§175 明晰夢 2/26 (tue)
目を開くと、そこは黒かった。
……って、俺、今、寝たんじゃなかったっけ? ってことはこれは夢か? ……蒼の次は黒かよ。豹柄の服を着た派手なロシアの女の子に、セ・グロークと言われそうだ。
しかしこうやって思考できているという事は、これって、明晰夢ってやつか。体験するのは初めてだな。
明晰夢は、それを夢と自覚してみる夢のことだ。そしてそれをある程度コントロールできるらしい……しかし、ここは一体?
そう考えた瞬間、目の前に白い文字で書かれたサインが浮かんでいた。
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| STAIRS UP |
| TAKE THEM (Y/N) ? |
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「なんだ、これ?」
白文字が浮かんでいるのは、まあ夢だからいいとして、Y/Nってなんだよ。どこにキーボードがあるっていうんだ。
サインを無視して移動しようとしても、移動することはできなかった。どうやらモーダルなダイアログのようだ。
仕方がないので、そのサインに触れようとすると、指し示したNが強調表示された。
「VRの選択っぽいな」
なのに、表記はCUI風だとか、なんというかちぐはぐだな。
俺はそのままNをタップすると、サインが消えて、目の前にレトロなゲームの画面のような空間が広がった。
「ワイヤーフレームかよ!?」
一歩進んでから振り返ると、そこには天井? らしき場所に白い四角が描かれていた。
それは、どう見ても、大昔にPASCALで書かれた、某迷宮探索ゲームの世界のように思えた。とは言え、仮にそうだとしても、概要しか知らないので、どうにもしようがない。
俺は、移動前の場所に引き返すと、今度はおとなしく階段を上った。
準備もせずにうろうろするのは馬鹿のやることだ。もっとも1階上が、安全な場所とは限らないが。
そうして階段を上がった場所は、地上?だった。
目の前には大きな西洋風の城が建っている。どうやらここは、城壁に囲まれた城下町のような場所らしい。
依然として、レトロ感に溢れた、黒い背景と白い線の世界だったが、ともかく、酒場と宿、それに寺院と商店があることだけは分かった。
「しかし、これ、どうすればいいんだ?」
普通に考えれば冒険をするのかもしれないが、どうにも気が進まない。マニュアルも読まずに始めたりしたら、大抵ろくなことにはならないのだ。黎明期のゲームは特に。
まあ、夢なんだから、好きにすればいいのだろうが……
そういや三好のやつは、死にそうになったらディスクを取り出すなんて力説していたが、どう考えてもこの世界の中からディスクが取り出せるはずがない。なんというメタな話だろう。
「三好がいれば詳しそうなんだがなぁ……」
日本人の身だしなみとして、ゲームも人並みにはやったが、何しろ中学へ上がる頃にPS2が発売された世代だ。
新作って意味では、FFは8からだし、バイオは3から。ドラクエは7からだし、ゼルダはムジュラからなのだ。
仕方がないので、俺は頭を掻きながら、Gと書かれた酒場の扉を開けた。
とりあえずそこにいる人の話を聞くのが、この手の世界のセオリーだろう。そのくらいは夢に付き合ってもいいか。
「あれ? 先輩?」
しかしそこにいたのは、意外な人物だった。
「は? 三好? お前何でここに?」
そこには当の三好が、ワイヤーフレームで描かれた椅子に座っていた。
服はと言えば、普通に代々木ダンジョン攻略コスチュームだ。何と言うご都合主義。さすがは俺の夢。
もしも、昔雑誌で見た、アローン・イン・ザ・ダークのエミリー・ハートウッドみたいな三好が座っていたら、さすがにビビるだろう。なにしろポリゴン数は、たったの140前後だ。
「なんでって、先輩が呼んだんじゃないんですか?」
そうなのか? これが夢をコントロールするってことだろうか?
