奇蹟
初めて触れたエトワールの唇は冷たく湿っていた。抱き寄せた肩は頼りなく、終焉が足音を殺して迫ってきている気配がした。
「……なぜ、オレから奪う。なぜ何もかも取り上げるんだ!」
空を仰いで吠える。それはどこへもぶつけようがない怒りがそうさせたのかもしれなかった。
リアンのときも、どんなにか願っても祈っても、すでに書き込まれた運命を変えることはできなかった。それを嘆いて、呪って、いつしか加護まで失っていた。ひと握りの人間にだけ表れる、魔力の恩恵、奇蹟の力。不貞腐れていたオレは、そんなもの失ったところで構いやしなかった。わざと使わないのだと決めつけてかかるヤツ、不信心だからだと陰口を叩くヤツ、すべて無視してきた。
自分の命すら惜しくはなかった。むしろさっさとくたばりたかった。戦いの中で死ねば、それは逃げじゃない、名誉だ。聖堂騎士として死んでいくなら本望だ。ご先祖にも申し訳が立つ。そう思ってこれまでやってきた。
「これが誰かの定めた筋書きなんだとしたら、頼む……彼女の命だけは助けてくれ……!」
だが、今は違う。祈れと言うなら祈ろう、死ねと言うならこの命を差し出してもいい。今こそ奇蹟の力を希う。無力なオレにはそれしかできない。ほんの少しでいい、治癒の術を施せる誰かが駆けつけてくれるまでの間だけ、エトワールを生かしておくだけの力がほしい……! そのためならオレは、なんだってできる。
「エト……! 頼む、オレの命を代償に、力を返してくれ……。ほんの少しでいい……。ああ、天の龍よ、無限の生命の迸りよ。我等、矮小なるヒトの子にその大いなる恵みを垂れたまえ。冷たき体に、その熱き血潮を分け与えたまえ……いさ、【活性】……」
詠唱を省略することなく、丁寧に、体を巡る気を集中させていく。だが、一度では駄目だった。もう一度、強く強く念じた。せめて意識を取り戻してくれたら、エトワール自身の黒術で傷口だけは塞げるというのに。
「エトワール……。エト、きみを愛している。君だけを……。どうか、戻ってきてくれ……!」
祈りを込めた口づけを落としたとき、彼女を抱いていた右手に熱い流れを感じた。あまりに久しぶりすぎて、思い出すこともなかった喜びだった。そうだ、オレにとってこの熱は生まれたときから身に宿っていたものだ。術を導くことは楽しいことで、嫌悪するようなものでも、忌避するようなものでもなかった。オレは無くしていたものを確かに取り戻したのだ。
「エトワール!」
「っ!!」
オレが名を呼ぶと、はっと息を飲む音がはっきりと聞こえた。エトワールはびっくりしたように目を見開くと、まばたきをしてオレと視線を合わせた。心臓に手を押し当て、息を整えながら、小さな声で囁く。
「わたし……は、どうして……」
「喋るんじゃない、早く【止血】の術を導くんだ。オレが傷口を浄化して塞ぐ。……ありがとう、諦めないでいてくれて」
「トムさん……」
エトワールはその白く細い指をオレの手に絡ませてふんにゃりと微笑んだ。手甲越しなのが惜しいくらいだ。オレは指の一本一本に口づけを落としていった。早く彼女の傷が塞がるよう、また彼女が力尽きて倒れてしまわぬよう、加減をしながら治癒の術式を重ねていった。
“炎の尾持つ殺戮者”との戦いの音を聞きつけ、救援はすぐにやってきた。エトワールの怪我はオレの処置が正しかったおかげか、大事を取って休養しているが元気だ。サーラ嬢とドニも、意識を失っていただけで擦過傷以外に傷はなかった。
ジェレミアも治療が間に合い、後遺症もなく過ごしているが、本人の強い要望があって今は牢に繋がれている。ヨックトルムの死については、小隊長を含む上層全員がジェレミアに責を求めなかったのだが、まあ、本人が頑なに罪人としての裁きを望んでいるせいで意見は割れに割れて、中央からの返事を待っている状態だ。当然、大会予選は中断、観客や近くの町村への説明も後回しになってしまった。ただ、「事故が起こった」ということだけを伝えられ、予選について全く触れられないままの解散は、まあ、当然のように地域住民の不満をくすぶらせる形となってしまった。副隊長の胃が心配だ。
