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Dジェネシス ダンジョンができて3年(web版)  作者: 之 貫紀
第7章 変わる世界

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140/218

§139 遅延評価と記録会 2/3 (sun)

2月に入って数日、いい天気の日が続いているが、放射冷却の影響か、昨日は氷点下まで気温が下がっていた。

シャワーを浴びた足で窓に近づき、ピーカンの空をぼんやりと見上げながらそれを開けると、息の輪郭が白く縁取られた。


「今日も寒そうだな……」


俺はそう呟いて、窓を閉めると、簡単に身だしなみを整えてから事務所へと下りていった。

ダイニングでは三好が、難しそうな顔で頬杖をつきながらタブレットを眺めていた。


「おはよう。どうした、朝っぱらから景気が悪そうな顔をして」

「ダンジョンせとかのDNA鑑定、ファストレポート(*1)が送られてきたんですが……」

「日曜日に? それで、なんだって?」


俺は、キッチンへ入ると、冷蔵庫から水を取り出して、グラスに注ぎながら、そう聞いた。


「量子力学の実験結果みたいなレポートになってるんです」

「なんだそりゃ?」


ボトルを冷蔵庫に戻して、水を一口飲むと、グラスを持ったままダイニングへと出て椅子に座った。


「このレポートが間違っていないとして、どう思います?」


三好から差し出されたタブレットを受け取った俺は、そのレポートに目を通し始めたが、そこにはとても信じられない内容が綴られていた。


「正気か?」

「何てことを言うんですか、先輩」


三好は盛大に苦笑しながら続けた。


「一応、農業・食品産業技術総合研究機構の果樹茶業研究部門はこういった研究の権威みたいなものですよ」

「お前だって、一応とか言ってるじゃん」


俺は、コップの冷たい水を飲み干して、頭を切り替えると、続きを読み始めた。

そしてしばらく後に、それを三好に返しながら言った。


「これが事実だとして、一番あり得そうなのは、遅延評価だろう」

「やっぱりそうですよね」


遅延評価。それは、もともと計算量を最適化するための概念だ。

とある値の評価を、実際にそれが必要になるまで先送りにする手法で、最高の効率で実行が行われれば、必要な計算量はゼロになる。つまり評価されないのだ。


ダンジョンせとかを食べようとするとき、Dファクターは、せとかの味や香りを再現したとしても、その分子生物学的なディテールまで厳密に再現する意味はない。つまり、そこの決定にDファクターを割くのは無駄なのだ。

その後、それが必要になるシチュエーション――例えば、今回のように測定されるとか――が発生したときに、その詳細を決定していると考えれば一応説明はできる。


おそらく、せとかになったものは、測定者がせとかだと思い、清見になったものは清見だと思ったに違いない。観測者の予断がそのまま結果に反映されたのだろう。

そのとき味が変わるかどうかは非常に面白い問題だが、個人による検証は不可能だ。何しろ清見だと思ってしまえばずっと清見になるとレポートにはあったからだ。


「しかし、これが本当だとすると、ダンジョン内で育った食物を食べたときの反応が心配だな」


具体的に言えば、それが栄養になるのかってことだ。


「普通に考えれば、栄養素に対する化学反応が発生するところで、評価が行われると思いますけど」

「それって、Dカードを所有していない人間でもそうなると思うか?」


例えばスキルオーブは、Dカード所有者にしか使えない。

今では、それが、体内でDファクターの受け入れ体勢ができていないからではないかと推測できるわけだが、作物でも同じことが起こらないとは言い切れないのだ。


「オーク肉はわずかとは言え流通していますけど、健康に影響がないと言うだけで、栄養になったかどうかまでは調査がないと思います」


さすがに実験動物にそれだけを食べ続けさせた記録はない。


「だけど、鑑定した人全員がDカード保持者なんて考えられますか? 国立研究開発法人のバリバリの研究者の人達ですよ?」

「うーん……年齢的にも、ダンジョンなんかシラネって人も多そうだよな」

「大学出たてとかじゃありませんからね。その人たちが、なんらかの結果を導いているんですから、そこは大丈夫なんじゃないかと思いますが……」


「どうせ、ダンジョン小麦は、それだけで一ヶ月くらい生きていけるかどうかネズミか何かで試してみる予定だろ? 体重の変化を記録すればある程度推測できるはずだ」

「もし栄養にならなかったら、やせ衰えるでしょうからね」

「問題は、俺たちが餌としてそれを与えたとき、ディテールが決まるかもってところなんだが」

「調べようとしたら評価が定まるわけですから、それを確かめる方法はありませんよ」

「確かに量子力学っぽい」


量子よりもはるかにマクロな世界で、観測そのものが難しい羽目に陥るとは一体誰が想像しただろう。


「一応、鑑定者のカード取得状況については、鳴瀬さんに聞いてみよう。身元のはっきりしている人達なんだから、Dカードはともかく、WDAカードの所有はわかるだろ。プライバシーは……カードの有無だけだし、大丈夫だろ?」


