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拝啓スノードロップ  作者: 梨乃実
第1章 千三百三回目の春
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濃紫編 #2 過渡 Ⅵ

 そこは、よく家にあるようなダイニングというよりは、数十人を収容しうるキャパシティの部屋だった。アルマスさんが個人で使うにはあまりにも広い。キッチンも然りだ。カウンターの向こうに見えるコンロは、業務用と言って然るべき大きさだ。


「――おう、思ったより早いな。積もる話もあっただろうに」


 アルマスさんは、ショッピングモールにいた時よりもラフな格好になって僕らを出迎えた。手にはトングが握られていて、どこか邪悪なドラゴンというにはちぐはぐな印象を受ける。


「昼飯はパスタでいいか?」

「いいよ。お腹すいたから早くして」

「もう出来上がってるよ、女王様。さっさと座れ」


 僕が遅れて席に着くと、それを待っていたらしいアルマスさんがティーカップと皿を持ってくる。彼はシェリルのちょっかいを軽くあしらいながら、ティーポットを丁寧に傾けた。


「ロラン君、嫌いな食べ物はあるか?」

「いえ、大丈夫です。重ね重ね感謝いたします」


 前菜のサラダを並べた彼は、ひらひらと手を振ってはにかむ。


「いや、自分の昼飯のついでだからな。あまり気にするな」


 それよりあいつにナプキンの使い方でも教えておけ、と軽口を叩くと、アルマスさんは再びキッチンへ戻った。

 だが心配には及ばない。彼女はあれでテーブルマナーをきちんと学んでいる。僕にランチやディナーを奢らせるため、という些か不純な動機ではあるが、マナーを知っているのは良いことだ。咎めることはできない。現にシェリルは手早くナプキンを展開して臨戦態勢でいる。


「別に女王様は待ってなくていいんじゃないかな」

「いや、待つよ。ロランと一緒に食べたいもん」


 最近のシェリルは少しおかしい。いつもは判断に無駄がないのに、たまにこうしてよくわからない願望を口にする。しかも、こうなったシェリルは梃子でも動かない。


「そう。その方がいいだろうね」


 僕の言葉に、シェリルは大袈裟に口角を上げた。


「もちろん。だからロランが永遠の愛を誓ってくれるのも待ってるの」

「そう。それは期待しないでね」


 瞬間、脛に鈍痛が走る。


「痛った、やめてよ」

「だっておかしいじゃん。保留っていうのは、正式に宣言するのは改まった場所で、って意味でしょ?」


 シェリルの超理論は絶好調である。彼女が望む結果をつかみ取るには合理的な振る舞いなのだが、この件に限ってはそれがひどく厄介だ。


「違うよ。保留っていうのは、回答期間の延長を図ることのできる言葉だよ」

「ちょっと! うざ! ありえないんだけど!」

「痛いって!」


 シェリルは躊躇いなくぼこぼこと蹴りを繰り出す。僕がドラゴンでなければ、数週間痣だらけの脛で過ごすことになるだろう苛烈さだ。僕としては人様の家で喧嘩をするつもりはない。失礼のないように早々に降参したいくらいだ。

 だがそれは嘘をつくこととほぼ同義だ。僕はシェリルの傍にはいられない。いかなる時も、僕は貫かなければいけない。


「ほれ、お前らいつまでやってんだ。食うぞ」


 ごと、と雑に置かれたパスタから、バジル独特の刺激的かつ爽やかな香りが立ちのぼる。アルマスさんは三人分の配膳を終えると、荒く椅子を引いて着席した。そして遠慮がちにサラダを食べはじめる。表情は硬いが、野菜を咀嚼する様子にはどこか幼さが感じられた。


「んーうま! アルマスの手料理最高!」

「お前が今食っているサラダは、ほとんど冷凍食品だぞ。ソースをかけただけだ」


 シェリルが僕の方をちらちら見ながら当てつけのように言った。しかしアルマスさんは事実でもってばっさり切り捨てる。


「アルマスも料理できないの!? ロランと一緒」

「できないなんて一言も言ってないんだがな」


 僕は逐一シェリルに手料理を振舞っているはずなのだが、何やら勘違いをされているらしい。だが今は否定する時間が惜しい。ちょうどアルマスさんが防波堤になってくれるので、少し遅めの昼食を堪能するとしよう。


