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2-10 神様と契りを交わすこと

 神様に見初められた子。


 かつて、わたしはそう呼ばれたことがある。

 幼少期に一週間失踪したことが切っ掛けだった。しかし、その間の出来事をわたしは全く覚えていない。記憶を辿っても、頭に靄がかかったみたいに薄らぼんやりとしている。


 頭上に乗せられた狐面、腰まで伸ばされた灰色の髪、夜の闇みたいな真っ黒の長着。


 わたしが思い出せることはたったそれだけ。


「約束を違えるな」


 低く冷たい男の声が、聞こえる。

 わたしはあの一週間、一体どこで何をしていたのだろうか。




 これはわたしと神様の出会いの物語。

「じゃあ、じゃあね、大人になったらお嫁さんになってあげる」


 指切りげんまん、とわたしは右の小指を彼へ向け、絡めるよう促す。小学生になったばかりの子供よりずっと上にある彼の表情は、夕暮れに照らされて窺えなかった。


「その心は誠か」

「あたしが嘘をつくと思うの?」

「人間は皆、嘘をつく」


 人間を信じない。

 出会ってからずっと、彼はわたしに言い続けていた。人間を信じないなんて、彼も人なのに可笑しなことを言う。


 朱色に塗られた鳥居へ背を預け、唇を尖らせる。

 神社を覆う紅葉が風に煽られ、けんけんぱをして遊んでいた石畳に舞い散っていった。早くしないと夜になってしまう。晩ご飯の前に帰らないとお母さんに怒られるのだ。不思議とお腹は空かなかったが、急に家が恋しくなった。

 腕を組み顎に手を添えじっとわたしを眺めていた彼は、やがて深く息を吐き出し、長い指を絡めてきた。

 小指が混じり合う。

 氷みたいに冷たい。


「……その約束、違えるなよ」


 頭上に乗せられた狐面、腰まで伸ばされた灰色の髪、夜の闇みたいな真っ黒の長着。

 わたしが彼について覚えているのはそれだけだった。



***



「本日はご参列いただき、誠にありがとうございます」


 全身を黒で包み挨拶を繰り返すお母さんを眺めながら、葬儀会場の控室の壁に背を預ける。

 お婆ちゃんが亡くなった。

 施設へ入所していたお婆ちゃんは、数日前から体調が芳しくなかったらしい。一週間前にお見舞いをした時は元気だったのに、あっという間だった。会う度に頭を撫でてくれた優しくて、柔らかくて、温かい手のひらが懐かしい。

 零れそうになった涙を押し込んで、一人暮らしの自宅のクローゼットから引っ張り出した喪服の裾を指先で弄る。淡いピンク色で染まった人差し指は、先端が削れていた。仕事が忙しくて、ネイルの手入れもできていない。


 ――お婆ちゃん、地元に帰ってきたね。


 施設入所前、ショッピングモールはおろか、コンビニすら無い、山に挟まれた町にお婆ちゃんは住んでいた。自然豊かと言えば聞こえは良いが、実状は寂れた田舎だ。住んでいる人も高齢者が多く、若者は殆どいない。

 幼少期、わたしもお婆ちゃんとこの町に住んでいた。しかし、小学校一年生の冬休み前に、お婆ちゃんを残してわたしの家族は都心へと引っ越した。葬式が無ければ、生まれ故郷へ帰ってくることも無かっただろう。この地へ足を踏み入れるのは、実に二十年ぶりだった。


「由里ちゃん、大きくなったなあ」


 顔を上げると、佐恵子さんが立っていた。確か、母の姉の筈だ。小柄でふくよかな身体に、きつめに巻かれた茶色のパーマが目立つ。


「てっきり、お通夜も葬式も来ないかと思ったわよ」


 丸く分厚い手のひらが、わたしの肩を叩いた。


「こっちに来るの引っ越して以来? 成人したなら、もう大丈夫だと思うけどさ。智恵ちゃん……あんたのお母さんも嫌がりそうだけど、お婆ちゃんが亡くなったんじゃ仕方ないか。お婆ちゃんも由里ちゃんのこと大好きだったから、来てくれて喜んでるわ」


 わたしの頭の天辺からつま先まで見渡した佐恵子さんは「あの小っちゃかった由里ちゃんが、こんなに大きくなって」と頬を緩める。


「お婆ちゃんもずっと都会の施設にいたけど、最後ぐらい地元の方が安心すると思うからさ」


 興奮気味に振り下ろされる手は止まらない。肩が少し痛かった。


「由里ちゃんも、智恵ちゃんと一緒にお見舞い行ってくれたんでしょう。ありがとうね」


 目元を綻ばせる顔は、お母さんにそっくりだ。

 お婆ちゃんの枕元にいつもお花が飾ってあったことを思い出した。きっと、佐恵子さんが頻繁にお見舞いをしていたのだろう。


「そうだ。お通夜が始まるまで、まだ時間あるって聞いたわ。外の空気吸ってきても良いわよ」


 待合室の壁に掛けられた時計に目をやり、佐恵子さんは一、二、三、と指を折る。やがて、頷くとこの時間までならと時刻を提示した。


「帰ってきてから、散歩もしてないでしょう」

「母の車でここまで来たので、まあ……」

「こんな山奥の町だから都会と違って何も無いけど、気分転換にはなるかもしれないわよ。折角だし、歩いておいで」

「でも、何かやることとか」

「良いの。由里ちゃんは気を遣わないで」

「……ありがとうございます。お言葉に甘えます」


 お婆ちゃんが亡くなり、心が沈んでいたことに気を遣われたのかもしれない。佐恵子さんに背を押されるまま頷いた。確かに、ビルに囲まれる生活を毎日していると木と田んぼに囲まれた町は異世界みたいで少し心躍る。