「じゃ、アルスルズもいるわけ?」
「そりゃいますよ」
三好の足元から、カヴァスがひょいと頭を出した。
「ほんとだ……」
31層の花園にアルスルズは存在できなかったから、これがダンジョンの作り出した花園に準じたものって可能性はほぼなくなった。
やはり俺の夢なのだろう。もっとも自宅のベッドの上で知らないうちにダンジョンに連れていかれるなんてことが起こったら、世界は大混乱に陥るだろうが。
まあ、何があってもしょせんは夢だしな、と、何もかも夢のせいにすることにした俺は、彼女に尋ねた。
「で、俺たちはこれからどうすればいいわけ?」
「先輩……それは私が聞きたいんですけど」
俺の脳が作り出した三好は、言ってみれば俺に呼ばれてここに居るわけだ。どうして呼ばれたのか聞きたいのは、確かに彼女の方だろう。
それに、俺の夢であるからには、目の前の三好は、俺の脳が彼女ならこういうだろうと思っているセリフをしゃべっているに過ぎないはずだ。言ってみれば究極の自問自答と言える。
「このゲームみたいなのを攻略すればいいのか?」
「ルールがわかりませんけどね」
「この手のゲームって、大抵ダンジョンの一番深いところにいるボスキャラを退治するのが目的じゃないの?」
「最近のゲームはひねくれてますから」
俺はあたりを見渡すと、手を広げてそれらを指し示した。
「どう見ても最近じゃないだろ」
三好は、人さし指を顔の前で、ちっちっち、と振りながら言った。
「先輩、もしもこれがゲームなら、どうみてもフルダイブ型のVRですよ。未来の技術です!」
ああ、まあ見方によってはそうかもな……ただし使われている技術は紀元前どころか、人類発生時点からすでにあるんだけどな。たぶん。
ともあれ、フルダイブ型のVRでワイヤーフレームの世界を構築するのは、そうとうなもの好きだけだぞ、きっと。
「まあでも、これが本当に先輩の夢なんだとしたら、何もしなくても先輩の目が覚めればすべて解決ですよ」
「そりゃそうだ」
「時間をつぶすには、ちょっと娯楽が少なそうですけど」
三好が、周りを見回してそう言った。
酒場だと言うのに、他に客はいないようだ。俺はワイヤーフレームの椅子にこわごわと腰かけると(だって壊れそうじゃないか)、注文って、どうやってするんだろうと思いながら言った。
「なに。座って寝てりゃ、すぐに目が覚めるだろ」
シチュエーションを知らない人が聞いたら、混乱しそうなセリフだなと思いながら、俺はワイヤーフレームのテーブルの上に頬杖をついた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「いや、冒険しなさいよ!」
酒場の厨房へとつながる扉の裏側で、彼らの様子を窺っていたイザベラは、あまりにやる気のない二人の様子に、思わず突っ込みを入れていた。
ナイトメアは、夢の環境や設定を作り出すことが主体になるスキルだ。
それを作成した後、その夢を操作するためには、イザベラ自身がその夢の中に登場して、能動的に影響を及ぼさなければならなかった。
もっとも、登場するイザベラは人でなくても構わない。なんにでもなれるのが夢のいいところだ。そうして、人の心の襞の奥に隠された、知られたくないことを見つけ出すのだ。
それにしてもあの男はどうなっているのだろう。
人は、夢の中で、いかにもな世界を作り上げてやれば、大抵、いかにもな行動をとるものだ。少なくとも今まではそうだった。
なのに、用意されている環境を完全に無視して、リアルで目が覚めるまで、夢の中で寝てる? まるで胡蝶の夢に繋がりそうな展開だが、もはや意味が分からない。すでに枯れているのだろうか。まだ若そうなのに。
それにしても、なんとか冒険に誘って、ダンジョン内でピンチを迎えさせなければ。
睡眠中の人の脳の活動は、比較的シンプルだ。
この男が、もしもファントムを知っているなら、ダンジョン内でピンチになれば、必ずファントムを作り出すはずだ。そこの三好と言う女が作り出されたように。
自分がファントムになって、彼らに接触するという事も考えたが、なにしろファントムの情報はほぼゼロだ。特に見た目のディテールなど知るべくもなかった。
夢の時間は有限で短い。早くなんとかしなければ。
いつまでも日本の狭いマンションの一室でベッドに横たわっているなんて冗談じゃない。
彼女は意を決して、立ち上がった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
頬杖をついて目を閉じていた俺は、木の扉がきしむ音に目を開いて顔を上げた。
すると、だらだらしていた、俺たちだけの世界に、なんとも場違いな声が響いた。
「いらっしゃいませー」
そこには12歳くらいに見える、エプロン姿の美幼女が立っていた。場違いにもほどがある。
「……君は?」
◇◇◇◇◇◇◇◇
くっ、本当にこの姿で良かったんでしょうね?
