第73話
「チッ……!」
ヴァンパイアは舌打ちをし、すぐさま踵を返して逃走した。
自らに滅びを与える「弱点」を知っているというのは、彼にとっては計算外の事態だったのだ。
だがそれ以前の話として、あのセシリアとかいう勇者の戦闘力は尋常ではない。
昼間ならともかく、たった一人でいながら夜のヴァンパイアをも恐れず力でねじ伏せようとしている時点で話がおかしいのだ。
ヴァンパイアの戦闘力は、当然ながらその眷属たるヴァンパイアスポーンのそれとは一線を画するものだ。
並みの魔王ハンターが立ち向かおうとしたら、五人で束になってかかっても足りるかどうかだろう。
だというのに、そのヴァンパイアが自分たちの時間である夜中にあってすら、逃げの一手を取らざるを得ない。
セシリアという女勇者は、それほどの驚異的な力を持った使い手だった。
しかも──
「──【大地の手】!」
「ぐっ……!」
大地から伸びた手が、疾走していたヴァンパイアの足首をつかむ。
それは勇者セシリアが行使した魔法の効果だ。
初級魔法ゆえに大した拘束力はなく、ヴァンパイアは一度転倒してわずかの間だけ足を取られたぐらいで、すぐに力ずくでひきはがして再び逃走を開始しようとする。
だがそれだけのわずかの間でも、ヴァンパイアにとっては決定的なタイムロスになった。
「ぐわぁあああああっ!」
転倒状態から起き上がろうとしたヴァンパイアは、その動作を叶えることなく悲鳴を上げた。
重装備をものともせず追いついたセシリアの剣が、ヴァンパイアを背中から貫き、その体を地面へと縫い付けていた。
さらに──
「──【聖光】!」
「ギャアアアアアッ! アァアアアアアッ!」
セシリアが放った光属性の攻撃魔法が、ヴァンパイアの肉体を灼く。
それ自体、大したダメージではないのだが──
「ヴァンパイアには変身能力もあるらしいが、それも光属性のダメージを受けた直後には行使できないらしいね。だからこれで、キミはコウモリや霧に姿を変えて逃げることもできなくなった──そうだね?」
「おのれ、おのれ、おのれ、おのれぇえええええっ!」
セシリアが背中を踏みつけにして木の杭を取り出すと、ヴァンパイアは怨嗟の叫び声をあげる。
あとはもはや、その杭を心臓に打ち込まれれば、このヴァンパイアは滅びる。
決着はついたかのように思えた。
だが、そのとき──
「──ッ!?」
セシリアが、眼下のヴァンパイアとはまったく関係ない方角へと向けて、とっさに大盾を構えた。
大盾に一瞬で闘気が注ぎ込まれ、淡い光を発する。
──ドガァンッ!!!
砲弾が城壁に撃ち込まれたかのような、凄まじい破壊音が鳴り響いた。
それは森の奥から飛来した、一個の石ころだった。
握りこぶし大ほどの大きさの何の変哲もないただの石ころだったが、それには「力」が宿っていた。
セシリアは自らが掲げた大盾を見て、その目をまじまじと見開く。
「バカな……!?」
自慢の大盾の一部が破砕されていた。
そもそもが超硬度のオリハルコン製の盾である上に、セシリアの闘気を流し込んで防御力を高めた代物であるのに、たかだか石ころがぶつかった程度で大穴が開いたのだ。
さすがに飛んできた石ころそのものは盾との衝突時に粉々に砕け散っていたが、だとしても異常なまでの力だ。
セシリアの額に、冷や汗が浮かんだ。
とっさに盾で防いだからよかったものの。
こんなものが自らの体に命中していれば、自慢の防御力などさほどの役にも立たず、命中部がやすやすと打ち砕かれていただろう。
そして、その一撃を放った攻撃の主が、森の奥から悠然と姿を現わす。
「──やあ、素敵な勇者のお嬢さん。投石などという無粋な真似をして悪かったね。しかしあまり余の『眷属』をいじめないでほしいのだよ。そんなやつでも、やがて人類を滅ぼすためには必要となる大事な手駒なんだ」
