§153 金枝篇 8層 2/9 (sat)
『どうぞ。ただの豚肉ですけど』
あらかじめ、現実的な意味でもスピリチュアルな意味でも、食べられないものを聞いておいたが、全員特にないということなので、予定通り8層の屋台で豚串を買った。
代々木観光と言えば、ここは外せないだろう。
もっとも、その実態は、自衛隊あたりが代々木の情報拠点として運営している店って気もするが……こんな不安定な商売、そういった組織でもなければ続くはずがないからだ。
『ふむ。なんというか……焼過ぎた豚肉だね』
『豚肉ですね』
博士とシルクリーさんが、そう言いながら少し硬くなった豚肉をぐにぐにと咀嚼していた。
『しかし、ミスター・アーガイル。あなたはユダヤ教徒だと伺っていましたが……』
『あははは、我々は神は信じているが、宗教は信じていない普通の人だからね。言ってみれば世俗派だろうか? だから、豚でも平気で食べちゃうよ』
彼は宗教における、食が民衆を支えきれなくなるたびに、戒律が厳しくなるその歴史的なメカニズムについて、アシスタントに解説していた。
そうして、豚肉のアミノ酸のバランスの良さや、ビタミンB1の豊富さについて力説して、自分のことを、まったくイーシュ・カシェル(律法的に非の打ちどころのない人)とは言えないねと笑っていた。
「いいのか、あれ?」
食事を用意する手前、食のタブーについて質問したら、全員タブーはないと聞いていたので特に気にしなかったが、博士はユダヤ教徒だったのか。
「先輩。私の知り合いに、銀座のヘイスティングス・マナーで食べる、嵐五十シェフのブーダン・ノワールが大好物のユダヤの方がいらっしゃいますよ」
「ダメ素材の2乗じゃん!」
ブーダン・ノワールは、豚の血と脂を使ったソーセージで、大抵はリンゴのソテーやソースを添えていただく。
ユダヤ教のカシュルートだと、血はタブーだし、豚もカシェル(食べてよい食物)ではない。
しかし、考えてみれば、日本の仏教だって無数に宗派があるわけで……いや、そういう問題だろうか?
「ユダヤ教もヒンドゥー教に劣らず懐が広いな……」
アーシャパパのヒンドゥー教もそうだったが、ユダヤ教も律法を守る度合いが、人によってばらばららしい。
強固な戒律を持つ大宗教は、大抵懐が広く、バリエーションがありすぎて門外漢には理解しがたいもののようだ。
「これって、オークじゃないんですか?」
佐山さんが、串に刺された白っぽい肉を見ながらそう言った。
まあ、そう思うよね。俺も最初そう思ったし。
「残念ながら、オーク肉は全量外でさばかれるそうですよ。結構な稼ぎになりますから。あとは、ゲットした探索者が、自分で食べるくらいでしょうか」
「へー。んぐんぐ……そういわれるとただの豚肉ですね」
「ははは。まあ、ただの豚肉ですから」
初めての探索で、アドレナリンがどばどば出ているのか、みなさん、それほど疲れた顔を見せてはいない。
もっともモンスターは、ほとんど見えないところで始末しているし、ルート間の移動だけだから、そこらの森を歩いているのと大差ないわけではあるのだけれど。
とは言え、そろそろおやつを食べてもいい時間になりかかっている。
「どこまで行けると思う?」
俺は9層へ降りる階段の方を見ながら、三好に尋ねた。
「そうですね。あと3~4時間ってところでしょうから、12層が無理ならやっぱり10層が無難ですかね」
「10層か。テントじゃ無理だな」
「ゲストがみんな探索とは無縁そうですから、DPハウス2号の出番ですよ。ほいぽいは登録されてますし、一般探索者の目に触れない場所なら、それほど騒がれることもないでしょう。それより先輩、10層に泊まって、ほんとに明日中に21層に到達できますか?」
「微妙だよなぁ。19層と20層の雪山を考えると、18層で終了なんてことになりかねないぞ」
「18層でDPハウスは目立ちすぎるので避けたいですね。とはいえ、この後、11層と12層の火山地帯で泊まるというのはちょっと。噴火でもあったら、DPハウスじゃつらいかもしれません」