 もう来ることが無いかもしれない町。懐かしさを噛みしめても良いのかもしれない。


「智恵ちゃんには、伝えておいてあげるから。あんな大変なことがあったんだし、一応ね」


 心配そうな顔を覗かせながら、佐恵子さんはお母さんの元へと行ってしまった。


 ――大変なこと、かあ。


 葬儀会場を飛び出し、両手を広げ大きく伸びをする。探るような視線と鬱々とした空気で凝り固まっていた肩が何度か鳴った。

 駐車場の脇に植えられた木々が揺れて、紅葉の香りが鼻を擽る。通勤で使っていたトレンチコートでは、冬の訪れを感じる冷たい風に耐えきれない。鼻の先がつんとした。


「思ったより寒いなあ」


 もうすぐ沈みそうな太陽で橙色に染められた空が広がっている。雲一つ無い。道端のあちこちに落ちている枯れ葉は、まばらだ。でも、あと一週間もすれば、落ち葉で山が作れるようになり、庭で焼き芋もできるだろう。

 切り崩した山と水田に挟まれた道路には、殆ど車が通らない。ぽつぽつと立つ家と広大な田畑ばかりが続いていく。歩く人も自転車もいない。都会は人も自転車も車を沢山すれ違うのに、場所一つでこんなに変わってしまうのか。急に湧き上がる心細さに、両腕をさする。


 小学生になってすぐの秋、わたしは一週間、失踪した。


 しかし、肝心のわたしにその間の記憶はない。いつ、どこで、何をしていたのか。誰といたのかすら思い出せない。ただぼんやりと狐、灰色、着物だけが頭の片隅に浮かぶばかりだ。

 失踪中、町に住む男たちと警察で、わたしは大掛かりに捜索されたらしい。それでも、一向に見つからず、捜索は空回っていたようだ。いよいよ皆が諦めた頃にひょっこり帰宅した、と後にお母さんが語っていた。

 誘拐か家出か。誘拐にしては外傷や怯えはなく、家出にしては健康体過ぎる状態。小学生のわたしからも証言が得られず、真相は明かされることなく終わった。


 ――あの子は、神隠しされた。

 ――神様に見初められた子だ。

 ――早く神様にお返ししなければ。


 だが、真実が分らなければ、噂になるのが田舎である。

 神に見初められた子は神隠しをされ、大人になる前に神へお返ししなければならない。

 そんな話があってたまるか。わたしなら笑い飛ばしてしまうが、お婆ちゃんは違った。「早急にこの土地から離れ、成人するまで来ないように」と引っ越しを強く勧めたのだ。

 普段は穏やかなお婆ちゃんの気迫と町人の噂に辟易していた両親は、都心への転居を決意したらしい。

 その後、お婆ちゃんの言いつけ通り、わたしがこの地に赴くことは無かった。


 白線も引かれていない道路に、パンプスのヒール音を響かせる。木々を揺らす冷たい風が頬を撫でた。気分転換に思わず外へ出てきてしまったが、そろそろ葬儀会場に戻った方が良いかもしれない。薄いストッキングでは風が凌げず、心許なかった。


「あれ? こんな場所、昔はあったかな……」


 両手を擦り、暖を取りながら歩いていると、山へ続く石段の前に出た。苔が所々付いた石に反射し、きらきらと輝く太陽の光に思わず目を細める。十数もある段の両脇には木が所狭しと並び、列を成していた。おそるおそる瞼を持ち上げた先には、朱色の鳥居が顔を覗かせている。

 静謐な空気に思わず立ち止まった。

 果たして、以前からこんな場所があっただろうか。幼すぎて覚えていないだけか。

 見つけた神社へと、吸い寄せられる。記憶を辿るよりも石段を登る方が早かった。

 参道を覆う紅葉は真っ赤に色付いて燃え盛り、キャラメルにも似た甘い香りが仄かに漂う。都会では中々見ることができない光景に、ほうと息が漏れた。


 もう二度と見られないかもしれない。

 ふと、そんなことを思った。


「そうだ、写真でも撮っておこう」


 美しい景色から目を離したくなくて、鞄の底へしまい込んでいたスマホを手で探る。

 ひらりと赤に染め上げられた葉が舞い落ちていった。鴉の鳴き声が、日暮れが近いことを知らせてくれる。

 化粧ポーチに、ハンカチ、財布をかき分けて、指先に硬い板が触れた。親指と人差し指で摘まみながら引っ張り上げる。


 ようやくカメラを構えて――しかし、両手から力が抜けスマホが滑り落ちた。


 荘厳な本殿。それを迎えるように鳥居が聳え立っている。

 いつの間に、頂上へ着いていたのか。

 どくりと心臓が脈打つ。

 両端では赤い前掛けをした狛狐が嗤っている。


「わたし、ここを知ってる」


 頭の奥できん、と耳鳴りした。

 突風で木々を彩っていた紅葉が舞い上がる。

 反射的に目を閉じた。

 纏わり付く空気が、変わった気がした。

 薄く瞼を持ち上げた先には、濃い橙色の光と一つの影。

 長着の裾が風で揺れる。緩く縛られた灰色の髪が流れていった。頭上の狐面が、わたしの目をじっと見つめている。


 ――この人に会ったことがある。


「……ようやっと、見つけた。約束を違えたとは言わせぬぞ」


 失踪中にわたしがいた場所は、ここだ。

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