第108話
狼人間がのしのしと、ドラゴンの前へと歩み出る。
それを見たドラゴンが、少し意外そうな様子で目を開いてから、口を開く。
『やあ、人間と同じ小さき者よ。人間と狼人間が一緒にいるのも初めて見たけど……キミは何をして、僕を楽しませてくれるのかな?』
狼人間──ウルは、ドラゴンの声を浴びただけでも小さく震えていたが、それでもどうにか踏みとどまり、こう答える。
『歌と踊りっす。……技術が未熟だったら、食い殺されたりするっすか?』
『いやぁ、そんなことはしないよ。僕はそういうのには寛容なんだ。たとえ未熟でも、僕を楽しませようとしてくれたなら、そのチャレンジスピリッツは買うよ』
それを聞いたウルは、ホッと胸に手を当てる。
次いで、決意を秘めた眼差しで狼人間は言った。
『じゃあ、始めるっす』
そしてウルは、獣化を解いた。
狼人間の巨体──それでもドラゴンと比べると子供のようなサイズだが──が、しゅるしゅると縮んでいって、獣毛が失われ、人間の少女の裸身が現れる。
そうして姿を変えたウルは、「あっ」と叫んで、慌ててリオのほうへと振り返った。
「ふ、服、忘れてたっす! リオちゃん、うちの服……!」
その様子を見て、ドラゴンが愉快そうに笑い転げる。
あのドラゴン、意外と笑いの沸点低いな……。
一方では、ウルから服を預かっていたリオが、裸の少女に向かって衣服を投げ渡す。
「ウル、お前なぁ……。もうちょっと慎みってものを持てっての」
「ち、違うっす! 今のは本当に忘れてただけっす!」
ウルは自分の衣服を受け取ると、慌ててそれを身につけていく。
その様子を見ていたイリスが、はたと気付いて、慌てて俺の視界を遮ってきた。
「せ、先生は、後ろを向いていてください!」
「あ……すまん、抜けてた」
なんかこう、ドラゴンの前に裸身の少女とか、普通に違和感のない風景だったんで、ついそのまま見惚れてしまっていた。
俺は後ろを向いて、ウルのほうを見ないようにする。
そんな俺の横にメイファが寄ってきて、俺の横っ腹に軽く肘を入れてきた。
「……お兄さん、浮気はダメ。……裸が見たければ、ボクに言ってくれればいい。いつでも脱いで、見せてあげる」
「あのなメイファ、いつも言っているが、大人に向かってそういうおちょくり方をするのはやめなさい」
「……ボクもいつも言っているけど、お兄さんにしかやらないし、問題ない。……それともロリコンのお兄さんでも、ボクの子供体型では、不満……?」
メイファは首を傾げ、少し不安そうな上目遣いでそんなことを聞いてくる。
ぐぅ……。
こいつ本当、どうしてやろうか。
いずれ本当に大人の怖さを教えてやろうか、などと一瞬だけ脳裏に浮かんでしまい、俺は慌てて頭を振る。
いかんいかん、メイファのペースに嵌まっているぞ。
「ノーコメントだ。それよりウルが服を着終わったら教えてくれ」
「……ふぅん。……いいよ、お兄さん。もうウルは、服を着た」
やれやれ。
俺はあらためて、ドラゴンとウルのいる方を見た。
服を身につけたウルは、ドラゴンの前で胸に手をあて、大きく深呼吸をしていた。
狼人間の姿でも、ドラゴンの威圧に震えていたウルだ。
人間の姿では、なお心許なかろう。
しかしそんなウルも、やがて「よし」と言って、強い意志の灯った瞳でドラゴンのほうを見すえる。
そして、右手を自分の胸にあて、左手を前に差し出して、歌い始めた。
──ひとりぼっちで立ち尽くす 雨の中 傘もささずに
──周りのみんな 楽しそうに笑っている
──ただ僕だけを この時間に 置き去りにして
ウルの声は、普段の声色──どこか三下っぽい喋り方からは想像がつかないような、綺麗で透き通ったものだった。
そして、歌が巧い。
俺にはプロの水準は分からないが、素人の耳ではプロの歌手と遜色がないようにも聞こえる。
──いつかきっと いいこともあるさなんて
──今がつらくない人たちが 無邪気に言う
──でもそんなとき 強引に差し出された手は
──温かくて 泣きたくなって 僕は逃げ出した
──本当に僕が望むものは 本当は僕の近くにあった
──だけど僕は臆病で その手をつかめなかった
──だってしょうがないだろう 過去の檻に 囚われた心
──身勝手になんて なれやしないから
ウルは右に歩き、左に歩き、観客側──ドラゴンのほうへとパフォーマンスを見せる。
それは舞台アイドルを思わせる歌であり、パフォーマンス。
振り付けを交えて歌い、やがて緩やかに踊り始める。
これらもまた、素人目にはプロのそれと変わらなく見える、洗練された動き。
──世界はとっても不公平で
──幸せはいつもすぐそこにある
──かもしれない ないかもしれない
──だからせめて僕は つかみとる
──現れた 幸せのチャンス
──逃がしちゃダメだ 図々しくなーれ!
