323 グレーテルは激怒した
話を聞かされたグレーテルは暫しの間、目を見開いたまま硬直した。目に見えて瞳孔が開き、瞳が黒くなる様を直視してしまったカイルとマルコの背中に冷たいものが走った。
今しがた聞かされた情報を噛み砕き、飲みこみ、理解に至った時点で彼女の瞳孔は再び焦点を合わせた。
そして突如として、その小さな拳から繰り出されているとは思えないほどの打撃が、ふたりの鳩尾に襲い掛かった。
鳩尾に叩き込んだ理由は、単にふたりの頭に拳骨を振り下ろすには、彼女の背丈がまるで足りないためだ。かといって、顔面を殴るのは後々目立つことになるため憚られるし、腹部に叩き込んで吐かれても困るという、彼女の僅かばかりの配慮だ。
「なーにをやってんのあんたたちはぁっ!」
息を詰まらせ蹲るふたりに、グレーテルは怒鳴り付けた。その声の衝撃で、かろうじて壁にぶら下がっていた融けかけた時計が盛大な音を立てて落っこちた。
ふたりは胸を押さえ、なかば悶絶しながらも言い訳を言い募る。曰く、自分たちは云われたことをしていただけだと。だがそれは余計に彼女の怒りに油を注いだ。
「知るかぁっ! いつもいつも私たちの成果を搾取してるだけの無能だろうがアレは! つーか、止めろよそんな暴挙!」
グレーテルは容赦なく目の前のマルコの股間を蹴り上げた。
声もなく崩れ落ちるマルコの姿に、カイルは真っ青になった。
それはマルコの様を見た為だけではない。公家に対する暴言に血の気が引いたのだ。
「あんたたち、私がこの二日、どんな目に遭ってたか知らないでしょ。こっちはまったく生きた心地がしなかったんだよ! お前らが原因だったのかよ! ふっざけんなクソが!」
今度はカイルの股間に蹴りが炸裂した。
かくして、カイルもその場に崩れ落ちた。
「よっし、そのまま聞け! 耳をかっぽじってよく聞きやがれ! どんだけこの二日間、私が理不尽な酷い目に遭ったのかを。まったくもって生きた心地がしなかったんだ、こっちは!」
焼け焦げ煤けた研究室の隅に積み上げられたガラクタの山から、グレーテルは鉄パイプを引き抜くとブンブンと振り回した。
鉄パイプを引き抜かれ、バランスを失ったガラクタの山がガラガラと崩れていくが、彼女は一向に気にしていない。既に彼女は、こんな研究室なんか辞めてやると決意していた。
それは二日前のこと。八月十七日の夕刻の出来事だ。
ボロボロになった研究室をようやく片付け終え、壊れガラクタと成り果てた機材の修復を寂しく行っていたグレーテルは、その突然の来訪者に狼狽えていた。
完全武装した一団がノックもなくどやどやと研究室へと雪崩込み、部屋の真ん中で座り込み作業をしている彼女を取り囲んだのだ。
踏み込んできたのは水神教の聖堂騎士団。即ち【母神アレカンドラと属する六神に使えし軍犬隊】の面々だ。
グレーテルは訳も分からぬまま両腕を掴まれ、そのまま引き摺られるように教会へと連行された。
当然その姿は大学の面々に目撃され、二日後である今朝方大学に荷物を回収するために戻った時には、遠巻きにひそひそとあることないこと噂されていた。それはカイルとマルコのふたりが戻って来る僅か十数分ほど前のことだ。
教会へと連行されたグレーテルは、狭い部屋へと押し込まれた。あるのは中央に置かれたテーブルと椅子ふたつ。そして部屋の隅、壁にぴったりとくっつけるように置かれているテーブルと椅子だけ。
グレーテルはいまさらながらに自分の置かれている状況を察し、口元を引き攣らせた。
教会。聖堂騎士団の動く案件。即ち、背信者。それもなにかしらの問題行動、いわゆるテロ行為を行ったと疑われているということだ。
テロ行為と思われるようなことであれば、ひとつだけ心当たりはある。昨年、研究室で教授がやらかした事故だ。研究室が壊滅し、他の研究室や大学施設にも多大な被害をもたらした機械人形の起動実験だ。機械人形は暴走し、暴れ回ったのである。
しかもそれは、起動実験用に小型に作られた試作試験機。本命である機械人形は、その大きさゆえに郊外にある教授の別邸で組み上げられている。
この研究が世界に仇なすと受け取られたのだろうか?
でもなんでいまごろ?
グレーテルは心臓を鷲掴みにされたような気分になりながらも、大人しく中央のテーブルについた。
ややあって現れたのは、騎士団の鎧を身に着けた人物ふたり。そして紫色の法衣姿の中年男性。審神教の神官、即ち虚偽判定を行える祝福を審判神より得ている選ばれた神官。そして最後に入ってきた人物は――
き、きょうこうげいか!?