「噴火って起こるのか? もちろん、13層の渓谷層までいければ楽になるが……あと3時間か。とりあえず11層へ下りる階段のところまで急いでみて、そこでもう一度考えよう」
「了解です」
俺は下ろしていたバックパックを背負うと、先生方に声をかけた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
JDAの専務理事、クリフォード=タウンゼントは、今しがた行われた理事会の会場を、うんざりしたような顔で後にした。
後には、瑞穂常務理事と、真壁常務理事が続いている。真壁は先日まで国外にいたが、セーフエリア開発の問題で呼び戻されたのだ。
「しかし、あの理事どもは、もっと建設的なことが言えんのか」
クリフォードは憤慨したように言った。
「インフラの開発計画をさっさと開示してもらいたいと、矢の催促をする前に、どうやって開発するのか、所属企業の見解くらい述べろって言うんだ」
「そりゃ、無理でしょう。公開された情報を見て、おそらくどこも手のつけようがなかったんですよ」
真壁が、さも当然と言わんばかりに、頭をかきながら言った。
彼は確かに優秀な男だが、こういう分かったようなところがクリフォードの癇に障った。
しかし、それもこれも9月までの辛抱だ。彼は、9月で任期が切れたら、この責任のあいまいな、奇妙な構造の組織には二度と近寄るまいと心に誓っていた。
ここは何というか、違うのだ。――空気が。
それが日本という国に特有のプロパティなのか、代々木にある、あの忌々しい穴によるものかは分からないが、ともかく初代専務理事の責務は果たした。
今年の9月で、ここへの忠誠はソールドアウトだ。それまでせいぜい何かに呑みこまれないようにしよう。
「問題は資材の運搬だ。それから32層で使用するエネルギー。特に電力の確保だ」
本来なら重機とその燃料が必要だろうが、重機の類は、持ち込めたとしても小さなユンボがせいぜいだろう。それすらもなかなか困難だ。
資材の搬入もトラックなどは運用不可能。現時点では各社のポーターを利用するしかないが、各社のポーターはインバーター発電機を積んでいるとしても電力で動いていることに変わりはない。
「ダンジョン深層の建築物ですからね。土木建築というより、宇宙開発企業が、月に建てる住宅の方が近いかもしれません」
真壁がそう言って、何かを考えるように腕を組むと、瑞穂が口をはさんだ。
「我々は区割りだけして、あとは権利者に任せた方が無難では?」
彼は、その態度に反して、事なかれ主義だ。
美味しいところはいただこうとするが、面倒でやけどしそうなところには手を出さないことで、ここまで来た男だ。
もっとも、長いものには巻かれろ的に物事を見るため、長いものだと認識できない相手を見極めそこねることがある。
「各企業や国家が、独自にエネルギー開発や都市開発を行う許可を出せってことか?」
「いや、それはまずいでしょう。DAがインフラの整備も主導できないとなると、その独立性が脅かされかねない」
「統治できないならその権利を譲渡しろと言い出す輩がいるということか?」
クリフォードは立ち止まって、真壁の方を振り返った。
真壁は微かに肩をすくめて言った。
「当初の混乱が収まり、モンスターも地上にとってはあまり脅威とは言えない現在、マイニングの件もあってダンジョンが金鉱に見えていてもおかしくはないでしょう。実際ダンジョン関連開発企業のうち、商品の開発に成功した企業の売り上げは急成長しています」
彼は逆にチャレンジしすぎるタイプだ。
実力はあるが、国内を保守的だと、やや軽視しているきらいがあるようだ。
「DAは超国家的な組織とはいえ、既存国家と敵対するようなものではないよ」
「お互いに尊重しあえているうちはそうでしょうね」
そして、その思想は少し危険だ。
「ともかく、どうやって運ぶのかという部分はさておいて、向こうで必要な資材を早急にリストアップするべきです。搬入手段は後から考えればいい」
「真壁常務、それは無計画すぎるんじゃないか?」