デヴィッドのやつが、相手が日本人ならいつもの私のようなタイプは引かれる。小さい女の子なら、すぐに溶け込めるだろうって言うから……詐欺師のくせに、調査が甘いんじゃないの?
◇◇◇◇◇◇◇◇
心なしかひきつった笑顔を張り付けて、首をコテンとかしげる女の子を見て、三好が俺をジト目で睨んできた。
「な、なんだよ、その目は」
「ファンタジー世界に登場する美幼女は、大抵魔王か、そうでなくても最強キャラって相場が決まっています。それが始まりの街で女給をしている? おかしくないですか?」
「そんなことないだろ! たまたま助けた女の子と仲良くなって、以降、妹ポジでレギュラー化するとか、あるだろ?!」
「先輩……そういう趣味が」
ちょっと待て。話を振ったのは三好だろ! 誤解も甚だしいぞ、それ。
「ここは冒険者が集う酒場ですよ? なのに従業員が幼女ってどうなんです。第一児童福祉法違反ですよ。チェンジしてくださいよ。チェンジ」
「いや、そんなこと俺に言われてもなぁ……」
「なに言ってるんですか、先輩。ここって、先輩の夢の中なんですよね? つまり、このキャラを作り出したのも……」
「まてまてまてまて、俺にそんな趣味はないって!」
お母さんを助けて、酒場のウェイトレスとして頑張っている美幼女……いや、さすがにないだろう。
大抵は、ちょっとした雑用を頑張ってるとか、ちゃんと雇ってもらえずに、自分で花を摘んできて売ってるとか、そういう虐げられ健気系が多いよな。
「おにいちゃんと呼ばせて、悦に入っていたりするんじゃないでしょうね」
「んなわけないだろ?!」
それを聞いた幼女が、首を傾げたまま口を開いた。
「おにい……ちゃん?」
「ほら!」
「ち、違う!」
そこの幼女、余計なことをするんじゃない!
「振り返ってみれば、モニカの時も、なんだか怪しかったですよね」
「飛び火した?! え、えん罪だ!」
いかん、冷静に考えれば、このやり取り自体一人遊びのようなものだというのに……なんだかエンカイの時以上にピンチな気がする。
だが、夢の中で、自分に嘘をつくことができるのだろうか? ……って、自分でも意識していないのに、俺にそんな嗜好があったりするわけか?!
◇◇◇◇◇◇◇◇
なにやってんのよ、こいつら。
だけどここで、この町は冒険者の街だから、さっさと冒険に行け、なんて突然に出だしたら怪しいし……
この女の言うことを鑑みるに、子供の姿だと、この場所にいること自体がそぐわないってことみたいね。
しかし、2体目のキャラを作り出すには、エネルギーが足りないかもしれないし……しかたない、この子はフリーズさせて大人を登場させることにしましょう。同時に動かさなければなんとか……
◇◇◇◇◇◇◇◇
「やかましいわね。店先でなにやってんのよ」
そう言いながら、美幼女が出て来た扉から、ボンキュッボンで体の線が露骨に出ている姉さんが、髪をかき上げつつ現れた。
「これですよ、これ! うんうん。やっぱりこういうところに現れる女キャラは、妖艶な美女でなければ!」
三好が満足そうにそう言って頷いた。
「そして、『信頼はできるけれど、信用はできない』って、そういう関係に落ち着くんです」
「だから、お前のそのイメージはどこから来てるんだ?」
「そして、彼女は、黒幕の身近な人間だったりするんですよ!」
三好が、ビシーっと言う書き文字が見るような見事なポーズで、彼女を指さした。
彼女はまるで図星を指されたかのように、顔をひきつらせた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
な、なんでバレてんの?!