なにしろ、いきなり農研機構に、鑑定者はDカードを所有していますか、なんて聞き返したら、おかしな興味を引きかねない。


「先輩みたいな人がいなければ、ですけどね」

「野良ゴブリンの話か?」

「後で、なんて言っておきながら、まだ聞いてませんよ」

「そうだっけ? すっかり忘れてたな」


それは、俺が初めて三好に、Dカードを見せたときの話だ。

Dカードを持っているのに探索者登録をしていない理由を尋ねる三好に、昼休みが終わってしまうから、そのうち話すと約束したままになっていたっけ。(*2)


「まだ、聞きたいなら、せっかくだから話してもいいけど」

「じゃ、コーヒーでも入れましょう」

「しょうがないな」


スライムのテストに行かなければいけないが、午前中に到着する最後の薬液がまだ届いていない。

もちろんほかにもやることはたくさんあるのだが……主に三好が。


「人間、責任ある立場になると仕事が増えるってホントだな」

「何の話です?」


三好がドリップを落としながら、唐突な俺の台詞に返事をした。


「いや、俺たちも考えることが日に日に増えていくなぁと思ってさ」

「今頃何を言ってんですか」


三好はコーヒーをカップに注ぐと、呆れたように笑いながら、それをテーブルの上に置いて、聞く体勢をととのえた。

そうして俺は、去年の秋に起こった騒動の顛末を話し始めた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇


「――と、言う訳なんだ」


俺は一通り顛末を話し終えると、カップの底に残っていた冷えたコーヒーを一息に飲み干した。

三好はその話を聞いて、ふむふむと頷いていたが、ふと真顔になって疑問を呈した。


「だけど先輩。それっておかしくないですか?」

「なにが?」

「例え裂け目が出来ていたとしても、ダンジョンのフロアって別空間ですし、そうでなくても、落ちた鉄筋は、単に1層に刺さるだけじゃないですか?」


そのことは俺も考えた。

そうして、色々と調べた結果、ひとつの結論に到達していた。


「それはダンジョンの生成ルールのせいじゃないかと思うんだ」

「生成ルール?」

「ダンジョンが生成される時って、針状のダンジョン針とでも言うべき空間が地球に突き刺さるように現れるだろ?」

「その時の揺れで深度が測れるって聞きました。ダンジョン震ってやつですね」

「そうだ。それが、針が地球に突き刺さったときに起きる震動だと言われている。でな、それが刺さった瞬間、ダンジョンは、まだ物理空間にあるんじゃないか? そして、そこから随時新しい空間が作られて行くんだとしたら――」

「先輩の落とした鉄筋は、実際のダンジョンが展開する前、おそらく最下層だけが作られたタイミングで、空洞の空間を滑り落ちて、最下層にいた何か――ダンジョンボスみたいなの――を直撃した?」

「まあな。他に理由を思いつかない」

「どのくらい深かったんです?」

「音が聞こえてくるまで、20秒近く経ってたような気がしたからなぁ……」

「あの辺の現場でしたら、鉄筋は大規模建築用ですよね」

「鉄筋はD41っぽかったな。まあD38も、ぱっと見た目には同じに見えるが」


D41は公称直径が41ミリちょっと、D38は38ミリちょっとの鉄筋だ。Dxxと呼ぶときはxx部分が大まかに公称直径だと考えていい。


「4cmくらいってことは……20秒近いなら1000mは確実にありますよ」


三好は当時の俺と大体同じ計算をして言った。空気抵抗係数も鉄筋じゃかなり小さいし、質量はかなり大きい。


「トレーラー一台分のD41が高さ1000mオーバーから突然落下してくるんですから、そりゃ普通じゃないモンスターでもやられちゃいますね」

「たぶん油断しまくりだったろうしなぁ。仮に硬さがあっても殴り殺されるレベルだ」


最初の一発がヒットすれば、何かを考える暇もなく次々と致死レベルの物理攻撃が降り注ぐのだ。

できたばかりの深深度ダンジョンで、いきなりそんな攻撃が発生するなんて、考えもしないだろう。


「そんな深層にいるエンカイみたいなヤツが相手だとしたら、高SPも当然です。それで世界1位の経験値を得て、ついでにメイキングもゲットってわけですか」

「まあな」

「そりゃ、誰にも知られず突然1位になれるわけです」


三好は、やっと納得がいったという顔をしてそう言った。


「でもそれって、JDAに記録されてるんじゃないですか?」

「発生後1時間で消滅する深深度ダンジョンがか? そりゃミステリーだったろうな」

「今度聞いてみましょう!」

「いや、やぶ蛇になるからやめとけって。仮に記録されていても、単なる機器のエラーとして処理されてると思うぞ」


何しろ状況が異常すぎるし、証拠もないのだ。


「まあ、検証できませんもんね」


実は半分地面に埋まっているトレーラーがあったはずだから、検証しようと思えばできたんじゃないかとも思うが、あの件は特にニュースにもなっていなかった。

そこここで起こった、地震に伴う交通事故のひとつであり、社会的には、すでに忘却の彼方と言ったところだろう。


三好はスッキリした顔で、少し遅くなった朝食の用意を始めた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇


