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拝啓スノードロップ  作者: 梨乃実
第1章 千三百三回目の春
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濃紫編 #2 過渡 Ⅳ

 僕がシャワーを終えて客間に向かうと、そこにはシェリルとメモ書きが残されていた。


 シェリルは僕に気づくやいなや、豪速で携帯端末から顔を上げて僕に飛びつく。温かくて柔らかな、確かな芯のある生体組織。その二つの圧力が僕に襲い掛かった。どうにも居たたまれなくなって、さり気なくシェリルを押しのけようと力を籠める。しかしこの程度の腕力では何の抵抗にもならないらしい。シェリルは僕を圧死させるつもりなのか、万力のように力強く体を密着させてくる。


「はぁ……。シェリル?」

「やだ」

「服が皺になるんだけど」

「やだ」


 仕方ない。解放してくれないのなら、そのままにするしかない。

 僕は、テーブルに乗せられた質の良い厚紙を手に取る。


『一号棟一階ダイニング』


 不穏な文字列だ。言外に「限りがある」と感じられるものがあればまだ良いのだが、このネーミングにはそういった安心感はない。下手すると何十号棟くらいまで連番で続いていそうだ。アルマスさんはとんでもない富豪なのかもしれなかった。


「それで、アルマスさんはこんな置手紙を残してどこに行ったの?」

「ああ、アルマスならお昼ごはん作りに行ったの。食べてないって言ったら、じゃあ食ってくか、って」

「そうなんだ。それはともかく僕は古代魔法が」


 シェリルは何故か僕の脛を蹴る。僕は思わずしゃがみ込んだ。今はタイツだから、エナメルで強化された靴ほど硬質な衝撃はない。けれど足を痺れさせるには十分な鈍痛だ。


「あ、ロラン。いい話とすごくいい話があるんだけど、どっちから聞きたい?」


 シェリルは、脛を押さえる僕のことなんて構うつもりはないらしい。とぼけて手を合わせると、満面の笑みで僕を見下ろす。


「どちらから言ってもらっても事実に差は生まれないから、並び順で聞くよ」


 シェリルは頷くと、やっと僕を解き放つ。


「じゃあまずは、いい話から。ロランの体に傷が残るとあたしに文句言われそうだって」

「確かに戦いで生傷だらけだけど、すぐ治るし、気にするようなことでは」

「まあね。でもくれたの。これを」


 シェリルの手の中にあるのは瓶だ。目算だが、容積はコップ一杯満たせるくらいだろう。


 問題はその中身。あんなもの、女子高生においそれと渡していいものじゃないし、無造作にポーチの中から引っこ抜くようなものでもない。


 繊細な魔法陣が彫り込まれた瓶の中で、たっぷりと注がれた赤い液体がくるりと回った。シェリルの手に連れられて陽の光を受けると、まるでオパールの炎のように色を遊ばせて、液体は鮮やかな金に輝く。


 それは、血液だ。


「ロラン近い。瓶に鼻くっついてる」

「うんそうだね。で、それはアルマスさんの血なんだよね」

「ロラン、ロラン? おーい。……だめだ」


 シェリルは溜息を吐くと僕の肩を押してソファに着席させた。僕の足をまたぐようにシェリルも座る。一瞬遠ざかった小瓶がまた近づいて、僕の唇に当てられた。シェリルの配慮は有り難いが、残念ながら近すぎて何も見えない。


「そう。アルマスの血。怪我とか病気とか一瞬で治っちゃう、伝説の血」


 僕は恐る恐る小瓶を受け取って、栓を引き抜く。途端、刺激臭が僕の鼻腔を突き抜けた。


「うわ。アルマスの血、すごい匂い」

「あの人、一体どんな魔力量しているんだ……」


 瓶の口を扇いで吟味すれば、果実のような爽やかさと、蜜のようなもったりとした甘さが混在したものだとわかる。これは、生物の生み出した高圧の魔力が、大気中の自然魔力に反応した時の香りだ。


 しかも、僕がドラゴンになってからの魔力臭よりも、遥かに強烈である。まるで盛大に溢してしまった香水のようだ。上品ではある。だが匂いが強すぎる。血液であるはずなのに、最早鉄の香りなど遠慮がちに顔を出す程度である。食紅を垂らした香料なのではと疑いたくなるほど、その液体は一般的な血液の姿からはかけ離れていた。


