月明かりの下で
月明かりが煌々と照らし出していた。暖かい夜だった。エトワールは慎ましやかな旅支度を終え、ロクサーヌと最後に言葉を交わした場所にやってきていた。エトワールには今でも疑問だった。なぜ、あのとき、ロクサーヌは自分を助けようとしてくれたのだろうかと。考えてみても答えは出なかったけれど、彼女に別れを告げるならば葬られた場所よりもここだという気がしたのだ。
「ロクサーヌ……ありがとうと、言うべきなのよね。今まで色々とあったけれど、心の底から憎んでいたわけではなかったわ。さようなら、ロクサーヌ」
「どこへ行くつもりなんだ?」
「!!」
誰かが見ているとは思わなかったエトワールは、びくんと肩を跳ね上げた。振り向くとそこに立っていたのはジェレミアだった。普段は身に着けていない鎖帷子とサーコートという旅装束だ。まだ頭には何も被っていなかったため、刈り上げた髪が月の光の下で金色っぽく見えていた。すっかり短くなってしまった髪の毛のせいで顔の輪郭や大きな吊り目が強調され、まるで少女のような楚々とした色香がある。
「ジェリーさん!? どうしたんです、その格好……まさか……!」
「ああ。僕は明日の朝、ここを立つ。その前にここの景色を目に焼きつけておきたくて……」
珍しく歯切れの悪い言い方だった。エトワールは思わず反駁していた。
「あなたがいなくなってしまったら、トムさんはどうなるんですかっ!?」
「…………。その言葉は、そっくりそのまま、きみに返そう、エトワール」
「そんなっ」
エトワールの瞳が怒りにきらめく。一方でジェレミアは落ち着いた表情で彼女を見つめ返した。その頬は磁器で作られたもののような青白く冷たい輝きを跳ね返している。いつもと違う、精巧な人形のようなジェレミアの美貌と見透かすような視線に耐え切れず、先に目を逸らしたのはエトワールだった。
「トムさんには、もう?」
「…………」
「言ってないんですね。どうして……?」
「あいつは僕を引き止めたりしない。だから、話していない。大丈夫だ、ちゃんと顔を見てから立つ」
「フレデリックさんは?」
「うん。きちんと話した」
ジェレミアは微笑み、エトワールはほっと溜め息を吐いた。一度はその卑怯な振る舞いから見損ないはしたが、一途にジェレミアを想うフレデリックのことを嫌いになれないでいたのだ。彼とは答えの出ない恋に身を焦がしていた者同士、親近感があった。
「それで、納得したんでしょうか」
「いや。怒られたし、泣かれた。だが、僕はどうしてもここにいるわけにはいかないと言ったら、分かってくれた。この髪も、切ってくれたのはフレデリックだ」
「そう……ですか……」
エトワールはフレデリックにいたく同情した。ジェレミアは頑固だと、トマス=ハリスが言っていた意味がよく分かった。フレデリックに愛を打ち明けられ、彼の気持ちを知りながらも決して自分の意志を曲げようとはしない……それどころかその心中を想像したことがあるのかすら怪しく思えるほど、その表情は晴れやかだ。エトワールはトマス=ハリスを置き去りにしようとしていた自分自身のことは棚に上げて、ジェレミアに憤懣を抱いた。
「フレデリックさんが、なんだか、可哀想です……!」
「そうだろうか」
「そうですよ!」
「だが、きっと追いかけてくるだろう、僕が欲しいなら。もちろん、きちんと務めを果たした後で」
ジェレミアの返事にぎょっとするエトワール。
「追いかけてきたら……どうするんです?」
「そりゃあもちろん、僕と同じ道行きを歩むことになるだろう」
「つまりそれは、同じ旅路を往く、と……?」
「ああ」
「同じ旅路を往く者」とは、伴侶のことを指す場合が多い。聖典の結婚に関する文言に載っている言葉だった。一瞬、妙な想像をしてしまって顔を赤らめたエトワールだったが、何のてらいもなく言い放ったジェレミアの態度に疑問を感じて冷静になった。
「その……どういう意味で言ってらっしゃるんです?」
「どういう意味とは?」
「……いいえ、忘れてください」
内心でフレデリックを不憫に思いながらエトワールは口を閉じた。ジェレミアは何の邪気もなく首を傾げている。その様はまるで無垢な子どものようだ。そんな彼を前に、兄さんぶりたくなるトマス=ハリスの気持ちが分かってしまった。「それで」と、純真そうな笑顔でジェレミアは続けた。
「きみはどこへ行こうと言うんだ?」
「あ…………」
エトワールの顔から笑みが消えた。つい会話が弾んでしまったが、エトワールはまさに職務を投げ出し、恋人を置いてここを去ろうとしていたのをジェレミアに見つかってしまったところだったのだ。
「その、それは……」
「事情があるなら、教えてもらえないだろうか。僕で良ければ力になる。分かれ道に立ったとき、迷う者に明かりを差し出すのも僕たちの仕事だ」
「ああ、ああ……!」