歌と踊りがアップテンポになり、佳境に入ったのが分かる。
それにしても、何度も何度も練習してきたのでなければ、こんな歌も踊りもできるはずがないと容易く想像できる洗練ぶりだ。
この日のために──きっといつか来るかもしれないこのような日のために、ずっと一人で練習を重ねてきたのだろう。
──不条理な世界 そりゃそうだ
──世界はいつでも不条理だ
──弱肉強食 狼と羊
──どうして僕らだけ 違うと思うの
──焼肉定食 お肉食べたい
──羊のお肉も おいしいぞ!
そして、フィニッシュ。
弾けるような笑顔でジャンプして、キラキラと輝く汗を飛び散らせた。
そうして歌い、踊り切ったウルは、はぁはぁと弾む息をどうにか整えながら、ドラゴンに向かってぺこりと頭を下げる。
「今日は未熟なうちの舞台を見てくれて、ありがとうございましたっす! 初めて誰かの前で歌えて、嬉しかったっす!」
一方、それを見ていたドラゴンはというと──
大層ご満悦のようで、両前肢の鉤爪をかっちんかっちんと打ち鳴らしていた。
『ブラボー! ブラーボー! いやぁ、素晴らしい! 最高だ! ……でもね、一つだけいいかな?』
「は、はいっす!」
ウルがびくっと震えあがる。
何をダメ出しされるのかと怯えた様子。
だがドラゴンは、そんなウルに対して、陽気に言う。
『自分で自分の技を未熟だとか言って、謙遜をするのはやめたほうがいいよ。それを評価するのは芸を見る側だ。芸を見せる側が言うことじゃない。キミの歌と踊りを、僕は素晴らしいと思ったんだ。その僕の気持ちに水を挿さないでほしいかな。──ま、これも見る側のわがままかもしれないけど』
「す、すみませんっす! おっしゃる通りっす! 以後気を付けるっす!」
ウルはドラゴンに向かって、ぺこぺこと頭を下げていた。
ドラゴンはその様子を見て、ハハハと笑う。
それからドラゴンは『ちょっと待っていてよ』と言って、今いる大広間のさらに奥にある洞窟へと消えていった。
少し待っていると、やがてドラゴンが戻ってくる。
その右前肢の鉤爪には、何やらキラキラと輝くものを持っていた。
ドラゴンがそれをウルの前に置く。
それはちょっとした財宝だった。
首飾りや腕輪、額冠など。
いずれも金銀宝石で装飾されていて、街で売ればかなりの金額になりそうな代物だ。
ドラゴンは言う。
『期待していた以上に良いものを見せてもらったお礼だよ、持っていって。もちろん──ゲッコウセキだっけ? それの採掘も許可するよ。好きなだけ持っていっていい。この財宝だって好きに使ってくれて構わないよ』
だがドラゴンの財宝を前にしたウルは、大慌てだ。
「えぇえええっ! そそそ、そんな! こんなにもらえないっす! うちなんて全然まだまだで、こんなお礼だなんて、とてもとても……!」
『ほーら、また謙遜。僕の評価と好意を受け取らない気かい?』
「え、えぇええっ!? あわわわわっ……うち、こんなすごい宝物なんて……」
ウルがふらふらと眩んで、ぺたりと座り込んでしまう。
そしてウルは、すがるように俺の方を見てきた。
俺はそれに、うなずいてやる。
「せっかくの好意だ。受け取るのが礼儀だよ、ウル」
「ふぇええええっ……わ、分かったっす……」
そう言ってウルは、おっかなびっくり怯えながらも、財宝を手にしたのだった。
それから俺たちは、ドラゴンに別れの挨拶をする。
このとき、最後にウルが振り返り、ドラゴンに向かっておそるおそる聞いた。
「あ、あの……うち、また……ここに遊びに来てもいいっすか……?」
それに対してドラゴンは、愉快そうに応える。
『ああ、もちろんだよ。いつでも歓迎する。また新しい歌と踊りを見せてくれたら最高だ』
「あ、ありがとうございます! うち、もっともっと頑張るっす!」
そうして今度こそ、ドラゴンに向かって手を振って、俺たちは彼の巣穴をあとにしたのだった。