それはやはり、ヴァンパイアであった。
赤い裏地の黒マントを身にまとい、優雅な仕草で森の中を歩み進んでくる。
だがセシリアは、その姿を見た瞬間にびくりと震えた。
圧倒的な力の差を、肌で感じとってしまったからだ。
男性と比べても遜色のない背丈のセシリアよりも、さらに頭一個分も高い長身。
金髪をオールバックにした美男子で、口からはヴァンパイアの例にもれず鋭い牙が伸びている。
そして問題なのは、そのヴァンパイアが身にまとっている「瘴気」だ。
瘴気は、「魔王」となったモンスターのみが宿しているもの。
そのことはつまり、セシリアの目の前に現れた新たな敵が、「魔王化したヴァンパイア」であることを示していた。
「そんな……まさか、ヴァンパイアロードだというのか……!?」
そうしてセシリアが、新たな敵に気を取られたとき。
彼女が踏みつけにしていたもう一体のヴァンパイアが、肉体を霧へと変化させて拘束から脱出してしまう。
「くっ、しまった……!」
「ふははははっ! 後ろを取ったぞ、生意気な女勇者め!」
ヴァンパイアはセシリアの背後に回って霧化を解くと、女勇者に後ろから抱き着いて首筋に牙を突き立てようとする。
「舐めるな!」
だがセシリアは、頭突きで背後のヴァンパイアを怯ませると、力ずくで拘束を振りほどき、振り向いて剣を振るった。
「グワァアアアアアッ!」
胴を斜めに断ち切られたヴァンパイアは悲鳴を上げ、よろよろと後ずさる。
だが致命傷ではないし、夜のヴァンパイアには再生能力もある。
シュウシュウと煙をあげて、みるみるうちにその傷が癒えていく。
「くっ……! ここは退くしかないか……!」
セシリアは追撃を断念し、窮地からの脱出を最優先に考え始める。
だがその決断は、遅きに失していた。
いや、元よりアレと遭遇した時点で、セシリアの運命は決していたのだ。
「悪いが退かせもしないよ、美しいお嬢さん。あなたはもう余の手の内だ」
「なっ……!?」
背後から優しく抱きすくめられるようにして、甲冑姿の女勇者は、瘴気をまとったヴァンパイアに囚われていた。
──さっきまであんな遠くにいたのに、いつの間に。
怯えるセシリアの頬を、ヴァンパイア王の冷たい手が優しくなでる。
セシリアの額をさらなる冷や汗が伝う。
「さあ、もう余からは逃げられない。聡いお嬢さんなら分かっているはずだ。それでも敢えて抵抗してみるかな?」
「くっ……このっ!」
セシリアは先ほどと同じように、後方に向かって頭突きをして、窮地を脱しようとした。
だがそのときには、彼女の背後には誰もいない。
ヴァンパイアの魔王はいつの間にかするりと動き、意識の隙をつくようにしてセシリアの前面へと回っていた。
セシリアはそのことにはたと気付き、慌てて正面に向かって剣と盾を構えるが──
そのとき、魔王たるヴァンパイアの瞳が、赤く輝いた。
放たれた強大な魔力が、セシリアの瞳を通して彼女の内側へと侵入し、女勇者の心を侵食する。
からんと音をたて、セシリアの剣が地面に転がった。
ヴァンパイアの魔王はゆっくりと彼女に歩み寄り、彼女が取り落とした剣を拾って、彼女の腰にある鞘へと優しく収める。
そして冷たい手で女勇者の頬へと淫靡に触れ、魔王は優雅に微笑んだ。
「さあ、もう喧嘩はやめよう、麗しき女勇者よ。それよりも一つ頼みたいことがあるのだが──聞いてもらえるね?」
セシリアは、半ば虚ろな瞳でこくりとうなずいていた。
セシリアはその後、村長の家に行って自らの失踪を心配しないよう、そして勇者ギルドにも連絡しないよう言い含めた。
そして、しかる後にヴァンパイアの魔王のもとに戻り、彼に血を吸われて闇の眷属となったのである。