 まずはティーカップを持ち上げる。白磁の器に口をつけると、少し甘い茶葉の香りが肺いっぱいに広がっていく。器を傾け鮮やかな紅の液体を吟味すると、そこには爽やかな苦みと上品な甘みが共存していた。それでいて極端な渋さはなく、すんなりと飲むことができる。


 サラダは根菜がベースになったもので、ポテトやニンジン、ビーツが楽しげに舌の上を転がる。それらを纏め上げるピクルスとソースの酸味も憎いくらいに際立っていて、ボリュームはあるもののメインへの期待を高めてくれる。僕は興奮そのままにパスタを巻き取り、口に運んだ。


 ペスト・ジェノベーゼに包まれた柔らかな海老が、口腔でぷつ、と弾ける。途端潮の香りが強まり、甘い出汁が溢れ出した。弾力のある麺がうねり、海老とソースを引き連れて熱とともに胃へと落ちていく。

 僕は無我夢中で、再びパスタを巻き取った。


「美味しい」


 食事とは、脳内に渦巻く考え事を無意識に放棄できる、僕にとって唯一の場である。美味なれば一層、脳の休息にはもってこい。

 至福の時だ。この時間が永遠に続いてくれないだろうか。


「ロランもこんな手料理を御馳走してくれるといいんだけど」

「そうか」

「ロランが料理するとビーカーとか計量器とか持ち出してきて、キッチンが実験室みたいになっちゃうから」

「へぇ」


 ああ、紅茶美味しい。


「ね、ロラン? つい手を出しちゃうんだけど。本当はあたし、ロランの手料理が食べたいんだよね」

「でもそれは、なんというか、ロラン君は本当に料理ができないのか?」

「多分ね。だから、せっかくアルマスがこんなに料理上手いんだし、ロランに教えてくれないかな、って」


 舌が壊れている目分量女のくせしてよく言う。


 フードスケールの代わりに実験用スケールを使っているだけで実験室呼ばわりされてはたまったもんじゃない。そしてビーカーは調理用として販売されているものを購入し使っている。


「なにロラン。なんか文句あるの?」

「ほらほらほらほら、やめろ! はよ食え!」


 アルマスさんが仲裁してくれるので、僕は静かに食事を続ける。


「ねえロラン、ほんとそういうのよくない!」

「だからお前やめろって! 最早相手にされてないぞ!」

「ほんと最悪! ばか! いい加減にしろよ!」


 シェリルはひとしきり唸って、もうどうにもならないと悟ってくれたのかフォークを手に取った。彼女は怒っているさまを存分にアピールしながらサラダとパスタを平らげる。アルマスさんがデザートのマセドワーヌを手にシェリルを宥めて、それでも彼女はむすっとしたままデザートを完食した。今は眉間に皺を寄せながら紅茶を啜っている。


「なあ、お前はこれからどうするんだ?」


 シェリルの鎮静化に奮闘していたアルマスさんは、彼も彼でどうにもならないと悟ったらしく、僕に話を振る。


「どう、とは?」

「また暴走する可能性がある中で、街に戻るのか、という話だ」


 成程、難しい問いだ。


「戻ります。もし仮にまた僕が暴走したとして、対処法がないわけではないんです。父親の伝手を頼りたくはないですが、手段として計上できるとも思うので。アルマスさんに縋るのは現実的ではないでしょうし」

「まあ、な」


 アルマスさんは肩をすくめる。


「勿論、私的な問題が解決すれば街から出ます」


 お互い無かったことにして、シェリルに降りかかった火の粉を払うことができるまで。恐らく、すべて完了するまでさして時間は掛からない。


「そうか、ま、頑張れよ。あいつにも伝えたが、対処法の一つくらいはやるよ。同じ、堕ちたドラゴンのよしみでな」


 アルマスさんは溜息を混ぜ込んだ声で言う。僕が返事をしたので会話は終わりだと判断したのか、彼は自分の分のデザートを食べ始めた。思いのほか緩い追及に拍子抜けする。あくまでもアルマスさんは偶然居合わせた他人であるので、私情に口を挟むつもりはないということなのかもしれない。


 依然シェリルは無言で僕を睨みつけてくるが、僕は応じるつもりはない。もう流されるわけにはいかないのだ。それはアルマスさんの言動から、より確かなものになった。


 僕はシェリルの傍にいない方がよいのだ。

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