36話
「これにてグライフ帝国とパルネア王国の間に、正式な停戦条約が結ばれました」
大急ぎで修復されたパルネア首都の宮殿に、マリシェ公女の声が高らかに響く。
いや公女ではない。マリシェ大公だ。嘘だろ、おい。
マリシェ姫……いや大公の左右には、グライフ帝国皇帝ディオーネと、パルネア王国王女シャロン。
七歳のシャロン王女はさすがに不安そうにしているが、マリシェ大公の顔を見るとにこっと笑った。落ち着くらしい。
マリシェ大公もにこっと笑い、小さくうなずく。
「我がロイツェン公国が停戦条約の保証人となります。この条約を破る者には、我が公国の裁きが下されることでしょう」
パルネア側に条約を無視する度胸も覚悟もないので、これは主にグライフ側への警告だ。女帝ディオーネはにこにこ笑っている。怖い。
俺はマリシェ大公のすぐ後ろに控えながら、彼女が調印文書を読み上げるのを見守る。
「ひとつ、パルネア王国は南部のディポール港、エリザリア港の二港をグライフ海軍に寄港地として開放すること。ひとつ、パルネア領内でのジャーム教布教を許可すること。ひとつ、パルネア王室はグライフに対して戦災の補償や賠償を求めないこと」
この三つはパルネアが飲めるギリギリの条件であり、グライフにとって非常に価値がある条件だ。
今回開放される二つの港はパルネア南部にあり、南への航路が開かれることになる。
またジャーム教の布教が許可されれば、国境地帯で信徒を増やして国境線を引き直すことも可能だ。うまくいけばごっそり奪える。
あと恨まれるのは覚悟の上だが、異教徒に金を払うのはまっぴらごめんだと言っている。いい度胸だ。
だがもちろん、パルネア側だって黙って引き下がるつもりはない。グライフ軍は撤退したのだ。
マリシェ大公がさらに続きを読み上げる。
「ひとつ、グライフ帝国はパルネア領にいかなる軍も駐留させないこと。ひとつ、グライフ帝国はシャロン王女の王位継承まで、パルネア領に対する領有権を一切主張しないこと」
一度は首都が陥落したが、もうグライフ軍はパルネア国内への駐留はできない。
そしてシャロン王女が女王となるまで、しばらく戦争はお預けだ。七歳のシャロン王女が成人して王位を受け継ぐまで、最低でも八年ある。八年あればロイツェンの近代化も進むだろう。
だが実は、もっとズルい意図があった。
パルネアの王位をマリシェ大公が継ぎ、ロイツェン=パルネア連合王国とする計画だ。ロイツェン大公家は旧パルネア帝国皇帝の血筋……だと自称しているので、王位を継ぐ資格がある。マリシェ女王の誕生だ。
この場合、シャロン王女が王位を継がないため、グライフ側は領有権の主張が永遠にできないことになる。
もちろんそんなバカな話を女帝が飲むはずがないので、即座に停戦条約は破棄されるだろう。
そのときにロイツェンとパルネアがどこまで力をつけているか。十分な力があれば、グライフ側も引き下がるしかない。それを狙っている。
無理なら連合王国にするのは諦める。戦争は困るからな。
しかしこんな極秘計画、よく通ったな……。言ってみるもんだ。
俺が内心でドキドキしているうちに、無事に調印式は終わった。最後に女帝ディオーネがマリシェ大公に握手を求めてくる。
「停戦条約の仲介、ありがとうございました」
「いえいえ、これぐらいならいつでもしますよ」
えっへんと胸を張りながら、堂々と握手に応じるマリシェ大公。子供っぽいが、女帝相手に全く気後れしていない。
ディオーネが笑う。
「あなたの先生を、いずれ帝国大学の学長にしたいものですね」
「お目が高いのですね、ディオーネ陛下。でも帝国大学の学長ぐらいでは、先生を引き抜けませんよ」
あの、それ調印式と全く関係ないですよね? まだ関係者が大勢残ってるんだから、後にして。
「帝国大学の学長はグライフ最高の学者が任ぜられます。不足でしょうか?」
