3-13 紫紺の瞳は闇を視る 化け込み記者・長月千代子の大正あやかし事件録
時は大正。近ごろ流行りの新聞や雑誌の企画に、化け込み、というものがある。
小物売りや料亭の仲居などに変装した婦人記者による潜入取材で、上流の人々の暮らしや言動を面白おかしく描くものだ。
千代子は帝都日日新聞の化け込み記者。小娘ながらに数々の事件の真相を暴いた敏腕の秘訣は、この世ならざるものを視る「目」である。
山神様から預かった紫紺の「目」を妖しく光らせ、千代子は今日も帝都を駆ける。
闇に蠢くあやしのモノを見通して、事件を解決するために。帝都の平和と──何より、愛する「彼」との未来のために。
千代子が女中として勤め始めて早や一週間、お嬢様はまだ心を許してくださっていない。
「おはじきは、気分じゃないですか。お人形も? お手玉は──私、下手なんですよねえ」
朗らかな声と笑みを必死に作っても、正座をした膝の上で重ねられた、お嬢様の小さな手はぴくりとも動かない。畳の上に並べた玩具も見向きもされないし、小さい唇はきゅっと固く結ばれて──全身で、千代子を拒んでいる。
(知らない大人は怖いよねえ。分かりますよお)
これでは、聞きたいことがありまして、なんて切り出せそうにない。子供の目は侮ってはならないもの、企みを持って家に入り込んだ者の魂胆なんて、見透かされているのかも。
近ごろ流行りの新聞や雑誌の企画に、化け込み、というものがある。
小物売りや料亭の仲居などに変装した婦人記者による潜入取材で、上流の人々の暮らしや言動を面白おかしく描くものだ。
千代子は、このお屋敷で事件の気配あり、ということで送り込まれた帝都日日新聞の化け込み記者だ。首尾良く女中として雇われたものの、人見知りらしいお嬢様を攻めあぐねているところである。
(お嬢様のためでもあるんだけど……)
逃げられずに話せるようになるまでにも、一週間かかっている。立ち入った話をするには、いったいどれだけかかるだろう。
顔では笑いながら、千代子が心中で頭を抱えていると──冷たく尖った声が、不意に響いた。
「千代子さん、何をなさってるの?」
「お、奥様……!」
氷の鞭で打つような鋭い声の主は、この家の奥様だ。新入りの女中の不審な行動を見咎めたのだろう。
(見られた!?)
お嬢様を背中に庇いながら、千代子は愛想笑いを浮かべた。
「えっと……空き部屋にも風を入れようと思いまして」
振り向くまでの数秒の間は、怪しまれなかっただろうか。恐る恐る見上げた奥様の顔は、細い眉を寄せてはいたものの、恐怖や驚きを浮かべてはいなかった。そして、お嬢様には目もくれず、千代子だけを睨んでいた。
「必要ないと言ったのに……! 片付けなさい。今、すぐに」
「はい、奥様」
畳に手をついて従順に頭を下げると、奥様はとりあえず満足したようだった。
「まったく勝手に……手癖が悪いんだから──」
これ見よがしの溜息と呟きを残して、上等の小袖の絹鳴りの音と足音が遠ざかるのを確かめて、千代子は肩の力を抜いた。今すぐ片付けろという命令に、従う気はない。奥様の声に、影に。お嬢様がぴくりと震えたのが見えていたから。
怯えた子供を慰めるほうが、片付けよりもよほど大事だ。
「あは──怖かったですねえ」
へらりと笑みかけると──小さい手が伸びて、千代子の着物の袂をそっと握る。少しだけ、心を開いてもらえたのだろうか。
「前からあのご様子で?」
そっと尋ねると、おかっぱの頭が、こくりと頷く。ぱさぱさとした毛先が撫でる頬は、色がなく痩せこけている。子供の頬は、もっとふっくらして柔らかいはずだろうに。殴られたのだろうか、青黒く腫れた目蓋は目を塞ぎかけているし、指の中には爪が剥がれたものもあるし──何より、細い首にくっきりと刻まれた手指の痕!
