第76話
──チュンチュン、チュンチュン。
宿の部屋の外から小鳥の鳴き声が聞こえてきて、俺はベッドの上でぼんやりと目を覚ます。
「あー、朝か……。おいお前ら、起きろー」
そう言って俺は、俺にへばりついて寝ている教え子たちに声をかける。
昨日も一昨日も、夜更かしをさせてしまったからな。
朝に多少弱くなるのは仕方ないが。
「まったく、かわいい寝顔しやがって」
俺はベッドの上、自分の目の前ですぅすぅと寝息を立てているイリスの髪を優しくなでる。
それは本当に、天使のような寝顔で──
──と。
そこで俺は、ぴたりと動きを止めた。
待て。
何かがおかしい。
どうしてイリスが、俺の目の前──俺と同じベッドで眠っているんだ?
いや、イリスだけじゃない。
リオとメイファも、俺と同じベッドで、俺に抱きつきながら眠っている。
さーっと血の気が引いてくる。
……まずい。
何がまずいのか分からないが、とにかくまずい。
これはいったいどういう状況だ。
昨日の夜、俺とこいつらの身に何があった……?
焦って頭が回らない。
そんな……そんなはずはないんだ。
俺に限って、そんなことは──
「んぅ……」
俺が混乱していると、目の前の天使──イリスが目を覚ました。
そして俺の顔が目の前にあるのを見つけるなり、にっこりと微笑んでのほほんと口を開く。
「あ、先生だぁ……。おはようございます、先生」
「お、おう。おはよう、イリス」
「先生もよく眠れましたか? 私は先生のおかげで、安心して眠れました」
「そ、そうか。それはよかった」
イリスの態度は自然だ。
何一つ、おかしなことはないという様子。
挙動不審なのはただ一人、俺だ。
そしてそうこうしているうちに、俺にへばりついていた残りの二人──リオとメイファも目を覚ます。
「んぁ……ふぁああああっ。うにゅ~、兄ちゃん、おはよー……」
「……おはよう、お兄さん。……朝から元気そうだね。……ボクはまだ、眠い」
こっちの二人も、特に変わった様子はない。
普通の日常の、朝の景色といった雰囲気だ。
──よし、落ち着け、俺。
昨日の夜に何があったのかを、しっかりと思い出すんだ。
まず覚えているのは、昨日の夜中、宿の扉越しにヴァンパイアたちと遭遇したことだ。
セシリア、それにヴァンパイアロードと言葉を交わした後、彼らが去っていったのを覚えている。
そしてそのあと、どうしたんだったか──
そうだ。
明日に備えて眠ろうとしたら、俺が宿泊している部屋の扉がノックされたんだ。
俺の部屋を訪問してきたのはイリスだった。
教え子たちには俺の部屋とは別に三人部屋を借りていたから、このタイミングでイリスが俺の部屋に来るのはおかしい。
俺が「どうした」と聞くと、イリスはこう答えた。
「先生……昼間の約束、これから叶えてもらってもいいですか……?」
部屋の扉を開けた俺の前で、パジャマ姿のイリスは恥ずかしそうにもじもじしながらそう言った。
昼間の約束というのは、【究極治癒】によってヴァンパイアスポーンとなった村人たちを救うときに、イリスから要求された「ご褒美」というやつのことだろう。
たしか、夜に一緒に寝たいとか何とかだったはずだ。
そしてイリスはさらに、こう続けた。
「ヴァンパイアロードは帰ったのに、どうしても不安で眠れないんです。──だから先生、お願いします。先生と一緒のベッドに、添い寝させてもらえませんか……?」
俺は当然困ったわけだが、教え子と約束したものを反故にするわけにもいかない。
いずれは成就してやらなければならない頼みである。
それに不安で眠れないというなら、その点はサポートしてやりたいところだ。
それならば、ということで俺はイリスの申し出を受け入れた。
だがイリスは教え子とはいえ、その体つきはもはや立派な女性だ。
というかむしろ、健全な欲望を持った男性にとっては、理性破壊兵器と言って差し支えないほどの恐ろしい魅力を宿している。
俺もご多分に漏れず健全な男性ではあるので、今のイリスと一緒に寝る、というのは非常にまずい感じはある。
しかしイリスが要求してきたのが子供心に添い寝してほしいということなのは分かったから、ならば俺が邪念を捨てて、頑張って「立派な大人」を演じればいい話だ。
俺は頑張った。
イリスと一緒にベッドに入ると、自分の内側から襲い掛かってくる邪念と必死に戦った。
俺は教師だ。
教え子に手を出すなんてことは、決してあってはならない。
絶望的な戦いだった。
そっと寄り添ってくるイリスは柔らかくて温かくていい匂いがして、俺は自分との戦いに何度も敗北しそうになった。
そしてそんな折、さらなる刺客が俺の部屋を訪れたのである。
「兄ちゃん、イリスだけズルい! オレも兄ちゃんと一緒に寝たい!」
「……お兄さん、ボクも不安。……なんなら今日だけでなく、明日も明後日もずっと不安」
俺の部屋を訪問した新たな刺客たちを見てイリスがむーっと頬を膨らませていたような気もしたが、それはさておき。
そこまで来たら俺はもう、毒を食らわば皿までよ、という気分になっていた。
というわけで、三人の教え子たちが俺と一緒のベッドで寝ることになったのだ。
その後はもう、何が何やらよく覚えていない。
とにかく柔らかくて気持ちのいい感触をたくさん味わったことだけは覚えている。
そして今朝──今に至る。
相変わらずよく覚えていない部分があるが、教え子たちにいかがわしいことをした記憶は浮かんでこないので、きっとセーフだ。
セーフだ、セーフなのだ。
俺はそう、自分に言い聞かせた。
「よ、よし。じゃあ起きて顔洗って、朝飯にするか」
俺はそうして、何事もなかったかのようにベッドから出ようとした。
試練のときは去ったのだ。
あとは何食わぬ顔で、今までどおりに教え子たちと接すればそれで問題ない。
万事問題ない。オールグリーン。
そう思っていたのだ。
だが──そのとき。
「お、なんじゃ、部屋の鍵が開いておるのか。入るぞ、小童」
──ガチャリ。
部屋の扉が開く、絶望的な音がした。
勇者にありがちな常識知らずっぷりを、このときほど呪ったことはない。
俺はおそるおそる、部屋の入り口のほうへと視線を向ける。
開かれた扉の向こうには二人の人物がいた。
一人は老人。
一人は筋骨隆々とした、上半身裸で入れ墨をした巨躯の男。
応援の到着はたしか、昼前頃という話だったと思うのだが……。
しかしその二人から感じる気配は、間違いなくただ者ではない。
この二人こそが、セドリックが送ってくれた応援の魔王ハンターに違いないだろう。
が、それはそれとして。
「……なんじゃ、取り込み中じゃったか、いやすまんすまん。しかしヴァンパイアロードのいる界隈で、またずいぶんと剛毅じゃのぅ。これはアホか大物のどっちかじゃな」
──バタン。
俺が何かを言う前に、部屋の扉が閉じられた。
それが俺には、まっとうな社会人としての扉が閉じた音のように聞こえて──
「あちゃー。こりゃまずいところ見られちったかな」
「あはは、まさかだったね。──って、あれ、先生? ねぇ先生、大丈夫ですか……?」
「……大丈夫じゃなさそう。……口から魂が抜け出てる」
真っ白になった俺は、教え子たちの声をどこか遠くに聞きながら、お空の彼方へと旅立ったのであった。




