騎士、夜を駆け抜ける
人垣が綺麗に分かれ、部屋の出口まで敷かれた赤い絨毯が見えている。そこを抜けて廊下の先、館の玄関は開きっぱなしだ。背後では観客のわっと沸き立つ歓声に混じって老婦人の金切り声が聞こえている。
オレは走りながら、玄関脇に控えていた二人の騎士をどう振り切るかを必死に考えていた。魔術は使えない、両手は塞がっている……その気になれば片手なら、使えるか。
「トムさん、わたしが、門番を……!」
「いけるかっ?」
「はいっ」
さすが。相変わらず思い切りのいいお嬢さんだ。玄関までそう距離はない。詠唱は大丈夫だろうか。だが、走りながらでは聞いて確かめることもできない。とにかくエトワールに任せることにした。
「なっ? と、止まれ! ぐわっ!?」
「お止まりを! 勝手に出られては……うおっ?」
若い騎士と年配の騎士の二人組だったが、エトが術を導く前に、もんどりうって倒れた。
「兄貴! 親父殿!」
「行け、弟よ。我々はただ、夜風に当たっているだけだ」
「そうじゃよ。おや、門番たちが転けているな。どれどれ、手を貸そうか?」
「父さん、さすがにわざとらしいよ、そりゃ……」
踏みつけにしといて「手を貸そう」もない。目だけで感謝を伝え、オレは彼らの脇を駆け抜けた。
「ありがとうございます~!」
やや間延びしたエトワールの言葉に、通りすがりの二人の紳士はほがらかな挨拶を返していた。玉砂利を撥ね飛ばし、馬車の待つ車停めヘ急ぐ。庭に放たれた猟犬たちが吠え声と共に迫りつつあった。エトワールの体を肩に担ぎ上げ直し、とにかく走った。
「もう! 【昏倒】! 【停止】! どうして当たらないのっ!?」
そりゃあな。オレたちも相手も全速力だからさ!
彼女の名誉のために言っておくが、エトワールは最高位階の術者だ、ああ言いながらも十匹いる猟犬のうち半分を無力化している。本来、動きを止める黒術は直接相手に触れないと発動しない。それを、長年の研究によって発展させ、位階を上げることで離れた距離の相手すら束縛できるようになった。卓越した術士であるエトワールだからこそ、離れた動く的にも当てられるのだ。思い返せばカルドで肉食蝿を殲滅した際に協力してくれたご婦人たちも、そこそこに腕が立つということか。
彼女はすでに充分以上に活躍してくれた。あと他に必要なのは、オレの頑張りだ。
「ラペルマ! こっちだ!」
「っ、よしっ!」
御者台からフレデリックが叫んでいる。馬は目と耳を塞いである、馴らされたものだった。二頭立てで、馬力にも不満は無さそうだし、奴の目利きは確かなようだ。
「エト、舌を噛まないようにな。馬車に放り込む!」
「はい!」
「……」
(いい返事だ……!)
オレは心の中でエトワールを誉めあげると、彼女の細い体を開けっぱなしにされていた間口から座席へと押し込んだ。
「フレディ!!」
「はぁっ!」
鞭がしなる音が冷たい空気を裂く。馬が動くのと猟犬どもが押し寄せるのとはほぼ同時だった。いちばん手近なヤツの鼻先にブーツのつま先をめり込ませ、喉元めがけて跳びかかってきた一匹の頭蓋を裏拳で打ち抜きながら振り払った。残りがエトワールの黒術で動けなくなっている隙に、走り去る馬車を追ってなんとか取り縋ることができた。車の後ろ、本来ならば乗るような場所じゃない、泥除けのでっぱりに足を置き、真鍮の飾り柱を掴んだのだ。……飛び乗る際にもたついたのは、二人には内緒にしておきたい。
オレたちが走り出すのにひと呼吸遅れて、ノレッジの城の外に隠れるように停まっていた馬車が並走した。それには髪を黒く染め、淑女に扮したサーラ嬢とジェレミアの礼服に身を包んだドニが乗っている。結局、身代わりは彼らに頼むことにしたのだった。二人はカリヨンへ向かい、そこから“風の墓所”での合流を目指して西に向かう。やがてすぐに道は別れて、馬車が遠ざかるのを見送った。