まさかこの男が作り出した、夢の中のワイズマンにも鑑定のスキルがあるんじゃないでしょうね?!
いやさすがにそんなバカなことは……
彼女が鑑定を使うとしたら、その男が、彼女が鑑定を使うと思う場面で、かつ、鑑定を使った結果が彼の想定できる範囲の時だけでしょう。
そして、いったん鑑定結果が提示されてしまえば、例えそれが間違っていたとしても、真になるように、世界そのものが変化するに違いないわね。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「うーん、もうちょっと図太さが欲しいですね」
あごに手を当てながら彼女を観察していた三好が、残念そうにそう言った。
「さいですか」
そんなやり取りをしていると、美女が腰に手を当てて悩まし気なラインを作りながら、怒ったように言った。
「あんたら、いいかげんにしてよ。他の客に迷惑でしょ」
俺は、思わず辺りを見回した。
「ほかに客なんか、いない……よな?」
俺は不安になって、最後は三好に問いかけた。
もしかして、俺たちから見えないだけで、実はこの場所にはたくさんの冒険者たちがいたりするんじゃないかと思ったのだ。
「少なくとも、私には見えませんね」
「だよなぁ」
「NPCっぽい会話としては、ありですけどね」
「なるほど」
「ここは酒場なんだから、さっさとパーティを組んでダンジョン攻略に出かけてほしいんだけど」
流石NPC。言葉だけを聞いていると、何を言っているのかわからない。
酒場は酒を飲んだり食事をする場所だろ?
「酒場って、酒を飲む場所じゃないのか?」
「ウィズだと、パーティを組む場所でしたね。あとステータスを見る場所」
「そういうものなのか。飲食は?」
「できません」
「酒場の意味ないな」
「まあまあ、先輩。人が集まる場所くらいの意味ですよ」
◇◇◇◇◇◇◇◇
なんて、人の話を聞かない連中なの!
もうっ! ステージ1の時間が迫ってるっていうのに!
◇◇◇◇◇◇◇◇
「あなたたち、ずいぶんと楽観してるけど、ここは時間の流れが違うって考えたことはないわけ?」
女性は、いら立ちを露わにしながらそんなことを言い出した。
「時間の流れが違う?」
「夢の中の世界は、現実世界よりもずっと時間が流れるのが早いって設定、多いですよ」
「設定ってなんだよ」
どうせ午後にはグラスに起こされるはずだが、それまでにこの中で1年が経過するなんてことになったら、話が違う。
何もしないでここに居続けるってのは、数日だって苦痛だろう。なにしろここには線しかないのだ。ひとりで、『かけぬけろどうげんざか』ごっこをやるにも限度と言うものがある。
だが――
「なんで、夢の中の登場人物が、ここが夢の中だってことを知ってるんだ?」
「私だって認識できるんですから、彼女が認識していてもおかしくはないとおもいますけど。何しろ脳はひとつですからね」
「うーん。そうかな……そうかもな。なにかそういうのとちょっと違う気がするんだが……」
俺はちらりと、彼女を見た。
どうにも見覚えのない女だ。本当に俺の脳が作り出した形なのだろうか。
「とにかく、あなたたちも冒険者なら、国王に言われた義務をはたしなさい!」
「国王? マッドオーバーロードなトレボーみたいなのが、ここにもいるのか」
「そりゃまあ、城が見えますからね。いてもおかしくないとは思いますが」
「うーん。ここで、冒険者じゃないよと言ったらどうなると思う?」
「世界の掟で、登場人物は全員冒険者なんですよ、きっと」
「掟かぁ……」
いかにもありそうな話だ。
それにしても、彼女はどうも、やたらと俺たちを冒険に行かせたがっているように思える。
「彼女の態度、どう思う?」
「これが先輩の夢で、先輩の無意識が彼女を作り出しているとしたら、先輩の無意識は、先輩が冒険に行ってもらわなければ困るってことですかね」
