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旅立ち

 こちらを振り向いた老人は、いつかの(マーケット)で陶磁器の店を出していた人物だった。聖火国の意匠を刺繍した長衣(ローブ)を着ていたのを覚えている。彼の手元は揺りかごの近くにあり、(ルベリア)は、まるでそこにいるのが自分の祖父であるかのように嬉しそうに笑っていた。


「オレの娘から離れろ。さもないと、この剣を抜くことになるぞ」

「ふむ。礼儀正しいの。勝てない相手とわかって尚も戦う意志を捨てん、見上げた根性、さすが父親じゃな、聖堂騎士。……じゃがお主、この娘を持て余しとるじゃろ」

「っ!!」


 図星をつかれてオレは顔を引き攣らせた。それを知ってか知らずか老人は言葉を続ける。


「いずれこの娘は世界に必要とされることとなるじゃろう。その輝ける魂が、氷の時代を終わらせる……。

 ただし、娘の道程は艱難辛苦のものじゃ。何度も傷つけられるじゃろう。可哀想とは思わんか? どうせなら今、ここで、肉の器を捨てさせてやることも思いやりではないかの?」

「……あんた、ノレッジの手の者なのか?」

「いいや? そうか、お主……ひ、ひ、ひ。わしを別の誰かと勘違いしておったんじゃな? わしは大魔導、この世界のいわば、見守り手よの」


 大魔導と名乗ったその老人は、にぃっと歯を見せて笑った。無害そうなその見てくれ、その笑顔、だが言っていることはまるで狂人だ。黒術でドニを無力化させたことを知らなければ舐めてかかっていたかもしれない。オレは無駄と知りながら剣を抜いた。


「ほっほぅ!」

「大魔導、オレはあんたを知らない。だが、その娘を連れていかせるわけにも、殺させるわけにもいかないな」

「死を選ぼうとするほど厳しい出来事が待っていると知りながら、あえてそれを受けさせようと言うか」

「それは、予言か?」

「しかり。じゃからこそ、わしはこの娘の魂が傷つき壊れる前に連れに来たんじゃ。亡骸は置いていこう、必要なのは魂じゃ」


 オレは踏み込んで剣を振るった。老人は笑いながら遠ざかり、翻る裾にすら掠りもしない。


「たとえ辛い未来が待っているとして、そればっかりじゃないはずだ! きっと楽しいことや幸せなこともあるはずだ! 例えどんなことがあろうが、自ら死を選ぶなんてさせやしない、そうさせない程の強い意志を、思い出を、オレが作ってやる……。


 自分の道は自分で決められるよう、オレが導いてやる! 本人の意思なしに、勝手に決められてなるものか! 未来がどうなるのかなんてわからない、宿命は変えられなくとも、運命くらいオレが変えてやる!!」


 オレの脳裏にはエトワールの笑顔があった。重く、辛い宿命を背負いながらも、いつも前を向いていた彼女。生きることを楽しんでいた彼女。泣いて、笑って、怒って……そんな彼女なら娘にどんな言葉をかけるだろうか。


 守ってやってくれと言われた。

 


 二人の間に生まれた命だ。

 目を背けていただけで、本当はわかっていた。ルベリアは何も悪くない、むしろ、ルベリアこそがオレたちの救いなのだ。その誕生を喜び、祝福した……オレの、娘だ。


「……頼む。愛しているんだ、連れていかないでくれ。オレにもまだ、できることがあるのだと、そう、信じさせてくれ」


 手にした刃を草むらに放り、オレは両膝をついた。圧倒的な力を前に無力な者は頭を垂れるしかない。オレが娘の命のためにできることは、この老人の慈悲にすがることだけだった。


「ふむ。道理では、あるの」


 老人は思案するように髭をしごいた。オレの背後では、設えられた揺りかごのカーテンを揺らしてルベリアが笑い声を立てている。不意に、後ろで束ねていた髪の毛が強く引かれた。振り向くと小さな小さな手がじゃれついていた。


「ルベリア……」

「では、娘に聞いてみようではないか。わしと共に行くか、それともお前さんと共にあるか」

「なっ……それは!」

「なに、言葉なぞ必要ないわぃ。ちと意識を探るだけじゃ」


 冷水を浴びせかけられたように 我に返る。ルベリアはこれまでずっとサーラの手にあり、オレは顔を見に行くことすらしてこなかったのだ。きっと彼女はオレについての恨み言や悪口を子守唄がわりにしていたに違いないのだ。


(第一、こんな小さな赤子に意思なんてあるものか……?)


「案ずるな、痛い思いはさせんわぃ」


 すぐ脇に音もなく立っていた老人は、そっと人差し指をルベリアの額に押し当てた。止める間などなかった。それよりも先に彼の老人は、穏やかに笑いながらルベリアを抱き上げたのだった。


「なんともはや! ひ、ひ、ひ、この娘の頭の中は肯定的な感情の奔流じゃ。良かったの。幸せな温もりをもらって生まれてきたんじゃなぁ」

「………………」


 きっと、それだけではないだろうに、老人はそう言ってオレにルベリアを抱かせた。負の感情のこもった言葉やエトワールの涙や、色々なものを聞いてきただろうルベリアの記憶が幸せなものだけであるはずがない。だというのに、オレは、そんな世辞のような慰めのような台詞ひとつで目頭を熱くしていた。


 オレの腕の中にある命は、こんなにも軽いのに驚くほど温かい。熟れた野苺のような目をした赤ん坊の額にキスを落とす。


「ありがとう、ルベリア……」


 生まれてきてくれてありがとうと、今度は素直にそう思えたのだった。


「今のお前さんなら大丈夫そうじゃな。ならば、わしはもう行こう。世界の命運を預けるんじゃ、心して育てよ」

「ご慈悲に感謝いたします、大魔導様」

「では、な。我が弟子、乙女よ」


 老人が去っていくのを、オレは頭を下げて送った。


 そうしていると、ドニがやってくる気配がし、彼はオレの名を呼んだ。頭を振りながら近づいてきたドニがオレに「何が起こったのか」と尋ねるので、手短に説明してやる。訝しみながらも飲み込むことにしたのか、彼は無言で幅広の長い布を差し出してきた。しかし、これはいったい何だろう。


「……ああ、赤子を肩からぶら下げるためのものですよ。他の物も色々持ってきます」

「ありがとう、ドニ。……これの使い方にも慣れないとな」


 スリングというその布越しにルベリアの背を優しく叩くと、嬉しそうな声がする。そして、小さな手が伸びっぱなしだったオレの前髪をぎゅっと引っ張る。玩具だとでも思っているんだろう。


「いててっ、ちょっ、痛い痛い!」

「きゃははっ」


 思わず下を向いたとき、胸元から金の印章指輪がこぼれ落ちた。鎖がシャラリと軽い音を立てる。ルベリアの小さな手が指輪に伸びた。


「あ~、うあ~」

「ルベリア、これは……大切な物だからしまっておかないとな。まさか、こんな形で世話になるとは思わなかったが」


 これからきっと、ノレッジの目を避けての逃避行となるだろう。リスタールの印章があれば、その勢力下にある人物に便宜を図ってもらえるはずだ。もしかして、兄貴はすべてを見越してこれをオレに預けたままにしておいたのだろうか。


「とにかく、まずはドゥケスを頼るか。ルベリア、長い旅になるぞ……」

「くぅ~!」


 まるで返事をするかのようにルベリアが声を出すので、オレはつられて笑ってしまったのだった。

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