オレはひとまず大きく息を吐いた。だがずっとこうしてはいられない。走りっぱなしで疲労の濃い体に活を入れる。白術が使えれば、なんて考えが浮かぶのもぬるま湯のような生活で体が鈍っていたせいだ。
「帰ったら、ジェレミアに鍛えてもらうとするか」
爽やかな笑顔で鬼畜な鍛練を課してくるであろう弟分を思い浮かべて、ちょっとだけ、そう、ちょっとだけ怠け心が顔を出す。いやいや、やると決めたんだ、頑張るさ。
そんな決意を胸に、息を整えたオレは動いた。飾り柱を折らないようにしながら、座席のある胴体部分まで移動していくのだが……。耳許でゴオッと風が鳴る。フレデリックの駆る馬車は、猛スピードで夜の街を抜けていた。寝静まった街を、路の脇に出してある空の木箱を蹴散らしたりしながら進む。片腕を上げて飛んでくる破片から顔を守りながら舌打ちする。人間を轢かないことを祈るのみだ。
馬車の胴体部には上と下に飾り柱がある。地面に並行に渡されている、親指と人指し指で作った輪っかぐらいの太さしかないその頼りない棒だけが今は頼りだ。少しずつ、牛の歩みのようにゆっくりと手足を這わしていく。不意に乱暴な走りに車体が揺れ、棒にヒビが入るのが分かった。
(まずい……、折れるか?)
みしりと軋む音まで聞こえた気がした。嫌な汗が首もとを伝う。
「フレディ、おーい、フレディちゃんよ!」
「何だ!?」
「スピードを、ちょこっと緩めてくれないか!」
「よく、聞こえない!」
風がうなる中、御者台に向かって叫ぶ。フレデリックもまた怒鳴り返してきた。
「スピード! 落としてくれ!」
「スピードを上げろ? また難しいことを!」
「ちが……うおっ!」
一段と速度が上がり、体が後ろへ引っ張られる。踏ん張るに踏ん張れず、握る手に力を込めると、今度はそちらがガクンと下がる。見れば、車体と柱を繋ぐ脆い部分が片方折れていた。
「げっ!! エト……エティ! 頼む……!」
大声を出せばそれだけで、足場も手すりも失ってしまいそうな状況、下を見れば薄明かりの照らす中、石畳がまるで激流のようにうねって見えた。身がすくむ。
「トムさん!」
「っ!」
エトワールが半ばまで開いてくれた扉に向かって跳んだ。衝撃で閉まらないよう後ろに重心を残していたんだが、あらかじめ彼女が黒術で動かないようにしてくれていたのだろう、オレは片開きの扉にぶら下がりながらそう思った。
「ふふ、お手をどうぞ、騎士様」
「ありがとう、お嬢さん!」
くすくすと笑いながら、手套を引き抜いた手を差し出してくるエトワール。オレは道の広さを確認してから、扉を跨いで馬車の間口へ足をかけた。彼女の手を取り、中へと入る。四人がけの座席だというのに、ドレスの裾が広がって身の置き所がない。
「……さて、どこに座ろうかな。このまま立っているのも具合が悪い。隣に座っても?」
「ええ、もちろん」
オレはエトワールの隣に腰かけた。すぐ近く、肩が触れそうなところに彼女の顔がある。先ほどのダンスを思い出し、鼓動が早まる。……呼吸する度に愛しさが増していく気がする。
僅かな明かりを弾くような白い肌、なだらかなその首筋に目が惹き寄せられる。
触れてみたい、と思った。
貝殻のように薄い彼女の耳の下に、小さな頭を支える細い首に、キスをしたら、どんな感触だろう。浮き出た鎖骨のくぼみに舌を這わせたら、どんな風に応えてくれるだろう。彼女はこのしなやかな指をオレの髪に差し込み、頭を抱き寄せてくれるだろうか。それとも……。
「きゃっ」
「!」
道の悪さのせいか、車体が大きく跳ねた。オレはとっさに彼女の肩を抱き寄せていた。
「あ、ありがとう、ございます……」
「あ? ああ……」
罪深い妄想のせいで気まずさはあったが、エトワールが何も言わないので、そのまま肩を抱いていた。これは彼女のためで、疚しいことは何もないのだと自分に言い聞かせつつ、馥郁たる黒髪に唇を寄せたい衝動を必死に殺していたのだった。