「なんで?」
「無意識のやることを、意識が認識できるわけないでしょ」
それもそうか。自覚できない意識を無意識っていうんだから、認識出来たらそれはすでに無意識とは言わないわけだ。
「鶏が先か卵が先か、みたいな話ですね」
「それは、卵だ。間違いない」
「なんでです?」
「鶏は卵を『産む』が、卵は鶏に『なる』からだよ」
何かから生まれた卵が鶏になったのだ。何かがいきなり鶏に変異したりはしないだろう。
「進化の過程をさかのぼれば、おのずと明らかってことですか」
「まあな」
妖艶な女は、すでにコメディーの如く、フルフルと怒りに震えていた。
脱線してからかうのが少し面白くなってきたところだが、そろそろ可哀想になってきたな。
「仕方がない、夢そのものに乗せられるなんて馬鹿みたいだが、ダンジョンを攻略してみるか。これも経験だ」
「アイテムが現実に持ち帰れるといいんですけどね」
「いや、そりゃ無理だろ」
どうせ他にやることはないんだ、攻略するのもありだろう。同じダンジョンだと思えば、リアルの練習にも……いや、ならないか。
連携の練習、なんてことも考えたが、これって、経験が蓄積したとしても、対象は俺だけだ。
「で、死んだらどうなるんだ? もしかして、さくっとここから脱出できる?」
「誰かが生き残っていれば、寺院で復活させられるんじゃないですか? ウィズだと灰になったりロストしたりしますけど」
「全員死んだり、ロストしたらどうなるんだ?」
「どうにもなりません。データはパー。なかったことになります」
俺の夢がそれを再現するとは思えないが、ロストしたらどうなるのかを確かめるのも危なすぎる。何しろディスクを抜くのは無理だからな。
「そういや、ゲームの中の死が、現実の死につながるなんて話は定番ですよね」
三好がまじめな顔つきで、不穏なことを言いだした。
そうそう、こいつはこういう時につい言っちゃう奴なんだよ。
「……一応死なないように注意はしておくか」
「了解です」
妖艶な美女は、ほっとしたような顔をして、同じ場所に立っていた。
あれを俺が作り出したのだとしたら、あれが俺の好みなのだろうか。うーん、わからん。
「なあ、三好。俺にはちょっと気になることがあるんだが」
「なんです? なんだか嫌な予感がしますけど」
「NPCにいたずらしたらどうなるんだ?」
「先輩……」
三好は、何を言ってるんだこいつと言うまなざしで俺を貫いた後、はぁ、とため息をついて、仕方がなさそうに、「どうぞ」とだけ言った。やってみろってことか。
殺人や強姦なら、カルマが下がるとか、ガードがやって来て逮捕されるとかありそうだが……
俺はつかつかと彼女に近づくと、おもむろに、その立派な胸のふくらみをつかもうと手を伸ばした。
その瞬間、驚きに目を見開いた彼女の右手が、音速で俺のほほに襲い掛かった。
小気味の良い破裂音が炸裂すると同時に、ああ、こうなるのね。さすがは俺の夢だ、などと間抜けなことを考えていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
『はっ……』
悩まし気な息を吐いて、ベッドの上でビクンとからだを引きつらせると、イザベラは突然目を開いた。
「otsukare-sama」
いつの間にかベッドの足元に置かれていた、イームズラウンジにゆったりと座っていたデヴィッドが、聞きなれない言葉を紡いだ。
『なにそれ?』
イザベラは半分体を起こして、腕時計で現在の時間を確認した。80分後に再ダイブするためだ。
『日本語の、相手をねぎらう言葉らしい。あらゆる状況でいつでも使える魔法のような言葉だな』
『へんなの』
そう言って彼女は、どさりとシーリーのガーナイトⅢに体を預けた。包み込まれるような柔らかさが好きな彼女が持ち込んだマットレスだ。