 しかも金に光るときた。僕の血液も時折金が混じるように見えることがあるが、アルマスさんのそれは赤と金どちらの色なのか分からない。


「僕の方が、まだずっとましなんだ」

「ん? 確かにもっと優しい香りだけど」


 僕は小瓶をシェリルの口につけて傾ける。


「……!?」


 シェリルが驚いて飛び上がるが、零すといけないので角度を維持する。三分の一ほど彼女の口に流し込んだところで、やっと観念したのかシェリルが血を飲み込んだ。


「ちょっと、何するの!?」

「何って……、飲ませただけだけど?」

「そんなことしたらロランの分なくなっちゃうじゃん!」


 シェリルが不満げに主張する。しかしなくなるなんてことは万に一つもない。

「見たところ五オンスくらいはあるみたいだし、試しに飲ませてみても一口当たりの最大量はたかが知れてるからいいかなって」

「そうなのかもしれないけど……でも! あたしには必要ないでしょ!」


 シェリルにしてはとんだ的外れを言う。いや、僕を思ってのことかもしれない。これまでも傷についての話題を意図的に避けている節があった。

 だが気遣いは無用だ。僕がシェリルに傷を負わせたのは、単純な事実なのだから。


「必要ないわけ無いよ。傷は治せるなら治した方がいい」


 僕がそう言うと、シェリルの右手が彼女の腹部へと移動する。

 その時、シェリルが大げさに目を見開いた。彼女は何の躊躇いもなく、腰を少しだけ浮かせてワンピースをまくり上げる。

 見てはいけない。

 しかしシェリルは僕の手を強引に下ろして呼びかける。


「ねぇ、見てよ」

「ななな、な、なにを……」


 僕はしっかりとおろした瞼を、うっすら持ち上げてみる。正直睫毛が邪魔で何も見えないがこれ以上目を開けると僕は死ぬ気がする。


「何やってんの、ビキニも下着も大して変わんないからさっさとして」


 腹を括ってシェリルを見ると、露骨な赤のレースで――いやそうじゃない。


「やっぱり治るんだ。しかも、たった一口で」

「あんなに酷かったのに、跡形もなくなっちゃった。不本意ながら、ロランの分を横取りする形になっちゃったけど」


 左の脇腹に、腰骨の上あたりから乳房の下側までを覆うケロイドがあったはずだった。重度の火傷によるものだ。僕が魔法を制御しきれなくて、怪我をさせてしまったはずだった。綺麗にすることが難しいと、一生向き合わなければならないと打ち明けられた瞬間は、今でも鮮明に覚えている。シェリルは悲観した様子を見せることはなかったが、十分に大ごとだった。


 僕は思わずシェリルの肌をなぞる。


「ひぅ!? ……っ、んぁ……!!」


 無い。歪んで引き攣れて出来た凹凸(おうとつ)も、剥き出しになった肉の様に赤い、体組織の塊も。無い。何も、あの日の忌むべき遺物は無くなっていた。ただ白くて、理想的なまでに滑らかな曲面がそこにある。


「ねぇ……!」

「へ?」


 肩を叩かれて前を向くと、シェリルは顔を真っ赤にしている。一瞬訳が分からなくて首を傾げてしまった。だが流石に僕もそんなに呆けてはいない。シェリルが僕を呼んだのは何故か考え始める。


「えっと、どうしたのシェ――」

「ぁああああああああああああああーっ!! ばかぁあああああああああーっ!!」


 今まさに理由に辿り着くというところで、力強く頬に添えられる手。

 そして大きな加速度を持つシェリルの頭。


「――いっッ!?」


 シェリルは頭蓋割りでもするつもりなんだろうか。鈍い衝撃と眩暈に襲われて、僕に呻く以外の選択肢はない。出血はしていなさそうだ。だが僕がドラゴンじゃなかったらと考えると震えが襲ってくる。人間だったときにこれをやられていたら、本物のトラウマになっていたかもしれない。


「もう! 何でそういうことばっかりするわけ!? ありえないんだけど!」

「え、僕何かした?」

「したに決まってんでしょ。ばか!」


 赤面したシェリルは、顎で僕の手にあるものを指す。恐らく機嫌を損ねたのだ。しかし手の施しようがないので、僕はシェリルの言う通り瓶の中身をあおった。


 じわりと塩味が口の中に広がる――いわゆる「血の味」だ。しかし妙にフローラルな香りが鼻を抜けるので、何かフルーツのような味がする気がしないでもない。香りによる錯覚が、本来は血としてあり得ない爽やかな甘味を追加する。

 そして言うまでもなく他人の血液である。僕はヴァンパイアではないし、特殊な性癖を持つわけでもないので非常に気が引ける。


 成程、これは確かに飲みにくい。

 一口飲んだところで瓶から口を放す。体中の傷がもぞもぞと動いた気がして、試しにシェリルに蹴られた脇腹のピンヒール痕を確認する。だが見た目には治っていく様子がわからない。内出血はそのままの大きさだ。


 まだ傷を治すための必要量に達していないのだろうか。アルマスさんがこれだけの量の血液を渡してきたということは、必要十分な量が約コップ一杯分ということなのかもしれない。僕は嚥下するのに四苦八苦しながら、瓶の中身を飲み干した。


「痛っ」


 やはり用量が決まっているらしい。一瞬痛みが走ったかと思えば、みるみるうちに患部の熱が引いていく。再度脇腹を確認すれば、円形の内出血は名残惜しそうに消滅した。


「これ面白いな」

「どうでもいいから。次の話するよ」


 口元をおさえるシェリルは、いつになく素っ気ない。

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