第1話 煤けた町の、人ならざる者
記載の単語から時代設定的に矛盾を覚える方も中にはいらっしゃるかと思いますが、異世界です。
煤で汚れたこの町は昼でも暗く、夜との境が曖昧だ。
豊富な鉄鉱石や石炭が産出でき、ロンドンと鉄道で結ばれたこの町は人口ばかりが膨れ上がって、けれども器がそれを許容できていなかった。
煙が町を覆って、下水の整備も追い付かす汚物に溢れる……。
人々が新興都市だと色めきだつ一方で、「ブラック・カントリー」と呼んだのは誰だっただろうか。そちらのほうがずっと現実を見ているとイネーズは思う。
毎日新しい顔がやって来る町、数週間も滞在すれば誰もが暗い顔をする町、感染病が蔓延する町。
小麦の価格によって輸入が制限される穀物法に加えてジャガイモの不作。
多くの人々は今日をすら生きるのに必死だ。
けれどもある種の存在にとっては、生きやすい町であり、国であり、時代であるらしい。
イネーズが空を見上げると青い瞳に濁った月が映った。後頭部で無造作に結われた茶色の髪が揺れる。
「すっかり夜、だね」
「ニャア」
「今日は嫌な感じがするよ。ダドリー方面見て来てくれない?」
足下で黒猫がニャアと鳴いて闇へ消えた。ダドリーはここから西へ3マイル。何もなければすぐ戻ってくるだろう。
腰にぶら下がる愛剣フランベルジュを左手で確かめて一歩を踏み出す。
炎の揺らめきのような波型の刃を持った剣は、ずっと昔に量産されたそれと比べてイネーズが取り回しやすいよう刀身が短めにつくられている。
産業革命が起こり機械工業が発達したこの時代において、剣をぶら下げて歩く人間など限られている。
軍人か、ごく一部の警察官か、イネーズの属するルゴス騎士団のメンバーか。
動きやすさを重視した軽装に、闇に紛れる黒いマントを羽織った姿は決して騎士とは思えないだろうけれども。
マントの背中に浮かぶ異様な十字の刺繍がかろうじて、古い修道院の擁する騎士団のメンバーであることを物語っていた。
「お姉さん、夜にひとりで出歩くなんて危ねぇなぁ」
「我々が送り届けてあげようじゃないか」
通り過ぎたはずの男たちがすぐに戻って来てイネーズの両脇に立ち並ぶ。
二人ともくたびれたソフト帽によれよれのジャケット。決して裕福とは言えずとも、この新興都市で食うに困らない程度の仕事にはありつけているようだ。
「いいえ結構よ。お酒に飲まれたおじさんでは私を守れっこないもの」
眉をひそめるイネーズに寄せられた男たちの呼気からは酒の香りがぷんぷん漂う。
「まぁそう言わず……にっ!?」
イネーズのすました口調に微かに怒りを滲ませた男たちが彼女を拘束しようとするが、毎日の掘削作業に鍛えられた太い腕は女の身体を捕らえることはおろか、その細い肩に触れることさえできなかった。
「な――っ」
空を切った手を閉じたり開いたりしながら、たった今まで横にいたはずの女の姿を探す男たち。
「ほら、おじさんより私の方が動けるでしょう」
いつからメンテナンスをしていないのか、既に仕事を放棄して道を照らさなくなったガス灯の上から女が笑う。
男たちは、気配も感じさせないままほとんど垂直に飛び上がったイネーズに言葉を失ったらしい。唇をハクハクと動かしてイネーズを指さしたが、一度だけ顔を見合わせてから立ち去った。
「悪いことしようとしたら、いつか悪いことされちゃうから気を付けるんだよー」
転げるように走る二人の背中に手を振って呟く。
薄汚れたこの都市には、いや、この国には、善人と悪人の他にもうひとつ、悪鬼が存在していることを知る人間は少ない。
男たちの背中が人通りもガス灯もほとんどない細い道へ入っていくのを見るのと同時に、イネーズの肌がピリリと嫌な空気を感じた。
コウモリの群れがぐるぐると渦を巻くように飛んで、そして件の細い道へ降下していく。
「あっち真っ直ぐ行ったら売春宿だよね」