「いえ、とんでもありません。ただ私の家庭教師という至高の座がありますから」
握手したまま、にっこり火花を散らす女帝と大公。何なの君たち。
ていうか、ディオーネさんは俺の何がそんなに気に入ったんだ。俺をどうしたいんだよ。
「彼の学識と教授法があれば、我が帝国は大陸全土を席巻できるでしょう」
「そうですね。だからロイツェンが席巻します。陛下はどうか、グライフ領を統治なさって下さい。少し縮むかもしれませんけど」
「ロイツェンのジョークは秀逸ですね。八年後が楽しみです」
「ええ、とても」
おーい。もうやめなさい。両国の軍人たちがこっち見てるから。子供の喧嘩か。
見かねたビュゼフ将軍が苦笑する。
「陛下、お戯れはそれぐらいに」
「ええ。将来に備える貴重な時間です、無駄にはできません」
女帝ディオーネにとっては、こんな危ういやりとりもお遊びだったようだ。余裕の笑みを浮かべている。
「クロツハルト殿、ロイツェンに飽きたらいつでもどうぞ」
また誘われた。本当にしつこい。
俺は笑って首を横に振る。
「飽きるはずがありません。こんな面白い大公がいる国ですから」
「面白いとは何よ、面白いとは」
「大公殿下、もう少し節度を保って下さい。ディオーネ陛下に完全に遊ばれています」
「むー」
すねる大公殿下。まだまだだな。
俺は彼女にこう言った。
「殿下には、まだまだ教えるべきことがたくさんありますね……」
「また!? 私もう大公なんだけど!?」
「勉強は死ぬまで終わりませんよ。学び続け、考え続けるのです。帰ったらとりあえず関数の補講しましょう」
いいことを言ったつもりなのに、マリシェ大公はディオーネの方を向いた。
「うげえ……。ディオーネ陛下、この人あげます」
俺を売らないで。
女帝ディオーネはクスクス笑いながら、別れの挨拶をした。
「譲渡は受け付けません。私は奪うのが好みですから」
あんたもいい性格してるな。
俺は溜息をついて、とぼとぼ歩き出した。姫も一緒にくっついてくる。いや、姫じゃなくて大公だった。
「さ、帰りましょう」
「関数はやだ……」
「関数ぐらいでガタガタ言わないで下さい。ロイツェンはここからが大変なんですから」
俺は歩きながら、大公殿下に改めて説明する。
「今回、表向きは『ロイツェンの仲介で、戦勝国のグライフが撤兵した』という形になっています。少なくともグライフの歴史書にはそう記されるでしょう」
「実際は違うのにね」
「グライフにも国家としてのメンツがありますので、そこは穏便に解決しましょう」
マリシェ大公はぴかぴかの礼服姿で、小さく首を傾げる。
「いいの?」
「女帝の求心力が低下して革命でも起きると面倒です。その次にできる政治体制がどんなものか予測がつきません。できるだけ予測可能なものと戦いましょう」
すると大公はニッと笑う。
「そうね! それにパルネアでは『貴族と神官と民衆の抵抗でグライフ軍を退けた』って記録するでしょうし、ロイツェンはロイツェンで……」
「おっと、それはここでは発言なさらぬように。一応、極秘です」
「えへへ、そうだった」
三つの国のどの歴史が真実に近いのかは、後世の歴史家を悩ませるミステリーになるだろう。楽しみだ。
だが何百年かすればロイツェン大公家の機密文書が公開され、ロイツェンの秘密工作でグライフ軍が撤退したことが明らかにされるだろう。パルネア人の聖灯教青炎派との暗号文は全て保管されている。
歴史の仕掛け人になるというのは、実に楽しいな。
「歴史って面白いですね、大公殿下」
「え? あ、うん?」
俺は微笑む。
「これから大公殿下がどんな歴史を作っていくのか、とても楽しみにしています。良い歴史を作っていけるよう、これからも一緒に勉強しましょうね」
「……うん」
我が敬愛する大公は、頬を染めてこっくりうなずいたのだった。