声も出ず、グレーテルはくちをぱくぱくとさせることしかできなかった。
その後の取り調べのことを、グレーテルはまったく覚えていない。
もっともこれは、極度の緊張状態にあったグレーテルのせいばかりではない。
水神教教皇ノアベルトに授けられた加護に因るものだ。彼の前では、いかな隠し事もできなくなるのである。強力な加護ではあるが、それだけに制限もまたいろいろと掛けられた加護である。
実際、彼と対峙したキッカは、なんの影響もなく淡々と暴言を吐いていたのだから。
この彼女の激怒に、水神教教会は戦々恐々としていたのである。これまでに彼女が事件に遭った後の結果を、彼らは熟知していたのだ。怖れるなという方が難しいというものだろう。
テスカセベルム国王に掛けられた呪い。レブロン男爵領領都バッソルーナの壊滅。彼女を付け狙った暗殺者の末路。月神教内の大粛清。
水神教では半信半疑ではあるが、月神教は彼女を八番目の神ではないかという見解も出しているくらいであるのだ。
そう。彼女は突然、水神教教会本部へと現れたのだ。黒い鎧に抱えられた姿で。そして何が起こり、何を成して来たのかを話し、最後に、正しい行動を望むと教皇に伝えて姿を消したのだ。
そう、彼女はただ希望を水神教教会に述べた。ただ、希望だけを。
だが、教皇をはじめ、その言葉をきいた教会の重鎮はそうとは受け取らなかった。
これは、脅迫と同等の言葉であると受け取ったのだ。
事実、彼女は教会が公家に対しなんのアプローチもしないのならば、暗殺して回る気であったのだから、あながち間違いではない。なにせ、そのために粛清者【ゴースト】なる存在まで作り上げていたくらいだ。
さて、捕らえられ、その日と翌日も丸一日ずっと聴取され、今朝方早く解放されたグレーテルは疲れ果てた調子で寮へと帰った。そして「もう、こんなところ辞めてやる」と決意して、今日、最後の登校のつもりで大学へとやって来たのだ。
すでに卒業資格は得ているため、事務局に届けさえ出せば、いつでも卒業証を得られるのである。
そして届けを出す前に、研究室に残してある私物をまとめていたところ、呑気な顔をしてカイルとマルコのふたりが戻って来たのだ。彼らふたりは、ここで作業をしているであろうグレーテルに、今後、厄介な事態になり兼ねないと事情説明のために来たのである。
問題は彼らが教授の別邸の後片付けをしてから来たために、彼女への警告がまったくもって間に合わなかったということだが。
ひとしきり語り、ふたりを折檻したことで落ち着いたグレーテルは、いまだに股間を押さえているふたりの首根っこ掴んで無理矢理立ち上がらせた。
「ま、待て、待って。ちゃんと立つから」
「どこへ行くんだよ!?」
引き摺り倒されそうになり、ふたりは慌てた。いったい、小柄な彼女のどこにこんなパワーがあるのか、ふたりにはさっぱりだ。
「そんなもの、教会に決まってるでしょ。私の話なんかより、当事者の話の方が実になるのは確実じゃない。神子様に対し、あんたたちがなにをやらかしたのか、一字一句間違いない様に話してくることね」
「嘘だろ!?」
「やめてくれよ!」
「やめるかぁっ! お前らなにやらかしたかきちんと云ってこい!」
「誓ってなにもしていない!」
「彼女の足を斬り落としたのはスヴェンさんだよ!」
「あ”?」
グレーテルの足が止まった。
「足を斬り落とした? 神子様の?」
「さっきから神子様って云ってるけど……」
「工房主……単なる経営者じゃなかったのか? いや、あの魔法とかをみると、ただの経営者どころじゃないのは、もうわかってるけど」
「それすらも分かってなかったのかお前らはぁっ!!」
遂に怒り心頭に発したグレーテルは、ダンダンと地団太を踏み鳴らして怒りを散らした。さすがに手にした鉄パイプでふたりを殴り倒すことはしないだけの理性は残っていた。
だが足を踏み鳴らし、鉄パイプを手にしたまま髪を掻き毟る彼女に、カイルとマルコは震え上がった。
「おまえらが傷つけ、余りな無礼を働いたのは教皇猊下よりも上位の貴いお方だ! あの方に無礼を働いて、町ひとつ消えたのを知らないのかお前らは!」
ぶおん! と風切り音を立ててグレーテルが鉄パイプを振った。
ふたりは首を竦めて慄いた。
「これだから不信心者は。教会に通っていれば、その手の話はすぐに聞けるだろうがよ。前に教会にいったのはいつだ? 去年か? それとも十年前か?」
