§174 病気? 2/26 (tue)
ノックの音が聞こえると、すぐに、ドアが開いて誰かがお盆を持って入ってきた。
「ししょー。生きてるー?」
「ノックしたら返事があるまで待てって、小学校の先生に教えてもらわなかった?」
「芳村さんが、ひとりでイケないことをしているところに出くわしたら、次からは気を付けるよ」
「あのね……」
奇妙な夢――その内容は、もはや曖昧な印象しか記憶に残っていなかったが――を見た後、俺は体調を崩してベッドで横になっていた。どうにも眠くて、体がだるい。
「で、斎藤さんは何をしに?」
「ほら、こないだの弓のお礼に、お見舞いに」
お見舞いって、俺が寝込んだのは今朝だぞ、今朝。午前中に来た彼女が知ってるわけがないだろう。
「で、ほんとのところは?」
「ピアノの練習」
うんまあ、そんなところだろうと思ってたよ。
「そういや、あれ、いいかげん、持って帰りなよ」
「狭くなるからヤダ。1Kなめんなって感じ」
彼女は持ってきたお盆を、ベッドサイドのテーブルに置きながら続けた。
「こんな場所の、こんなデッカイおうちに住んでる人にはわかんないでしょうけどねー」
いや俺だって、こないだまで古ーいアパートに住んでたんだけど。1DKとは言え、確かに、あそこにピアノを置けと言われたら躊躇するな。
「まあいいか。それで、弓の調子はどう?」
「もうばっちりよ。さすがは私スペシャルね!」
購入したときに、涼子スペシャルだと言ったら、涼子っていうなって殴られた。
それで、結局私スペシャルかい。こいつのネーミングセンスもダメダメだな。芸能人だってのに、残念なやつ。
「先輩? 生きてますかー?」
ブルータスお前もか。
三好に至っては、ノックもせずにいきなりドアを開けやがった。我が家周辺のマナー教育はどうなってんだ。
「ご飯の前に、まずは、これをお願いします」
そう言って三好は電子体温計を差し出してきた。なるほど、これを自分の部屋に取りに行っていたから時間差があったのか。
「サンキュー」
俺の部屋に体温計なんていいものはない。それどころか、風邪薬の買い置きすらなかった。
薬と名の付くものは、会社から福利厚生の一環でもらったセットがあるが、前の部屋に置きっぱなしだったし、すでに使用期限は何年も前に切れているはずだ。
まあ、この数年、病院なんかとは無縁な生活をしているからなぁ……
「だけど、ししょーが病気で寝込むなんて、想像もしてなかったよ」
「馬鹿は風邪ひかないってやつか?」
「そうそう。じゃなくてー。なに自虐してんの」
斎藤さんは、けらけらと笑って、馬鹿なのは知ってるってーと、二の腕に軽くパンチを入れてきた。おいおい俺は、一応病人なんだけど。
そのとき、わきの下に入れていた、体温計が小さな電子音を奏でた。
「んー。ほれ」
それを取り出し確認してから、三好に渡すと、彼女は、表示されている体温を見て言った。
「微熱があるみたいですけど、風邪ですかね?」
「大丈夫?」
それを聞いた斎藤さんが、凄く心配そうな顔をすると、お盆を抱えてベッドのわきに座って、俺に体を近づけてきた。
どうやら、お盆の上にあるのは卵粥らしい。レンゲでそれを救うと、フーフーして、そっと俺に差し出してきた。
「くっ、さすが高DEX女優。分かっていても騙されそうだ」
「でしょー」
俺は、彼女の手からレンゲとお盆を奪うと、それを口に入れた。
結構塩が聞いていて旨い。
「いや、お前もう帰れよ。風邪がうつったら撮影スケジュールとかやばいんじゃないの? ちゃんと手を洗えよ」
「ふっ、とうとう私が馬鹿じゃないって認めたね?」
「突っ込むところがおかしいぞ」
俺はため息をつきながらそう言った。本当に風邪で、本当にうつったらどうするんだよ。
「大丈夫、大丈夫。その時は、きっとししょーがキュアポーションをくれるはず」
「あのな……」
それを聞いて三好が面白そうに突っ込んだ。
「斎藤さん、今うちにあるキュアポーションって、ランク7が1本だけですよ」
「ランク7?」
「そう」
「そんなの聞いたことないけど……もしかして、それってもんのすごく高い?」
「参考価格で50憶円くらいですね」
斎藤さんは突然、すっと立ち上がり、明後日の方を見ながら、手を未来に差し出すように掲げると、まるで舞台女優のように感情をこめて言った。
「……私、風邪をうつされたら、それを貰って引退します。ついでに売り飛ばしたお金で余生を安楽に過ごすんだ」
「なんのフラグだよ……そもそも、使わないのかよ」
そのままのポーズで固まっていた彼女は、突然俺の方を振り返ると、こぶしを握って力説した。
「使えるわけないでしょ!」
「まあ、普通は使えませんね」
大げさに嘆きのポーズを取りながら、「ああ……私の生涯年収の何回分かしら」と、はらはらを涙をこぼさんばかりの演技で言った。
いや、芝居がかりすぎだろ。
「斎藤さんはすぐにそのくらい稼ぐと思うよ」
「ほんとに?」
「え? まあ……たぶん?」
「なによそれー」
ハリウッド俳優のギャラを考えたら、それくらいはすぐに稼ぎそうな気がするんだけどな。
ロバート・ダウニー・Jrなんか、スパイダーマンで1000万ドル、インフィニティー・ウォーは1本で7500万ドルだっけ?
