第137話
船が『魔の海域』に突入してから、しばらくは何事もなかった。
順調に航海が進んでいく。
その様子にマリーナ船長は、「ほらな。やっぱりあたいの言ったとおりだろ?」と船員たちに向かって誇らしげに胸を張っていたのだが──
「あ、姐御、ちょっと! あの影、なんすかね……!?」
船の見張り台で見張りをしていた船員が、マリーナを呼ぶ。
「あぁん? あの影って、どの影さ」
マリーナはひょいひょいと見張り台まで上っていくと、見張りの船員から望遠鏡をふんだくるように奪って、それをのぞき込んだ。
そして、数秒ほど望遠鏡を凝視してから、マリーナは慌てて叫ぶ。
「野郎ども、緊急回頭だ! 正面の海中から、何かでかいのが猛烈なスピードで近付いてきてる! ギャンブルはあたいの負けだ! あたいのことは煮るなり焼くなり好きにしていいが、それも生き延びられたらの話だ! 急げ! あんなのに捕まったら、船なんざぺしゃんこだよ!」
『へいっ、姐御!』
マリーナの掛け声で、船員たちが慌ただしく甲板上を駆けずり回りはじめた。
そして海賊船はやがて、回頭を始める。
ギギギッと音を立てて、船が進行方向右側へと、徐々に向きを変えていく。
だがその動きの緩慢さは、海中を迫りくる巨大な何かの速度と比べて、あまりにも足りていない。
船員の力量がどうとかではなく、船という構造物そのものの限界がある。
「くそっ、このままじゃ……! あたいのツキにも、ずいぶんとヤキが回ったもんだね……!」
マリーナは見張り台の上で、苛立たしげに手指の爪を噛む。
いまさら回頭したところでおそらく逃げきれないということは、船長である彼女が一番よく分かっているという様子だった。
だが俺は、そんなマリーナに向かってこう言ってやる。
「いや、そうでもないさ、マリーナ船長。キミの運は、まだまだ太い」
「ブレットさん、何言って……! だってこのままじゃ追い付かれちまうだろ!? 何かほかに逃げる手立てがあるってんなら──」
「逃げる手立てはないが、あれを倒せるだけの戦力ならある。──リオ、イリス、メイファ、行くぞ!」
「「「はいっ! ──ガードクローク・ドレスアップ!」」」
教え子たちの口から、合言葉が紡がれる。
三人の首飾りがまばゆく光り輝き、少女たちの全身を光が包み込んだ。
光がやんだあとには、アイドル衣装型の防具に身を包んだ、可憐な少女勇者たちの姿があった。
『おおーっ!』
船員たちから、感嘆の声があがる。
近くにいたアーニャも、「す、すごい……」とつぶやき驚いていた。
一方で、海中の巨大な影は、いよいよ間近までやってきた。
それはイリスの弓矢が届くか届かないかというぐらいの距離で、ずもももっと海水を押し上げ──
──ザバァァァァッ!