彼のあまりの発言に、瑞穂が意見した。
持ち込める量を計算して、そこからできることを考えた方が計画としては安全だ。さっき彼が発言した、宇宙開発は常にそういう方法論を取っていたはずだ。
「向こうで必要なものは分かっているんです。どうやってを考えながらそれを削ろうとすると、タイムリミットに間に合いませんよ」
「いや、そうは言ってもだな――」
瑞穂の言葉を遮るように、クリフォードは訊いた。
「なにか考えがあるのか?」
真壁は、そこでかすかに口角を上げた。
「準備ができたら、うちの部下が魔法を使ってくれるそうです」
「魔法?」
クリフォードは、じっと真壁の目を見つめたが、彼はそれ以上説明する気はないようだった。
この世に魔法が認識されて3年。どうやら世界は自分の知らない領域へと拡張されたようだったが、9月でこの世界から逃げ出すためには、泥沼に足を踏み入れてはいけない。
彼は踵を返すと言った。
「やむを得ん。真壁案で行く。君、それをまとめてくれたまえ」
「お任せを」
そう言って大仰に頭を下げる真壁を、瑞穂常務は苦々しげな目つきで見ていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
『いや、これは凄い! 壮観だね。まるでユニバーサルスタジオのテーマパークのようじゃないか!』
代々木の10層では、先行してホネホネ軍団を蹴散らして回っているカヴァス達3匹が大暴れしていた。
その少し後ろには、それを見て大喜びするアーガイル博士と、茫然としてそれについて行っている佐山さんがいた。シルクリーさんはいつも通りだ。
「あの先生、肝が据わってるな」
「というより、現実として認識してないって感じですけど」
三好の周りに時々現れるアイテムは、人知れず彼女が収納しているようだ。グラスは洋々と、俺たちの後ろを歩いていた。
三好はさらに、鉄球でもっと外側のモンスターたちを間引いていた。俺の魔法は派手で目立ちすぎるので、今は、ただの荷物持ちと化している。
『私も、この犬たちが1匹欲しいな。子供が生まれたらぜひ譲ってくれないか?』
いきなり振り返って、興奮したようにそう言った博士に、三好は冷静に答えた。
『残念ですけど』
もっとも、こいつらに子供が生まれるのかどうかは分からない。
そういえば雄雌チェックもまだやってないな。個体に性差があるのかどうかも不明なのだが。
『それは本当に残念だ、そのちっこいのなんか、キュートでいいんだが』
博士がよだれを垂らさんばかりの表情でグラスを見つめると、本能的な恐れを感じたのか、いつも強気のグラスが、三好の足元へとすり寄って、彼の視線を回避していた。
さすがのグラスも、マッドなサイエンティストの視線は苦手らしい……って、この博士、専門分野はいったい何なんだろう?
ここへ来るまでにしたのは、数論と宗教の歴史の話だ。DFAの主席研究員って話だから、まさか数学や宗教学じゃないだろうし……
「先輩、そろそろ階段ですけど、どうします?」
「1時間ちょっとか」
11層と12層は比較的近い。12層と13層の間は平均的だ。
「あと7キロ~8キロってところか?」
「それくらいです」
春がすでに立ったとはいえ、いまだ日没は17:30ごろだ。
「ギリギリだが、向こうでのキャンプ準備は不要だからいけるか、13層」
「榊さんには悪いですけど、尻尾の補充は可能ならってところですね」
「三好の鉄球なら遠目には見えないだろ。モンスターの密度も大したことないし、大丈夫じゃないか?」
もっとも、擬態しているそれを遠目に見つけられれば、だが。
「まあ、できたら、くらいにしておきましょう。12層で暗くなったら面倒ですから」
「佐山先生が、火山帯で寄り道をしなきゃいいけどな」
「あの人も、熱中するとダメな大人になりますよね。研究者って、普通の人はいないんですか?」
俺は真顔で自分の顔を指さした。
「あー、はいはい。そうでしたね」
そう言って三好は乾いた笑い声をたてた。
ちょっと扱い、酷くない?