女優は1000万ドルくらいに壁がある感じだったけど、今は結構そうでもなくて、サンドラ・ブロックあたりは、ゼログラビティで5000万ドルって話も聞く。
「ハリウッドってそんな感じだろ?」
「東洋人は、どうかなー」
今はポリコレも激しいし、英語がネイティブと大差なければ意外といけるんじゃないかと思うんだけどな。
「さてと。じゃ、練習も終わったことだし、私も帰りますかね」
「お疲れ様」
「そうそう、さっき、はるちゃんにも連絡しといたから。確か昨日からパリにいるはず」
「とうとう、最後まで連れて行ってもらったんだな。だけど、向こうはまだ早朝だろ」
パリと東京の時差は8時間だ。向こうはまだ朝の4時前だろう。
「起きたらメールがくるよ。お楽しみに!」
嬉しそうにそういう彼女の顔を見て、俺は嫌な予感に襲われた。
「ちょっと待て。お前いったい、何を書いたんだ?」
「大丈夫、大丈夫。はるちゃんが仕事を放り出して帰国するようなことは書いてないから」
こいつの大丈夫は、まったく信用ならない。特にこういう時は。
後で、こっちからもメールしておかないと、まずいな。
「そんな心配しなくても、大丈夫だって。じゃ、私、午後から仕事だから、またねー!」
「あ、おい!」
そういうと彼女は、嵐のように去って行った。
「はぁ……」
しばらくして、彼女を玄関まで送って行った三好が戻って来た。食器の回収があるからだろう。
「しかし、超回復って、病気相手には仕事をしなかったんですね」
「基本は怪我用っぽいもんな。体力は回復するみたいだが」
「考えてみれば、ポーションにも、ヒールポーションとキュアポーションがありますもんね。どうします、飲みますか?」
「ランク7のキュアポーションを?」
「世界一高価な風邪薬ですね」
三好がクスクスと笑いながらそう言った。
「死にそうになるまで、とっとくよ」
すると、それまで笑っていた三好が、ふと真面目な顔をして言った。
「先輩、もしもですよ? 体の一部がひどい痛みを伴って傷つくような病気になったら――」
「あーあーあー、やめろ! 聞きたくない!」
体の傷が超回復で回復するってことは、いつまでも激痛だけが与えられるって事だ。
それって、フィクションでよくある、拷問しつつヒールで治すってやつ、そのままだ。
「超回復の思わぬ欠陥ですよね、これ」
「セルフ拷問とか嫌すぎる。だけど、そんな病気はめったにないよな?」
「実はあります」
「ええ?!」
三好は声を潜めて、おどろおどろしい雰囲気を作ってから言った。
「歯痛」
「ああ」
超回復はエナメル質を修復するのかってのは、面白い命題だ。
爪や髪の毛を修復しないということは、常識的に考えればエナメル質も修復しないだろう。
ただしこれはダンジョンの効果だ。いままでの常識が通用するとは限らない。むしろ、所有者が歯も修復したいと考えるなら、それは修復されると考えるべきなのかもしれなかった。
残念ながら、俺にも三好にも虫歯がなかったので確認はできないのだが……アーシャにもなさそうだよな、虫歯。
もしもエナメル質部分が修復されないなら、神経に到達するたびに修復と破壊が繰り返されて、いつまでも神経がなくならず痛いままなのかもしれない。
歯医者に行けと言う気もするが、もしもそのとき、医療行為として神経が抜かれたらどうなるのだろう? やはり神経が復活して、痛みは続くのだろうか。
抜いても抜いても復活する神経……嫌すぎるな。
「まあ、しまっちゃうおじさんが来るかもしれないって恐れていても仕方がありません」
俺が粥を食べ終わるのを見て、三好は何かを取り出した。
「そんでもって、デザートはこれですよ!」
じゃーんと言う効果音と共に、三好が果物の缶詰をどや顔で取り出して、俺の目の前にかざした。
「いや、俺、桃缶嫌い」
「そりゃまた、西浦高校の野球部員を敵に回しそうな発言ですね」
「お前、まだ前のアパートに行ってるのかよ」
「あの押し入れ、ほとんど漫画しか入ってませんでしたよ。先輩ってどういう生活をしてたんですか」
「いや、だって、専門書は会社に持って行ってたし」