大雨のような水しぶきとともに、巨大モンスターが姿を現した。
それはとんでもない大きさのタコだ。
海上に姿を現した本体部分のサイズ感は、三階建ての住居ほどもあるだろうか。
巨大さで言えば、海神様──ドラゴンタートルともいい勝負かもしれない。
どうやら『海の悪魔』とやらは、このジャイアントオクトパスのことだったらしい。
より高ランクのモンスターであるクラーケンだとかなり面倒だったが、こっちならまあ。
とは言え、油断しすぎると厄介なことにもなりかねない相手だ。
「リオ、イリス、メイファ、あいつは船に近付いてくる前に仕留めるぞ。あれの触手が船に届くところまできたら、この船が壊されかねない。──イリスはまず、リオ、メイファの順番で【水面歩行】を頼む」
「かしこまりました、先生! ──いくよリオ、【水面歩行】!」
俺の指示を受けて、イリスがリオに補助魔法をかける。
今のところこの魔法を使えるのは、俺を除けば、水属性魔法が得意なイリスだけだ。
イリスが放った魔法の輝きが、リオの体へと浸透していく。
だがそれを受けたリオは、俺が予想もしていなかったことを言い始めた。
「サンキュー、イリス。じゃあ兄ちゃん、オレ先に行ってるね」
「は……? お、おいちょっと待てリオ。すぐに俺も行くから──」
「オレ一人でも大丈夫だって。あいつ図体はデカいけど、たいしたプレッシャーじゃないし。──とぅっ」
アイドル衣装姿のリオは、甲板の上から海に向かってジャンプする。
そして波で荒れ狂う水面に、すたっと着地した。
イリスが使った【水面歩行】の魔法は、文字通り、水の上を歩けるようになる魔法だ。
だが──
「おわっ、ととっ……! あ、あぶなっ……! 波って結構キッツイのな」
リオは着地した水面で、バランスを崩しそうになる。
どうにかすぐに持ちなおしたようだが。
水の上を歩けるといっても、海の波の上では、大地震がきている最中の大地に立っているのと同じ状態のはずだ。
それでもすぐに持ちなおすのは、リオの卓越したバランス感覚の賜物ではあるが。
「いいか、ちょっと待ってろよリオ。いま俺も行くから──【水面歩行】!」
俺は自前で同じ魔法を使いつつ、リオを追いかけようとする。
だがリオは──
「やーだよ♪ 兄ちゃん、オレと競争な。どっちがあいつにたくさんダメージを与えられるかでさ。オレが勝ったら、兄ちゃんもオレの実力を認めてくれるよな?」
そう言ってリオは、荒波の上をうまいことバランスをとりながら駆けていってしまった。
「お、おい待てって、リオ! ……ったく、あいつ」
「ちょっとリオ、何やってるのよ! ──す、すみません、先生! リオのバカ! 先生に迷惑をかけて、もぉーっ、信じられない!」
「イリスが謝ることじゃないって。──でもリオのやつには、あとでたっぷり灸を据えてやる必要があるな。イリス、メイファ、援護は頼んだ。俺も行ってくる」
「はい、先生」
「……行ってらっしゃーい」
そんなわけで俺も、甲板上から大きくジャンプして、海の上へと着地する。
そしてすぐさま、リオのあとを追いかけた。
だがリオはというと、俺のだいぶ前方で、すでにジャイアントオクトパスと交戦する距離まで近付いていた。
リオがさらに接近していくと、巨大触手──それで何度か鞭打てば、船や住居をもたやすく破壊できるような代物──が次々とリオに向かって襲い掛かる。
「チッ……! 足場がふらつくせいで、わりとよけるの難しいな……!」
リオはそう言いながらも、一撃、二撃、三撃と、迫りくる巨大触手の攻撃を回避していく。
縦に振り下ろすような攻撃を横手に跳んで身をかわしたり、横に薙ぎ払うような一撃をジャンプしてよけたりとかなり忙しそうな動きをしながら、それでもジャイアントオクトパスの本体に向かって近付いていく。
無論それは並みの勇者にできる芸当ではなく、リオの驚異的な敏捷性や反射神経、運動能力があって初めて成しえる技だ。
だがその様子は、見ていて少し危なっかしい。
功を焦って勇み足を踏む、新人勇者のそれに似ている。
「リオ、無理はするな! 今行くから、俺と協力して──」
「だ、大丈夫! このぐらいなら、オレ一人でも多分やれ──って、うっそぉっ!?」
──ブシャアアアアアッ!
巨大触手の連続攻撃に気を取られていたリオに向かって、ジャイアントオクトパス本体の口から、真っ黒い大量の墨が吐き出された。
リオは慌ててそれを回避しようとしたが、間に合わない。
横っ飛びに跳んだものの一瞬遅く、広範囲に噴射された墨を全身にもろに受けてしまった。
「わぷっ……! くそっ、なんだよこれ……! うわわわっ……!」
跳躍中にねっとりとした墨を全身に浴びてしまい、ごろごろと水面上を転がったリオは、そこで胴体を一本の巨大触手に巻きつかれて、宙に持ち上げられてしまう。
……あーあ、だから言わんこっちゃない。
しょうがないから俺は、捕まったリオを助けに行くことにした。