◇◇◇◇◇◇◇◇
『つまり、広くダンジョンにかかわる人たちへの助成ということでしょうか?』
『そうです。弊社のこの基金――というより体裁としては投資事業ですね。は、我々の、言ってみればダンジョン振興による社会貢献の一環のようなものですから、後々規模を拡大する可能性もあります』
『拡大? ここからですか?』
『そうですね』
モニターの中でしゃべっている、日本人形の様な容姿の助成を見ながら、中央TVプロデューサーの石塚誠が驚いたような声を上げた。
「いや、これって、マジなの?」
「マジもクソも、目の前で見てるじゃねーか」
TV局と制作会社の社員とは思えないほど、気楽な口調で氷室が答えた。
彼らは大学時代の友人同士なのだ。
「氷室っちゃん凄いじゃん。いろんな局が血眼になってアクセスしようとしてるんだよ、彼女たちに。前頼んだ時はそんなそぶりはなかったのに、一体どういうコネよ?」
コネと言われても、一方的に向こうから電話をかけて来たのだ。何とも答えようがなかった。仕方がないので、彼は単に、「まあな」とだけ答えた。
「だけど、当初規模で100億円の投資事業って……やっぱ、大金を稼いだってのは噂だけじゃないのかねぇ」
制作局の立場としては、投資事業うんぬんよりも、そっちの方に興味がわくだろう。
『結局、研究者のパトロンになる事業ということでしょうか』
『いいですね、それ。そう思っていただいて構いません』
『しかし、芸術家と違って、研究は利益のために行うのでは?』
『もちろん利益のために行う研究も多数ありますが、世界の神秘に近づこうとすることは、アートを追求することと同じくらいお金にはなりませんから』
映像の中の三好は、小さく肩をすくめると『私たちも、もとはと言えば研究者ですからね。その辺のジレンマは嫌というほど知っています』と、小さな笑いを誘うように言った。
「あの会社の株式構成ってどうなってるのかね?」
「非公開だからわからんな」
「いや、こんな事業を株主がよく認めたなと思ってね」
「ちょうど、そこのことを訊いてるところだぞ」
氷室がモニターを指さすと、石塚の言葉に応えるように、映像の中の三好が発言した。
『全員賛成で決定しました。うちの株主は、研究に理解がありますね』
三好がおどけたようにそう言った。
なにしろDパワーズの株主は二人しかいない。全員の意思確認にかかる時間は一瞬なのだ。
「バラして報道へ渡すって手もあるけど、彼女ら、今が旬だからねぇ。制作でもぱーっと煽って数字をとりたいんだけど」
「ダンジョン向けの投資事業の話なんか、高齢者層や主婦層には関係ないだろ? 朝や昼のワイドショーで取り扱う内容か?」
「そこはほら、話題の高田や不破? それに、斎藤ちゃんあたりを絡めてさ。あとは金額のデカさでなんとかならないかな」
「ブートキャンプ辺りをクローズアップするわけか。まあ、主婦層にはそっちの方がアピールするだろうが……スキャンダルはNGなんだよな?」
「斎藤ちゃんのは、まだ、ね」
「じゃあ、謎のDパワーズに迫る! みたいな構成か? F2やF3(*1)がそんなのに興味を持つとは思えんが」
「解説に、吉田陽生あたりを呼んじゃう? 最近話題を持ってかれて面白くないみたいだから、なにか面白い話が聞けるかもよ?」
「ああ、ダンジョン研究家の先生か」
情報を持った専門家に毒を吐かせようってのは、情報番組の作り方としては、まあ普通だ。
後は適当に、アホ役の芸能人とかを配置して、思い通りの方向で……って、方向はどうするんだ?
「全体の方向や色付けはどうするんだよ」
「そこなんだよねー。一般的には著名人とは言えないから、スキャンダルをでっちあげてもインパクトがさぁ」
「でっちあげるなよ」
「やっぱ、おいしいのは、上げて落とす演出なんだけどね」
あいつを落とす? 氷室には、とても無理だと思えたが、石塚の辞書には、触らぬ神に祟りなしって言葉が載っていない。
祟られたら数字になってラッキーなんて考え方じゃ、いつか身を亡ぼすだろうよ、と氷室は目をすがめた。
もっとも、石塚は、身を亡ぼすような出来事が起こったら起こったで、数字が採れてラッキーだと考えるタイプだった。筋金入りのTVマンってやつは、どうにも食えたもんじゃないのだ。
「人類の救世主? みたいに持ち上げておいて、後で悪魔だって路線、いいよね。なんかネタない? ほら、脱税とかさ」
そう聞いて氷室は呆れたように言った。
「お前、相手がワイズマンだってわかってるのか?」
鑑定の詳細は分かってない。だから、下手に仕掛けたりしたら、何もかもが暴かれかねないわけだ。
「そうかぁ。なら、なんとか鑑定団みたいな番組に、ゲストで出てくれると面白いんだけどねぇ」
「あのな……」
「一般人じゃないから、金でどうこうってのも無理だろうし。いや、こりゃ困ったね」
*1) マーケティング用の区分
F2は35~49歳の女性。F3は50歳以上の女性。どちらもおおむね主婦層と被る、昼のワイドショーあたりの主要な視聴者層。




