第101話
パン屋の店内に入ると、芳醇なパンの香りが、さらに濃厚に鼻孔をくすぐってきた。
俺を店内に連れ込んだパン屋の親方は、カウンターの向こうで接客をしていたエプロン姿の女性に声をかける。
「おう、お客さんだ。デリシャスジャンボサンドを五つ包んでくれ」
エプロン姿の女性は、店内にいたほかの客に対して、笑顔でテキパキと接客をしていたのだが──
親方の姿を見て、その女性の笑顔が、一瞬にして修羅の形相へと変わった。
「ちょっとあんた! こんな昼時にどこほっつき歩いてたのよ! 今日はウルちゃんもいないんだから、忙しいの分かってんでしょ! さっさと中に入って手伝いな!」
「おー、怖っ。分かった、今行くよ。──すまないな兄さん、今包むからちょっと待っててくれ」
そう言って親方は店の奥に入っていくと、しばらくしてエプロンや帽子などを身につけた店員スタイルになって、店の中へと戻ってきた。
そして、できたての巨大サンドイッチを五つ包んで持ってきて、俺に渡してくれる。
俺は銀貨二枚を支払って、商品のサンドイッチを受け取った。
忙しそうだなとは思ったが、俺は気になっていたことを一つだけ、親方に確認する。
「あの、不躾な話なんですが──ウルって、この店の従業員たちと、あまりうまくやれてないんですか?」
親方とその奥さんらしきエプロン姿の女性以外にも、店内には別に二人の従業員がいて、彼らはパン焼き場と販売スペースとをせわしなく往復していた。
俺の質問を聞くと、親方は少し難しそうな顔をする。
そしてこう問い返してきた。
「ウル坊がそう言ってたのかい?」
「……ええ。少しニュアンスは違いましたけど、そんなようなことを」
すると親方はうーんと唸って腕を組み、眉間にしわを寄せて、こう言ってきた。
「いやね、ウル坊は真面目でいいやつだし、ウル坊のことが嫌いなやつはうちの従業員にはいないと思うがね。俺も嫁も、ウル坊のことは自分の娘みたいなもんだと思ってかわいがっているぐらいだ。ただなぁ……ウル坊のほうが、何か大事なことを隠しているようでな。なかなか打ち解けてくれねぇのよ」
「ウルのほうが……?」
「ああ。本人が言いたくないものを無理に言わせるのもよくねぇと思って、あいつのほうから言い出してくれるまで待っているんだが、なかなかなぁ。──兄さん、何か知らないか?」
「あー、いや……」
ひとつ、見事に心当たりがある。
つまりウルは、自分が狼人間であることを、店の人たちに隠しているのだろう。
が、確かにこれは、ウル自身が言い出していないなら、俺の口から言うべきことでもない。
「……すみません。心当たりはあるんですが」
「なるほど、言えねぇ内容ってわけだな。まぁしょうがねぇやな。──なぁ兄さん、できたらでいいんだが、ウル坊が何かに悩んでいたら、支えてやってくれねぇか。俺たちじゃあ、あの娘の悩みには寄り添ってやれねぇらしい」
「……分かりました。俺も自分の仕事もありますし、どこまでやれるかは分かりませんが、出来る限りやってみます」
「そうか。ありがとうよ、兄さん」
親方とそんなやり取りをして、俺は店を出た。
店の外では三人の教え子と、ウルが待っていた。
俺は購入したデリシャスジャンボサンドを、ひとり一個ずつ手渡していく。
「でかっ! でもうまそう!」
受け取ったリオが驚くぐらい、パンはネーミングの通りにジャンボサイズだった。
女子だと食べきれるかどうか、あやしいぐらいのサイズだ。
なおこんがりと焼かれたパンの間には、チキンと卵フィリングと野菜とソースがぎっしり詰まっていて、確かにうまそうだった。
これで一個あたり銅貨四枚は、お値打ち価格と言えよう。
俺たちは、ウルに近くの公園を教えてもらってそこに向かうと、ぽかぽか陽気の下でベンチに座り、みんなでパンにかぶりついた。
「うまい!」
「おいしい……!」
「……これは、いける」
