今の俺は、奴らの仲間……)
突然、ものすごい飢餓感がゲンタを襲った。
「とにかく食いもんだ」
あたりを見回す。
ここはコンビニの店内だ。そこらじゅうに食料品がある。
しかし、どれも自分が食うべき物ではないと分かった。
本能的に、分かった。
ゲンタの中に、今までには無かった本能が……新たな生命体としての本能が生まれつつあった。
その本能が、何を食べたらいいのか、教えてくれた。
* * *
狭い便所の中で、蓋をした洋式便器の上に座って、深根善忠は両手で顔を覆い、泣いていた。
「こんな所に来るんじゃなかった。あんな奴に付いて来るんじゃなかった。おとなしくアパートに籠っていれば良かった。そうすれば、いつかは自衛隊だか災害救助隊だかが助けに来てくれただろうに……」
* * *
毒虫ゲンタの最後の悲鳴が途絶え、便所の向こう側が再び静かになった後、善忠は意を決して便所の窓を開けた。
一人になっても最初の計画通り、便所の窓から外へ出て隣の小学校のフェンスをよじ登って逃げるつもりだった。
窓の外に男が居た。
男は口を大きく開け「グァァァ」と濁った声を上げながら、中にいる善忠に向かって、頭を突き出して来た。
善忠は急いで窓を閉め、再びクレセント錠を掛けた。
外の男が、ドンッドンッと窓ガラスを叩いた。
その時やっと、善忠は自分の立案した逃走計画が、ゲンタと彼の剣を前提としたものだったことに思い至った。
ゲンタの剣がなければ、窓の外に出ることさえ出来ない。
「駄目だ。閉じ込められた……あの剣さえあれば……電池切れでさえなければ、窓の外にいる奴なんて楽勝だったのに」
そのゲンタも、今頃は奴らの仲間入りをしてコンビニの店内をウロウロしているに違いない。
便器の蓋の上に尻を落とし、深根善忠は泣いた。
* * *
どれくらい時間が経っただろうか。
どこからか、小鳥の鳴く「チュン、チュン……」という声が聞こえてきた。
善忠は、顔を上げ窓を見た。日の光が差し込んでいた。
「朝……夜が明けたのか……」
突然、便所の扉を誰かが二回「コンッ、コンッ」と叩いた。
思わず悲鳴をあげそうになるのを、両手で口を押さえ必死で堪える。
さらに二回、誰かが扉をノックした。
誰だ? 誰か扉の外に居るのか? まともな人間なのか?
「善忠くーん、深根善忠くーん、そこに居るんだろ? 返事をしてくれよ」
「ゲ、ゲンタさん?」
「うん。俺だよ。ゲンタだよ」
「ぶ、無事だったんですか?」
「うん。どうにか、ね……奴らに噛みつかれない方法を思いついたんだ」
「本当ですか?」
「うん。だからさぁ、鍵を開けて出てきなよ」
おかしい……何かが変だ……でも、何がどう変なのか分からない。
「窓から逃げられなかったんだろ?」ゲンタと自称する扉の外の人物が聞いてきた。
「ええ……まあ、そうです」
「窓の外にも奴らが居た?」
「……はい」
「だよなぁ……だろうと思ったよ」
「あの、怒っていませんか?」
「怒る? 何で俺が怒るの?」
「だって……協力して奴らと戦わないで、敵前逃亡しちゃったし……トイレに閉じこもって、ゲンタさんを締め出しちゃったし……」
「もう良いよ、そんなこと。水に流そうぜ。俺は、むしろ感謝してるくらいなんだ」
「感謝? 僕にですか?」
「うん。俺が、奴らに噛みつかれなくなったのも、ある特殊能力に目覚めたのも、言ってみりゃ、善忠くんが俺を締め出してくれたおかげなんだ」
「特殊能力? ゲンタさん、奴らに噛みつかれない方法を見つけたって、本当なんですか?」
「本当だよ。だからさ、鍵を開けて出てきなよ」
善忠は、便所の扉のスライド閂に指をかけた。
ゆっくりと横にスライドさせながら、何か心に引っかかるものを感じ、それが何なのかを考えた。
(あの時、扉の向こう側からはゲンタさんの悲鳴が聞こえた……噛まれたんじゃないのか? だから悲鳴を上げた……でも、今ゲンタさんは日本語をしゃべってる。言葉を理解している……確かに知能がある……どういう事だ?)
