第58話
「準備はいいですか? それでは、位置について──」
百メートル走のスタート地点。
俺はクラウチングスタートの姿勢でスタート位置につき、係員の人の声に耳を傾けていた。
第一コースの俺の隣、第二コースでは、リオが同様にスタートの姿勢をとっている。
その横顔に普段のユルさはなく、精悍で凛々しい少女の顔立ちが前を向いていた。
ぞくっとするぐらい綺麗だ。
その姿に見惚れそうになり、俺は慌てて前を向きなおす。
「よーい──」
しかしほんのりだが、リオの頬が赤く染まり、瞳もわずかに揺れ動いていたようにも見えた。
緊張していたのだろうか?
いや、気のせいかもしれない。
そんなことよりも、これからのレースに専念しなければ。
俺は集中を高めていき──
「──スタート!」
係員の声と同時に、地面を蹴った。
勇者の闘気を脚力に集中させるイメージで、力強く、速く、地面をえぐるように駆けていく。
──こうして集中しているときは、時間がゆっくりと流れ、半ば止まったようにすら感じる。
もちろんそれは錯覚なのだが、そんな主観的な時間感覚の中で俺は地面を蹴り、自らのスピードをぐんぐんと上げていく。
「あっ! やべっ!?」
そのとき後ろから、リオの声が聞こえてきた。
ん……?
スタートが遅れたのか?
遅れはコンマ二秒ぐらいのものだが、集中力に長けたリオにしては珍しい。
何か余計なことでも考えていたのか。
だがそうだとしても、手を抜くつもりはない。
俺は全力で、百メートルを一気に駆け抜けた。
俺よりわずかに遅れて、リオもゴールしたようだった。
そしてリオは、ゴールを過ぎてしばらくしたところで立ち止まり、頭を抱えた。
「はぁっ、はぁっ……んああああ~っ! ああもう、兄ちゃんズルい!」
「えっ、何がだよ」
何だか分からないので聞き返すと、リオはつかつかと俺の目の前までやってきて、頬を真っ赤に染めた顔で俺を見上げてくる。
「兄ちゃん、スタート前にオレのこと見てただろ! 何なんだよあれ!? 気にしたらダメだダメだと思ってたら、いつの間にかスタートしてた! ──ああああ~、もう、くっそぉ~!」
「あっ、そういうことか……悪い。……いや、正直な話をするとな、リオの横顔が綺麗だなと思って、つい見惚れちまって……すまなかった」
「へっ……?」
俺がそう頭を下げると、顔を真っ赤にしたリオが頭からぽひゅーっと湯気を噴いた。
それからリオはうつむいて、どこか拗ねたような上目遣いで俺のことを見てくる。
「……あ、あのさ、兄ちゃん……それって、どういう意味で言ってんの……?」
「どういう意味……? いや、普通の意味だけど」
「普通の意味って、そんなの……。……はぁ~、まぁ兄ちゃんだし、しょうがないか」
「……?」
何だかよくわからんが、リオに呆れられた。
それはさておき。
俺はリオに手を引かれて、ゴール地点の係員のところに二人の記録を聞きに行く。
係員さんは、半ば引きつったような笑いを浮かべつつ、俺たちの結果を教えてくれた。
「ブレットさん、一秒九六。リオさん、二秒二一です。二人ともすごいですね……今日のトップ記録ワンツー、それもダントツですよ」
だがそれを聞いたリオは、うがぁあああっと悶える。
「あーもう、悔しい~! オレだって二秒切れるときもあるのにぃ~!」
でもステータス検定の各測定はどれも一回ずつで、再測定は測定側にミスがあったときだけなんだよな……。
残念ながら、新たな公式測定は来年までおあずけになる。
「あー、リオ……俺のせいだったならマジですまん」
「うん、兄ちゃんのせいだ。……お詫びに、あとで抱っこして。そしたら許す」
「お、おう分かった。抱っこだな。でも、あとで人のいないところでな」
何だかよく分からないが、そんな話になった。
正直、最近急激に女子の色香を放ち始めたリオを抱っこするのは結構ヤバいと思うのだが、今回は俺が悪いみたいなのでしょうがない。
リオも別に他意はなくて、一年前と同じノリで言っているんだろうから、邪な気持ちを抱いてはダメなんだが……正直自信がないが、頑張って心を聖者にするしかない。