細い道を抜けるとゴミゴミとしたエリアに出る。そこはパンを買うくらいの手軽さで、もしかしたらそれよりも安く春を買える宿が、ぐるりと並ぶ場所だ。
客を引くために幾人かの女は外に出ているだろう。
コウモリの狙いは先ほどの失礼な男たちに違いないが、女たちが物音を聞きつけたら大きな騒ぎになってしまう。
イネーズは慌ててガス灯を蹴り、並ぶ建物の木造やレンガ造、それにテラコッタの壁や屋根を駆け抜けた。もし彼女を見ていた人物がいたとしたら、先ほどの男たちと同様にその姿を見失ったことだろう。
「なっなっなっ、なんだお前は!」
細道へ入ると同時に、男の悲鳴にも似た声がイネーズの耳を叩いた。
もう少しだけスピードを上げるべく、上体を前傾させる。
「あなた方のような薄汚い人間に名乗るような名前は持ち合わせていません」
「んだと?」
「どこから来たっ」
三人の男が対峙するのがイネーズの目にも確認できる。新たに現れた男はここには似つかわしくない上流階級の装いで、まるで大きな屋敷の庭を散歩しているかのようだ。
ここがゴミが散乱する狭く汚い道でなければ。
「あなた方は知らなくていいことですよ、どうせもう死んでしまうんだから」
柔らかく微笑んだ男の瞳が、真っ赤に光る。月明かりさえうっすらとしか届かないこの細道で、男の瞳だけが爛々と輝いた。
「ギード!」
ソフト帽の男たちは、きっと酒が入っていなくても事態を正しく把握することはできなかっただろう。
ギードと呼ばれたトップハットを被った男は、7、8ヤードは離れていたはずなのに瞬きをするくらいの早さで2ヤードほどの距離まで近づいていた。
さらに驚くべきは、両者の間に先ほどの女――イネーズが立ちはだかり、ギードへ剣を突き付けていたのだ。
「やあこんばんは、愛しい人。また腕を上げたようですね。素晴らしい感知能力と反応速度だ」
「はいこんばんは、クソ野郎。しばらく見ないから、どこかで野垂れ死んでくれてるかと思ったのに」
剣を突き付けられたギードはトップハットを取って目礼をすると、また優雅にそれを被った。煤汚れのない金髪が微かに輝く。
「ちょ、ちょっと。俺たち向こうに用があるんだ。二人ともどいてくれないか」
「物騒なモン振り回しやがって、頭イカレてんじゃねぇのか」
二人の間に漂う張り詰めた空気を、目の前で起こった現実を、酔っ払いは懸命に否定してみせようとする。
ギードは優雅に笑い、イネーズに首を傾げてみせた。
「彼らは貴女が立ちはだかることをよしとしていませんよ、イネーズ」
「許可なんかいらないもの。おじさんたち、今日はもう帰ってくれない?」
「それはいただけません。彼らの退路はもう塞いでおきましたから」
ギードの言葉にイネーズは神経を集中させ、感知範囲を広げる。
40ヤードほど後方、細道と別の道とが交差する十字路のあたりに禍々しい気配が三つあるのがわかった。
ギードほど強大ではないが、雑魚と侮れば怪我をするようなクラスの敵だ。
ソフト帽の男たちを守りながら動くには分が悪い。それにあまり騒ぎを大きくするわけにもいかない。
イネーズは奥歯を噛んでギードを睨みつけた。
「わ、わかったよ。俺たちもう行く、帰るから。いいだろそれで」
イネーズとギードが本当にイカレているのだと考えた男たちが後退る。できるだけ刺激しないようにと声を掛けながら。
だが既に状況は変わってしまっているのだ。イネーズが声を抑えて、だが鋭くそれを制した。
「止まって! 行っちゃだめ、私のそばにいて」
「なんなんだよ勘弁してくれよ」
翻弄される男たちの声にも苛立ちが混じり、声量が大きくなる。これ以上騒がしくなれば、さらに人を呼んでしまうだろう。
「さあどうしますか、イネーズ? 僕が殺されてあげてもいいと思えるくらい、貴女は強くなりましたか?」
イネーズは振り返って、ソフト帽の男たちを殴りつけた。