金属製スプリングはリサイクルが困難? そんなのは単なる言いがかりだ。適切に処理することは可能なのだ。面倒なだけで。そうしてその面倒は彼女の知ったことではなかった。
『どうしてフランスには素敵なベッドメーカーがないのかしら』(*1)
『アメリカには大変体の大きい方が多いから、需要があったんだろう。そうえいば日本には、フランスベッドというメーカーがあるらしいぞ』
『へんなの』
疲れているように見えるイザベラを見ながら、デヴィッドは枕元に置かれている魔結晶を確認していた。
結構消費量が多い、いままでに聞いた説明が正しいとしたら、夢に大きく関与した証拠だ。
『なにか、トラブルでも?』
『別に。どんなに無害そうに見えても男は男ってことを確認したくらいよ』
押し倒されでもしたのだろうか? 意味は分からなかったが、デヴィッドにとって、トラブルでなければそれで構わなかった。
『ステージ1に入ったのか?』
『まあね』
睡眠の深さは、脳波の計測によって4つのステージに分類されている。そのうち覚醒からステージ1までの間がレム睡眠だ。
イザベラが波長と言っているものは、レム睡眠とノンレム睡眠を繰り返す長さのことだ。通常、レム睡眠とノンレム睡眠は約80分から110分くらいの周期で繰り返されている。(*2)
〈ナイトメア〉は、対象がレム睡眠の状態の間だけ夢を構成できる。そして対象が先に夢を見ている場合は、それには干渉できなかった。夢の世界は早い者勝ちなのだ。
だから、レム睡眠が始まるタイミングを知ることはとても重要だった。夢を構成するためには、対象が夢を見ていない間に干渉しなければならなかったからだ。
そうして、対象がステージ1に到達すると、彼女は夢の世界からはじき出されるのだった。
『それで?』
『一応、条件付けは出来たと思うけど……あの男、ものすごく慎重――いいえ、怠けものなんじゃないの?』
『どうして?』
『ちゃんと夢の中だということを認識していて、何もせずに寝ていれば、そのうち目覚めるだろ、なんて言ってたわよ』
『明晰夢というやつか。しかし、日本人はああいうシチュエーションを与えれば、すぐにでも冒険にでる人種だと思っていたよ』
『あなたちょっと調査が甘いんじゃないの? そんなの子供だけでしょう。大人になったら、ゲームなんて面倒でやってられないわよ』
『それはゲームに時間がかけられなくなるというだけで、ゲーム自体は人類の深いところをくすぐる要素だと思うがね』
『詐欺師らしい意見ね』
なにしろ詐欺は、コンゲームなのだ。(*3)
『男女の駆け引きも似たようなものだろう?』
そう言われて、少し考えた後、それもそうかと納得した彼女は、鼻を鳴らして起き上がり、簡単な食事をしにダイニングへと向かった。
80分後にはあの続きがあるのだ。どのように追い込み、どのようにかかわるべきか。いつもとは違う勝手に、彼女はいつになく真剣に考え始めていた。
*1) EUには、高反発マットレスの草分けである、マニフレックスと言う世界最大の寝具ブランドがあるからかもしれない。
年間400万台もマットレスを生産しているそうだ。イタリアが本社。
*2) 資料によって異なる。
全ての資料を包括すると、最小は70分くらいで、最大は120分くらい。
*3) 本来コンゲームは、confidence gam のことで、信用詐欺。
イギリスでは、confidence trick。これはこれでマジシャンみたいでかっこいい(日本人的視点)
ところで、彼らはフランス人なんだから、fraude (フォード。普通にカタカナ表記されるときは、フロォドなんて書かれるが、聞くとフォードにしか聞こえない。r部分は口蓋垂音なのでロは無理があるよね)じゃないのと思わないでもないが、まあ物語の都合だよ。HAHAHA。
#ところで、まさしくんハイ! は名作ですよね?