奥様がお嬢様を無視したのは、この痛ましい姿が正視に堪えなかったからではない。魂だけの存在になったお嬢様は、普通の人間の目には見えないからだ。
某華族の幼い令嬢が、何か月も姿を見せていない。後妻の継母は療養中だと言っているが、虐め殺したのを隠しているのではないか。
それが、千代子が探っていた事件だった。
(可哀想に。こんな姿で、見つからないままで)
噂が真実だったのは、もはや明らかだ。けれど、さらに犯人を追及するためには、お嬢様を──その遺体を、見つけてあげなければ。
「お嬢様は今、どこにいらっしゃるんです? 教えてくれますか?」
折れそうに細い身体を抱き締めて。声を低めて問うた千代子の目は、今は人ならざる紫紺の色を湛えているはずだ。
奥様に気付かれなくて良かった。この目があればこそ、千代子はこの世のものではない存在を視て、それらと触れたり語ったりすることもできるのだ。
*
男爵夫人の戦慄の本性 継子を責め殺す鬼女
本紙婦人記者のお手柄 警察顔負けの化け込み捜査
「お手柄……」
帝都日日新聞の社屋近くの公園にて。晴れた空に朝刊を広げ、一面に踊る題字を眺めて、千代子はえへ、と頬を緩めた。
女中として潜入していた間は和装だったけれど、今は記者らしく洋装のワンピースを纏っている。動きやすく身軽な装いは、彼女の浮き立つ心にもよく合っていた。
あの後、お嬢様に手を引かれて「居場所」を教えてもらった千代子は、警察に走った。庭の掃除をしていたら振袖の切れ端らしきものを見つけた、と。
そもそも令嬢の不在が怪しまれていた家だから、捜査の口実を得た警察は色めき立った。そして、奥様や旦那様との押し問答の末、埋められていたお嬢様の遺体が発見された──その一部始終を、千佳子は間近に見ることができたのだ。
煽情的な記事の内容そのものは、引っかからなくもないけれど。書いたのも、千代子ではない男の記者なのだけれど。
(これで、お嬢様も安らかに……)
がさり、という音と共に朝刊を胸に抱いて。千代子がお嬢様のことを偲んでいると──不意に、低い声がかけられた。
「またお手柄だったな」
「あ、橘さん……!」
千代子に歩み寄る黒い人影は、暗色の制服をまとった警官──この度だけでなく、過去にも世話になったことがある橘刑事だった。
ただでさえ厳めしい顔に不機嫌の色が濃厚に漂っているのは、どうやら記者ふぜいに出し抜かれたからだけではないらしい。
「小娘に無茶をさせて──帝都日日新聞はどうなってるんだ」
「ご心配は無用ですよ。私はやりたくてやってるんです」
橘刑事は、非難するような口調だけれど、これは適材適所というものだった。千代子の目で特ダネが掴めれば、部数が伸びる。彼女のほうも、金一封が出たりもする。多少の危険や怖い思いがあるとしても、目をつぶれるくらいに良い話だ。
何しろ、婦人記者は本来大きな事件には関われないものなのだから。
「ほら、流行りの髪形や化粧なんかの記事よりは、よっぽどやりがいがありますし!」
「はあ、職業婦人だねえ。やる気があることで」
溜息混じりに言いながら、橘刑事は千代子にチョコレートの包みを押し付けた。今回の件のご褒美、ということらしい。
「わ、ありがとうございます!」
千代子は、目を輝かせてチョコレートを割り、欠片を口に放り込んだ。うっとりと目を細める彼女を見る橘刑事の目は、けれど依然として険しいままだ。
「勘だが、あんた、本当はもっと深い事情があるんじゃないか? やりがいなんて、建前で」
さすが、刑事の目は鋭いらしい。昨今流行りの女性解放、なんて分かりやすい話では納得してくれないようだ。
(橘さんは、良い人だしなあ……)
チョコレートを味わいながら、少し考えて──千代子は、真実の欠片を教えてあげることにした。申し訳ないけれど、善意の心配でも煩わしくはあるもので──
「実は私、田舎に好きな人がいるんです」
「ん?」
それに、惚気るというのは楽しいものだ。
「帝都で一緒に暮らすのが夢なんですけど、彼は世間知らずなので……私が大黒柱になるんです!」
都会には記者という職業があって本当に良かった、と千代子は思っている。毎日のように事件が起きて、その犠牲となった者たちは訴える相手を探してさ迷っている。中には、もとから人でないモノも紛れ込んでいる。──千代子の目が、こんなに役に立つなんて。
「それは──」
満面の笑みで熱弁する千代子に、橘刑事は呆れたように声を上げた。
「そんな男、止めとけ。女に危険な真似をさせるなんて甲斐性なしだ」
「色々事情があるんです! 私が好きなんだから良いんですよう!」
くしゃ、と朝刊を握りしめて訴えようとして──千代子は、橘刑事の目に驚きの色が浮かんでいることに気付いた。
(い、いけない。カッとなると、つい……)
感情の昂ぶりによって、目の色が変じてしまったらしい。昼の陽射しの下では、紫紺の色はいっそう鮮やかに美しく──そして、妖しく見えただろう。
慌てて顔を背けながら、千代子は早口に会話を打ち切った。
「つ、次の取材の打ち合わせがあるんです。失礼しますね!」
「おい、無理はするなよ。本当に。好きな奴がいるなら、なおさら!」
「はい! ありがとうございます!」
目を合わせられない代わりに、声は明るく大きく。それで、想いは伝わっただろうか。橘刑事は、本当に良い人だ。
*
千代子は、本当にひどい田舎から出てきた。山奥の、貧しい──不作の年には、山神様への贄と称して女児を山に捨てるような。
暗くて寒くて、ひもじくて。蹲った千代子は、彼女と同じように痩せた存在に出会った。可哀想、と思った彼女は、彼に言った。一緒に逃げよう、と。
『助けて欲しいと言った贄はいくらでもいた。だが、そんなことを言われたのは初めてだ』
そうしたら、彼は綺麗な紫紺の目を面白そうに瞬かせた。
『では、俺の目を貸してやろう。一緒に連れて行ってくれ。上手く使えば、娘ひとりでも生きられるだろう』
もちろん千代子は、目だけ一緒では満足しない。いつか彼をあの暗い田舎から助け出すため──そのためにこそ、帝都を駆けるのだ。