グレーテルが問うが、ふたりは曖昧に口元を引き攣らせた笑みを浮かべるだけだ。実際、このふたりは学院に通い始めてから今日に至るまで、教会に足を運んだことは一切ない。年末の祭祀にも参加していないのだ。即ち、グレーテルが云うように、十年以上教会からは遠ざかっている。
「神様は厳然とましまして、我らを見守っておられるというのに、お前たちはそれに対し欠片も感謝と敬意をもたんというのか! この人でなしめ! いや、人でなしだからこそ神子様を見捨てたのか! 女の敵だてめぇら!」
グレーテルは散々な云いようではあるが、それに対しカイルとマルコは一切反論することはできない。なにしろ、グレーテルがいっていることは事実であるのだから。
彼らふたりはキッカを見捨て、ただ眺め見ることを選択したのだ。
故にグレーテルは、ふたりが“教授の不興を避けるために、正しい行いをすることを放棄した”と判断したのだ。それだけに彼女は一切の容赦をしない。
実のところ、彼女は神を信奉し、なかば狂信者に足を突っ込んでいる科学の徒という珍しい存在なのだ。曰く、すべての真理は神にある、と云って憚らないほどに。
「さぁ、行くぞ、ふたりとも。教会にて自らの行いの全てを懺悔してこい」
「いや、待て、待ってくれ、行ったら俺たちはどうなる?」
「つか、俺たちは教会にどう思われてるんだ!?」
「怖がってる時点で、あんたたち理解してんでしょ。根性叩き直して貰ってこい! 安心しろ、きっと聖堂騎士団の方々が鍛え直してくれる!」
グレーテルがブンブンと鉄パイプを振り回す。
「それが嫌だってんなら、ここで私が鍛え直してくれる」
ふたりはグレーテルの力を知っている。彼女は重い機材の持ち運びをしょっちゅうしていたことから、ふたりよりも筋力があるのだ。背丈ははるかに小さく、腕も細いというのに。
かくして、ふたりは売られゆく家畜の如く、教会へと連行されたのである。
「このふたりの処遇はお任せを。我らが鍛え直して見せましょう」
「よろしくお願いします。記憶が無くなるくらいにやっちまっても構いませんので。神子様を見捨てたなんて、万死に値します」
「ほぅ。そのお話、詳しくお願いできますか?」
応対していた女性騎士の言葉が冷ややかになるのを聞き、グレーテルはうっすらとした笑みを浮かべた。
「えぇ、もちろん。できましたらその話を参考に、元凶の教授にも徹底した教育を施して欲しいものです」
「はは、残念ながらそれは叶いませんね。彼の御仁に対しては処置無しと我々は匙を投げております。故に、我らの行うことは唯一つとなりましたよ」
その言葉にグレーテルは表情を強張らせていた。
事態は、彼女が思っていたよりも酷い方向に突き進んでいるようだ。
教会は、完全に帝国を敵視する方向に向かっていると、一信者であるグレーテルに宣言したのだ。
これは……帝国から離れた方がいいかなぁ。
一応、自身も関係者に数えられているグレーテルは、身の安全を考え、他国へと避難することを本気で考え始めた。
二時間後。寮に戻ったグレーテルは荷物をまとめていた。卒業届を出し、受理された以上、一週間以内に退寮しなくてはならない。
もともと物に拘ることもなく、本の類は一度読めば頭に入る天才肌の人物だ。そのせいか、自室にあるものは生活をするのにほぼ最低限のものだけという有様だった。
服に関しては、同じデザインの物が数着だけ。
親族は皆、十数年前のダンジョンの魔物溢れによる魔物暴走災害で他界しているため、身軽なものだ。
大事なものと云えば、自身が組み上げた懐中時計くらいなものだ。
そう、彼女は決断したのだ。帝国を離れることを。
あの女性騎士より、今後の教会の帝国への対応を聞いて。
彼女にとってはやや大きめの背負い鞄に全ての荷物を詰め込み、鞄に寝袋を括り付け、出立する準備は出来上がった。問題となるのは行き先だ。
ナナトゥーラへと行き、件のアイザックなる学者がどういう人物であるのか調べてみようか? それともディルガエアと向かい、神子様の姿を遠目からでも拝んでみようか。
時刻は昼過ぎ。帝都を出るには遅すぎる時間というわけでもない。駅馬車に乗れば、安全に旅はできるだろう。
路銀も学業の合間にしていた仕事のおかげで、半年ぐらいなら問題ないだろう。
うん。ナナトゥーラとディルガエア、出発時間の早い方の馬車に乗ろう。
こうして実に適当な方法で行き先を決め、彼女は寮をでたのである。
誤字報告ありがとうございます。