ちなみに俺から言質を取ったリオはというと、イリスとメイファのもとに行って、二人と何やら話をしていた。
「ずっる……。リオ、今の何あれ。ああいうのありなの?」
「別に最初からわざとやったわけじゃねぇよ。兄ちゃんのせいでタイムが遅くなったのはホントだぜ?」
「……だとしても、やり方がこすっからい。……お兄さんの弱みを利用して、欲望を満たすとか。……ボクも真似しよう」
「えーっ!? ……じゃ、じゃあ、私も……」
三人の教え子たちの俺を見る目がギンと光った気がして、背筋にぞくりと悪寒が走った。
な、なんだあの獲物を見るような目は……。
ちなみに、俺とリオの百メートル走を見ていた兄貴さんと小男はというと──
「に……二秒、だと……!? ていうか、なんだ今のあり得ない速さ……」
「あ、兄貴! さっきのがドーピングだったら、今度のやつは何なんすか!?」
「え、えっと……あれだ。ドーピングの、ドーピングだ。ダブルドーピングってやつだな」
「ダブルドーピング!? 初めて聞いたっす! 何か分かんないけど、めちゃくちゃヤバそうっすね!」
「ああ、めちゃくちゃヤバい。だがジョニー、俺はちょっと用事を思い出した。あいつらのことは気にしないで、俺たちはさっさとステータス検定を終わらせてしまおう」
「えっ……? あいつらのドーピングを暴いてやるんじゃないんすか兄貴!?」
「そうしたいのは山々だが、何しろ今の俺には時間がない。残念だが、今回は見逃してやるしなかいな」
「なんてこった……! チッ、あいつら、なんて悪運のいいやつらだ……!」
兄貴さんと小男はさっさと次の測定に向かってしまった。
それを見たリオたちは、
「あ、逃げた……」
「どうするリオ? 追いかける?」
「や、別にいいんじゃね? どうせなんだかんだ言い逃れて謝らなさそうだし」
「……残念な人ほど、虚勢を張りたがる。……哀しいけど、この世の真理」
そんな風に兄貴さんと小男を憐みの目で見送っていた。
まあ、勇者としては言うほど能力がないわけでもないんだけどな、あの人たちも……。
キミら三人が異常なだけだからね。
そこのところは、はき違えないようにしてほしい。
──というわけで、そんなちょっとしたいざこざはあったものの、俺とリオ、イリス、メイファの四人のステータス検定はその後つつがなく進んだ。
反復横跳び、砲丸投げ、握力、背筋力、それに数々の耐久力測定や魔力測定などなど、様々なテストで俺と教え子たちは測定係を驚かせるほどの記録を次々と弾き出していった。
そして証明写真の撮影なども行うと、検定は無事に終了した。
最後には勇者ギルドに戻って検定終了の報告をする。
すると認定ステータスを記した勇者カードは、三日後までにできあがると伝えられた。
すぐに結果を見れると思っていたリオたちはちょっとした不満の声を上げたが、ごねたところで一瞬で勇者カードができあがったりはしない。
俺はリオたちを連れて街のちょっと華やかな飲食店で食事をし、その後、村へと帰還した。
なおこの日の夜中には、約束通りに自宅の自室でリオを抱っこした。
正直に言って、やましい気持ちを抱かないのはごめんなさいやっぱり無理でしたっていうぐらいドキドキした。
抱きついたときに感じたのは、髪からふわりと漂ってくる女の子の匂いと、少女の柔らかな肌、押し当てられる胸の感触。
一年前に抱き心地のいい抱き枕だとか言っていた邪気の無かった俺は、どこかへ吹き飛んでしまっていた。
今のリオに対してそんな見方は、まったく不可能だ。
リオの抱きつき方にも、これは恋人のハグなのでは? と思うような艶めかしさを感じてしまってとてもいけない気持ちになったのだが、そんな俺の内心はリオにはどうにか気付かれずに済んだみたいだ……と思う、多分。
──そして、そんなことがあった、三日後。
出来上がっているであろう勇者カードを受け取るため、俺たちは再び、勇者ギルドへと向かったのだった。