閂が外れた。
扉が素早く向こう側に引かれた。
全開になった扉の外に、ゲンタが立っていた。
「よう、相棒!」
「ゲ、ゲンタさん……何で服が血まみれなんですか?」
「ああ、これか……奴らと戦ったとき、返り血を浴びてね」
「か、肩に抉られたような傷がありますけど?」
「平気、平気。ちょっとした擦り傷」
「左手首の肉をほとんど持ってかれてるじゃないですか?」
「大丈夫。全然、痛くないんだ。それに、ほら、こうして俺と善忠くんは、ちゃんと日本語で会話できてるじゃないか」
言いながら、ゲンタは一歩一歩、じりじりと便所の中へ入っていった。
善忠は便器から跳びのき、狭い便所の中で出来るだけ距離を取るように、反対側の壁に背中をつけた。
「ち、近づかないでください……近づかないで……」
「そんな釣れないこと言うなよ……俺ら相棒じゃないか。たしかに最初はお前のことをイケ好かない軟弱大学生だと思ってたけどさ……なかなかどうして、いざとなったら度胸もあるし、良い勘してるじゃないの……正直、俺、お前に惚れちゃったんだよ……だからさ」
壁にピタリと貼りついている善忠を、ゲンタはそっと優しく抱きしめた。優しく、しかし、絶対に逃げられない強さで。
「俺と、心も体も一つになろうぜ」
生ぐさい息が善忠の顔にかかった。今まで経験したこともないような酷い臭いだった。
ゲンタが善忠の首筋に噛みつく。
「ギャァァァ」
頚動脈が切れて、血しぶきがゲンタの顔を赤く染めた。
善忠が叫びながら最後の力をふりしぼって抵抗するが、抱きつくゲンタの腕はガッチリと善忠を拘束して動かない。
やがて頚動脈から吹き出す血の勢いが弱まり、善忠の目から意識の光が消えた。
「オウフッ、ホフッ、ホフッ、旨い、うまっ、うまっ、うまっ……」
荒い息を発しながら、ゲンタは善忠の首の肉を、喉の肉を、肩の肉を、頰の肉を、噛みちぎり、咀嚼し、飲み込んだ。
ゲンタが満足し、善忠の死体を置いて便所から出てきたのは、それから三十分後のことだ。
「さてと……」
手首を喰われてブラブラしている自分の左手を見ながら独り言ちた。
「こいつを何とかしなきゃな……『外科手術』して治さなきゃ」
治し方は自分自身が知っている……自分の中に生まれた、新たな本能が知っている。
ゲンタは文房具売り場に行き、右手だけでカッターを包装パックから出し(少々難儀した)わずかな肉と皮だけで繋がっている自分の左手首の、その肉と皮をスパッと切断した。
ポトリッ、と左手が売り場の床に落ちる。
カッターを右手に持ったまま便所へ戻り、善忠の死体から左手を切り取り、接ぎ木するように自分の左手首の傷口にくっつけた。
ミチッ、ミチッミチッミチッ……
ゲンタの腕と善忠の手の接合面から、無数の虫が腐肉をついばむような音がして、二つの肉が融合し始めた。
ゲンタの手首の肉が、善忠の手を侵食し同化しているのだった。
ゲンタの腕と善忠の手が完全に癒着するのに二分も掛からなかった。
「これで、よし、と」
『新しい左手』を見ながら、そこに神経を集中してみる。
ピクッ、ピクッ、と指が動く。
「完全にコントロールできるようになるまでには、もう少し時間が必要か」
その左手で右肩の傷口に触ってみた。
「感覚もまだ無いな」
そして右手のカッターを使って、善忠の死体の胸から皮膚と肉を適量削いで、パッチを当てるように自分の右肩の傷に被せた。
今度は肩の傷口から「ミチッ、ミチッミチッ」という音がして、削いだ善忠の肉と傷口の肉が癒着していく。
ゲンタが〈噛みつき魔〉から受けた傷は、善忠の死体の一部を切り取り融合させることで、わずか数分で治ってしまった。
「さて、と」
ゲンタは立ち上がり、善忠の死体を見下ろした。
「傷もほぼ治ったし、こいつにはもう用は無ぇな……おっと、忘れてた」
もう一度、死体の横にしゃがむ。
「生レバー、生レバーっと……レバ刺し、レバ刺し」
カッターで死体の腹を裂き、右手を突っ込んで真っ赤な内臓を取り出し齧りついた。
* * *
全てに満足し、満腹し、鏡の前に立つ。
「さすがに血まみれだな……これじゃ、兄貴が驚いて卒倒しちまう」
血で濡れたシャツを脱ぎ捨て、上半身裸になって売り場へ行き、タオルを持って水道の水で濡らして頭、顔、体を拭いた。すぐにタオルが真っ赤に染まる。水道水で洗い、片手で絞り、また顔と体を拭く……それを何度か繰り返した。
「ズボンも相当汚れてるけど、まあ、仕方ないか」
上半身裸のまま売り場に戻り、女店員の胸から〈サンダーボルト・シャーク・デス・セーバー〉を抜いた。
「これは返してもらうよ」
女店員は、何も答えない。
ゲンタに何をされようと、全く興味も反応も示さなかった。
店舗の正面入り口の取っ手にぐるぐるに巻かれた荷造り紐をカッターで切り、閂がわりの金属棒を抜いて捨て、扉を開け、外に出た。
「う、う〜ん。気持ち良い朝だ」
一瞬、県道を彷徨く〈噛みつき魔〉たちがゲンタを見る。しかし直ぐに興味を失って、また思い思いに歩き出す。
「そうだよなぁ……お前ら、俺には興味ないよなぁ……何つったって、俺はお前らの仲間だもんなぁ……でもよぉ、お前らと違って、俺には記憶があるんだぜ。頭もちゃんと働く。言葉もしゃべれる」
ゲンタは電池の切れた長剣を軽々と肩に担いた。
「そして、俺には分かる……のろのろ歩くしか能のないお前らと違い、俺の体は並の人間以上の力を発揮できる。どういう原理かは知らんが、な……そして全身で肉を食う。全身が筋肉であり、全身が胃袋だ」
上半身裸で、長剣を担ぎ、朝の県道を悠々と歩く。
「俺はもう人間じゃねぇ……かと言って、ただの〈噛みつき魔〉でもねぇ……突然変異体、ミュータント……いや、スーパーヒーローかな……全身で肉を喰らい、どんな傷も直ぐ治り、愛剣〈サンダーボルト・シャーク・デス・セーバー〉を振るう」
県道を歩きながら悪魔の笑みを浮かべる。
「スーパーヒーロー、スーパー・ゲンタ様の誕生だ……もう〈噛みつき魔〉は恐くねぇ。人間も恐くねぇ。本気で世界の帝王も夢じゃねぇ。世界の覇王も夢じゃねぇ!」