「そういう意味じゃありませんよ。そうだ。あと、新しい巻がないやつがあるんですけど」
俺は仕方ない奴だなと、笑いながら、枕元に置いてある Kindle Oasis を三好に渡した。
「おおー。電子書籍にしてたんですか!」
「読むだけだと便利だよな。所有欲は紙の方が満たされるけど」
「あれ? かぶってるのがありますよ?」
「あー、だって、途中まで紙で、途中から電子書籍だと面倒だろ?」
「つまり、ブルジョアになったってことですね」
「まだ、前のアパートを解約していない時点で、否定は無理だな」
特に金持ちになったという実感はないし、自分のもので、何か欲しいものがあるかといわれれば特にないが、こういう部分で節約を悩まなくてよくなったのは、地味にありがたかった。
「しかし、いつになったら二つ折りのデバイスが出るんですかねぇ」
三好が、試しに漫画を読みながら、そう言った。
「重さとかバッテリー容量の関係で難しいかもしれないが、ブックリーダーとしては文庫本スタイルのデバイスが欲しいよな」
「出たかと思ったら、期待していたのと反対に折り曲げたりするんですよ? 開いたら板になるとか馬鹿ですか? 二つ折りの意味ありません!」
曲がる液晶よりもずっと敷居が低いのに、と三好がぶつぶつ言っている。
スマホの延長で考えるならタブレット型にしたいだろうが、欲しいのはブックリーダーなのだ。その辺、キャリアからは登場しないだろうから、kindle様にはぜひ頑張ってほしい。
「kindle twofold なんて名前で2画面版を出すか、いっそのこと2台使って連動する機能とか作ってくれれば、ケースで対応できるんだけどな」
「クラウドファンディングで出てきませんかね?」
「そっちは、先進のVRか網膜投影型のデバイスで、PCのビュワーみたいなものが実用化されるほうが早いかもなぁ」
そう言うと、三好がぷぷっと吹き出した。
「なんだよ?」
「いえ、今電車に乗ると、みんながスマホを見てるじゃないですか」
「そうだな」
「網膜投影型の眼鏡みたいなのが同じように普及したら、みんながページをめくるために、目の前で空間をスワイプしたりしてるんですよ。それって、ちょっと間抜けじゃないですか?」
通勤電車の席に座って、ふと上を見上げると、つり革をつかんでいる人たちが、全員手を目の前でフリフリしている……
「いや、間抜けと言うより怖いな、それ。なんの儀式だよ」
三好は「ですよねー」と言いながら、俺が食べ終えた食器をお盆の上に載せた。
「先輩」
「なに?」
「ほんとに大丈夫なんですよね?」
三好が真剣な顔をしてそう言った。
いや、まじめな顔でそう言われると、なんだか不治の病にかかったような気分になるんだけど。
「ああ、まあ、ちょっとだるくて眠いだけだ。頭痛もしないし、寒気もないし。ちょっと疲れたのかな?」
「超回復があるのに?」
「たまにはそういうこともあるんだろ。続くようなら病院に行くよ」
翠さんのところの検査でも、おかしな数値は出てなかったし、JDAがやっている探索者の健康診断でも、一般人と有意な違いはないようだし、普通に病院に行っても大丈夫だろう。
「そうしてください。じゃ、グラスを置いていきますから、グレイサットと入れ替わったら、ブートキャンプの設定はよろしくお願いします」
「寝てたら起こしてくれるように言っといてくれ」
「了解です。今日は少し開始が遅いようでしたから、たぶん16時過ぎだと思いますよ」
「わかった」
三好の影から出て来たグラスが、我が物顔でベッドの上に飛び乗ると、俺の顔をふんふんと嗅いだ。そして、嫌そうな顔で俺の影へともぐりこんだ。
「え? 俺、臭い?」
「特に何も? 熱が下がるまで、シャワーなんか浴びちゃダメですからね」
そういえば、モンスターって嗅覚がそれほど発達していないんじゃないかって仮説を立ててたっけ……じゃあ、グラスは、一体何を嗅いだんだ?
思考の隅に引っかかるものがあったが、俺はあまりの眠さに、すぐにもう一度夢の中へと旅立っていった。