ジェレミアのことは、毎日のようにフレデリックやロクフォールが牢から出すようにと副隊長に求め、また、ジェレミアを説得しているが出てこないらしい。ちなみにオレにいたっては面会を拒否されている。一度無理を押して会いに行ったが、全くこちらを見ようとしないジェレミアに折れて退室した。
「トム! 君が説得しなくてどうするんだ!!」
「アイツ、頑固だからなぁ」
「だからといって……」
「中央はなんて?」
「…………ヨックトルムがジェレミアに対し殺害の意思を持って危害を加えたことは明確だ、と。そして、ジェレミアがヨックトルムを死に至らしめたことは、当時の状況を鑑みるに、責を負う必要はない……そういう結論が出た」
「でもジェレミアは納得しない」
「そうなんだ。なぜなんだ、あのときはそうするしかなかったろうに……。術を封じられた状態で、あんなに刺されていた。どんなに胆力に自信のある聖堂騎士だって、そんな状態で適切な治癒が行えたかどうかなんて分からない。死に向かいながら、混乱もせずに黒術と白術の両方を用いての治癒は困難だ。そうだろう? しかもジェレミアは黒術に特化させたタイプで、治癒が専門と言うわけじゃない。むしろ戦いに特化した聖堂騎士なんだ、緊迫した状態で治癒なんでできるわけがない! それにあのときヨックトルムをあの場から逃走させていれば、誰かが探しに来ることもなく……」
「オレに言わなくたって分かってるよ」
「そう、か……。そうだな、すまない。どうかしてる……」
フレデリックはそう言って片手で額の汗を拭うように顔を覆った。やつれたな、と思った。焦燥感が滲み出る表情は、いつものフレデリックらしくない。よほどジェレミアの身を案じているんだろう。だが、オレは知っている。アイツは自ら死を選ぶような人間じゃない、それだけは確かだ。
「ジェレミアはなんて言ってるんだ?」
「他に方法がなかった、と……」
「アイツに限って、殺意があったわけじゃないだろうにな」
オレたちは口を閉じた。
「ジェレミアなら、死なせずに無力化できたと思うか?」
「難しい……。ヨックトルムもあれでいてかけられた術への対処は完璧だ。逆上してジェレミアにとどめを刺していたかも知れない。そもそも、なぜ彼がジェレミアをあのまま放置しようとしていたのか……」
「それはわからないが、なら、やっぱりああするしか、なかったわけだ。ジェレミアが裁きを望むのは、ヨックトルムを死なせたからじゃなく……殺意があったから、か……?」
「なに……?」
「フレディちゃんの言う通り、ヨックトルムのヤツがジェレミアを殺さなかったのは、最後の最後、ジェレミアの命を奪いたくなかったからなんじゃないかってな」
「まっったく、分からない!!」
「ん~、しょせんは想像にしか過ぎないんだから、考えすぎると、禿げるぞ」
「はげ……トム!!」
オレはフレデリックから逃げ出した。ヨックトルムの気持ちなんぞ考えたことはなかったが、アイツが嫌っていたのはジェレミアじゃなくオレだったんじゃないだろうか。ジェレミアに対する嫌みや当てこすり、ロクフォールへの妨害……オレに向けられていた憎しみの視線が、羨望と嫉妬だと考えたら?
もしあの場にいたのがオレだったら、ヨックトルムは確実にオレを殺していただろう。それだけは、確かだ。だとしたら、ジェレミアを刺したヨックトルムの次の標的は、確実にオレだったろう。これらは全ては推測だが、死んだロクサーヌの杖がジェレミアの側にあったことから、二人が手を組んでいたことは明らかだ。ヨックトルムが事件を隠ぺいして、ここで聖堂騎士を続けていくつもりだったなら、ジェレミアの口を塞いでおく必要があった。
(ヨックトルム……。オレを殺して逃走するつもりだったのか……?)
ジェレミアは自分の意思でヨックトルムを殺した。それは……オレのため、か……。