リオ、イリス、メイファの三人が、夢中になってパンに齧りつく。
それを見たウルは、我が事のように誇らしげにしていた。
俺もまたパンを頬張りながら、そんなウルに声をかける。
「ウルは職場では、自分が狼人間だってこと、言ってないんだな」
するとウルは、目を丸くして俺を見てきた。
そして次に、たははと笑って、こう返してくる。
「……そうっす。だって、言えないっすよ。みんなバケモノと一緒になんて働けないじゃないっすか。だからうちは、職場のみんなに嘘をついてるっす。みんなと同じ普通の人間だってことになってるっす」
そう自嘲気味に言いながら、ウルは自身もパンにかぶりつく。
それを横で聞いていたリオが、気に入らないという様子で口を挟んできた。
「なぁウル、その自分のこと『バケモノ』っていうの、やめようぜ? 満月の夜以外は普通なんだろ? その満月の夜だって、子供のとき以外は誰にも迷惑かけてないんだったら、もうそれでいいじゃん」
対するウルは、もぐもぐと食べていたパンをごくりと呑み込んで、リオのほうを見ずに答える。
「それはそうなんすけどね……。なかなかそんなに割り切れないっすよ。それに、今まではどうにかうまくやってこれたけど、またいつ何かの間違いで人を襲っちまうかも分かんないっす。だからやっぱり、うちは自分のこと、バケモノだって思ってないとダメだと思うっす」
「そんなのさぁ……んぁああああっ! もう、納得いかねぇ!」
リオはむしゃくしゃした様子で言うと、怒りをぶつけるようにパンに噛みついて、むしゃむしゃと食べていく。
俺はそれを横目に苦笑しつつ、もう一つウルに確認する。
「じゃあ、職場の人たちと仲良くしてないってのも、それが理由なんだな」
「そういうことっす。あのとき──子供のときみたいに、仲良くなった誰かを、うちのこの手で八つ裂きにしちまうのが怖いんすよ。……だからもう、うちは誰とも仲良くしないようにしてるっす」
「うーんと……じゃあ私たちとは、どうして?」
今度はイリスが話に混ざってきた。
ウルは困ったように、ぽりぽりと首筋を掻く。
「それは……いろいろっす。初対面でぐいぐい来られてなりゆきだったとか、どうせ狼人間だって知られちまったんならとか……それに何より、みんなが勇者で強いからっすかね。うちが何かの間違いで暴走しても、みんなならうちを返り討ちにしてくれそうっすから。──あ、でも、みんなの迷惑だったら、今すぐにでも立ち去るっす。そのときには遠慮なく言ってほしいっす」
「……ウルは、人の迷惑とかを、気にしすぎ。……ボクはいつも、全力で他人に寄りかかって生きてる。……ウルはボクのことを、少し見習うといい」
メイファのその言葉には、ウルは困ったようにあははと笑っただけだった。
メイファの言うことも一理はあるが、かと言ってメイファの真似をするのもいかがなものかと先生は思うぞ。
……が、いずれにせよ、やはりネックになっているのは獣化の呪いなんだよな。
それさえどうにかできれば──
そうしてみんなで昼食を終えたら、俺たちは午後もまた、図書館に篭って狼人間について調べ始めた。
まあ実際のところ、このスジでの問題解決は望み薄だろうなと俺は思っていた。
そう簡単に獣化の呪いがコントロールできるなら、今頃は人間社会に、もっと大っぴらに狼人間が暮らしていてもおかしくはないわけで。
そうなっていないということは、解決策なんて元より存在しないからではないか──
そんな疑念は、最初から持ってはいた。
だが、まずは基本の手段から当たって、それがダメなら次の手を考えるというのが物事の筋道だ。
基本を蔑ろにしていたら実は一番簡単なところに答えがあった、なんてことは往々にしてあり得る。
ダメで元々。
そう思っていたから、俺自身も半ばあきらめ混じりの作業だったのだが──
そのとき。
「……見つけた」
一冊の本に目を通していたメイファが、そう声を上げたのである。