エトワールはどう言えばよいかわからず呻いた。ジェレミアが信じるのも、エトワールが信じるのも、同じ聖典である。胸に抱く物は同じでも、そこにある覚悟は少し違った。エトワールは知識として良識として学び取った聖典だが、ジェレミアたち聖堂騎士にとっては生き方そのものだ。だからこそ迷わない、だからこそ彼らはひとを導ける。誰かが立ち止まっているときに、その迷いを聞くことも導師や聖堂騎士の勤めであり、ジェレミアはその中でも真摯に仕事に人生を捧げている者のひとりだった。
エトワールのつかえつかえの心の吐露を、ジェレミアは真剣な眼差しで受け止めた。そして、しゃくりあげ、懸命に涙を拭う彼女が落ち着くのを静かに待った。やがてジェレミアは穏やかに言った。
「ここで、立ち去る決断をして、それできみは幸せになれるんだろうか、エトワール」
「わたしは……忘れません。わたしはトムさんのことを決して忘れません。だからきっと、思い出だけで生きていける……。そう、思います」
「そうか。ならばそれを否定したりはしない。けど、あいつはどうなるんだ。今きみがいなくなってしまったら、きみまで失ってしまったら、どんなに傷つくだろうか……」
「今なら引き返せるんです……。だって、あのひととの間には何も……何もなかったのだもの。だから、わたしを忘れて、他の女のひとと幸せになるべきなんです。彼に子どもをあげられるひとと……!」
「辛くは、ないのか……?」
「辛いですよ!! 本当は、身を切られるほど、辛い……! でも、どうしろと言うんです? わたしのために残りの人生を犠牲にしろとあのひとに言うの? 願うの? それで断わられたら、気が変わったら、途中で子ども欲しさに別の女のひとに心が移ったら? そんなの耐えられない!!」
エトワールは一息にまくし立てると、肩を上下させて荒い呼吸を繰り返した。
「……耐えられないんです。考えたら、止まらないの……」
「あいつはそんな男じゃない」
「でも! あのひとは一度家族を失っているんですよ? それなのにわたしとじゃ、わたしが奪うばかりで…………こんなのってひどい、ひどすぎます……!」
「エトワール……」
両手で顔を覆い、体を折るようにしてむせび泣くエトワールの前に、ジェレミアは膝を折った。その眼差しは温かさに満ちていた。そっとエトワールの震える腕に触れ、ジェレミアは優しく穏やかに話し始めた。
「確かに、道のりは険しく辛いだろう。ただ、それでも、きっとひとりでいるよりは悲しみは少ない。どうか、今の話をトマス=ハリスにも聞かせてやってくれないだろうか」
いやいやと首を振るエトワールに、ジェレミアは続けた。
「どうかあいつにも、選択する権利をやってほしい。何も知らないままきみを失うなんて、それが正しいこととは思えない。エトワール、きみの好きになった男は、そんなに薄情だろうか? きみを愛すると言いながら、きみから与えられる物を当然だと思い、きみの苦しみから目をそらすような、そんな男だろうか?」
「………………」
「僕が尊敬するある聖堂騎士は、迷う僕にこう言った。結婚して、子どもを作って、それだけが人生じゃないだろう、と。愛しあう二人がいるならば、一緒にいるのが自然じゃないだろうか。リアンを失って道に迷っていたトマス=ハリスの人生を変えたのは、間違いなくきみだ、エトワール。きみこそがあいつの宿命の星……どうか、彼の傍らに……」
ジェレミアはエトワールのスカートの端をそっと摘むと、唇を押し当てた。その懇願を聞き、エトワールはもうひと粒、涙をこぼした。夜空を見上げれば、輝いているのは月だけではなく……。エトワールは祖母の言葉を思い出していた。
「ずるい……貴方は、ずるいひとですね……」
「…………」
「……わたし、戻ります。塔へ戻って、明日の朝、ジェリーさんを見送ったら……ちゃんと話をします。嘘も隠し事もなしで」
「ああ……、ありがとう、エトワール」
「その代わり、ジェリーさんも勝手にいなくなったりしないでくださいね。お見送りをさせてもらえなかったら、きっと恨みます」
「心得た!」
立ち上がって朗らかに笑うジェレミアに、エトワールは弱々しいながら確かに笑顔を返したのだった。
★エッティとジェリー★
ジェリー「ところで、どうしてフレデリックと僕がそういう関係になると思ったんだ?」
エッティ「だって……ジェリーさん言い方が紛らわしいんですもん。わざとですか?」
ジェリー「いや、そんなことはないぞ!」
エッティ「逆に怪しいですね~」
ジェリー「怪しくなんてない。どうしてそうくっつけたがる? 不自然とは思わないのか?」
エッティ「えっ。だって……ジェリーさんとだったら不自然じゃないですよ? むしろ自然です」
ジェリー「何を言ってるんだ!」
エッティ「お似合いですのに~」
ジェリー「理解できん。……そういえば昔から、トマス=ハリスと僕をやたらくっつけたがってたのがいたが、まさか……?」
エッティ「え? え? 誰なんです?」
ジェリー「リアンだ。トマス=ハリスの妻となった、年上の女性だな。怒るとすごく怖いんだ」
エッティ「リアンさんって、もしかして…………」
おわれ!