その日、渋チーは、朝10時になる少し前に、本蓮沼の国立スポーツ科学センターを訪れると、すぐ近くにある陸上競技場へと案内されていた。


「しかし、まさか最短が日曜日だとは思いもしなかったぜ……」


林田があくびをしながらそう言った。

東が興味深げに周りを見回している。


「へー、ここがナショナルトレーニングセンターか」

「トラックにも屋根があるんだな」

「一部だし、簡単に吹き込んで来そうだけどね」


トレセン内に渋チーが足を踏み入れると、そこには大勢の人間が集まっていた。


「本日は、ご足労頂きましてありがとうございます」

「はいはい」


八塚と名乗った女性が、吉田と名乗った男と一緒に頭を下げた。

他には何人かの男女が様子を見るように遠巻きにしていた。


「あの人たちは?」

「ああ、陸連の偉い人達です。一応その目で確認したいとのことで」

「ふーん。じゃ、あのカメラは?」

「日ノ本TVの取材です。ダイヤモンドリーグ権利者の関係で……拙いでしょうか?」


八塚がおそるおそるそういうと、喜屋武が笑顔でカメラに向かって手を振って言った。


「いやいや、全然。な、林田」

「お前な……まあ、面倒にならなきゃ別に構わない」

「ありがとうございます」


「おい、さっさと済ましちまおうぜ」


ダイケンが遠巻きに見る連中を見ながらそう言った。

彼は、ただの記録会だと聞いていたのに、人の目がありすぎて落ち着かなかった。

積極的に喜んでいるのは喜屋武くらいだ。


「じゃ、まずはトラック競技からか?」

「はい、短距離からお願いします。まずは100mで」


「100mねぇ。うちで一番足が早そうなのはデニスか?」

「うーっす。ご氏名承りましたー。じゃあ、走るっすよ」


デニスは、借りた陸上用のシューズを履いて、少し屈伸すると早速スターティングブロックへと足をかけた。


「Set!」

「すみません。セットって何ですか?」

「え?」


その質問に驚いた八塚は、クラウチングスタートの方法と、スタート時のお約束をデニスに説明した。


「ああ、用意ドンの用意ってことっすか。了解です」


on your marks で位置に付き、setで腰を上げて、スターターピストルが鳴ればスタートだということを聞いたデニスは、もう一度スタート位置に付いた。


「Set!」


デニスが腰を上げた様子を見て、吉田は、彼がクラウチングスタートを練習したことがないことに気がついた。体重のかけ方がでたらめなのだ。

クラウチングスタートは、足を伸ばす力を前へ進む力へと変換するが、それはあくまでも姿勢の移行をスムーズに行った場合で、それには正しい練習が必要だ。そうでなければスタンディングの方が早かったりすることもある。

これだけでコンマ何秒かの差が生まれるのだ。


「これじゃタイムは出ないだろうな……」


そう呟いた瞬間に、スターターピストルの音が鳴り響き、デニスがスタートを切った。

思った通り、姿勢の移行はぎこちないものだった。だが、ゴールしたのは妙に早かった気がした。


その時、隣にいた八塚が大きく目を見開いて吉田の脇腹を肘でつついた。吉田が振り返ると、八塚の指は震えながら今日のためにメーカーが持ち込んだトラックタイマーを指差していた。


「よ、吉田さん……あれ」


そこには、とんでもない数値が表示されていた。


「えっ?! 9秒46?!」


観戦者から、驚いたようなどよめきが上がる。


「そんな馬鹿な! スタブロの使い方も姿勢の移行も、あれほどグダグダなのに、そんなタイムが?! か、風は?!」


超音波風速計の数値は、-1.2を示していた。


「む、向かい風?!」

「10m毎のスプリットタイムも計測してありますから、後で確認しましょう」

「あ、ああ……そうだな」


スタート地点では、デニスが叩き出したタイムを見て、東が手を叩いて喜んでいた。


「おおー、デニスやるじゃん。で、あれって速いの?(*3)」

「さあな。でもあのくらいなら俺にも出来そうな気がするな。おい、林田! 俺にも走らせろよ!」


喜屋武が林田に向かって要求すると、林田は苦笑しながら頷いた。

まあ、大体こうなるとは思っていたのだ。


「しゃーねーな。すみませーん! 他のやつも走って良いですか?」


声を掛けられた八塚は、コクコクと頷いた。


それを見て喜屋武は、「よっしゃー! なっちゃう? ヒーローに!」と腕を回しながらスタートブロックへと足をかけた。

日ノ本TVのカメラが、その一部始終を捉えていた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇


「この間、高田さんが言ってた通りになりましたね」


事務所の居間でTVを見ながら、三好が静かにそういった。

TVの中では、今しがた終了した別府大分毎日マラソンで、注目されていた不破正人が、ブッチギリのタイムで勝利して優勝インタビューを受けていた。


「それでは不破選手。まずは、優勝おめでとうございました」

「ありがとうございます」


「それにしても、驚異的な記録でしたね。2時間0分43秒。従来の日本記録を、なんと5分も縮めて堂々の世界記録です。それまでの不破選手の自己ベストは、2時間8分21秒ですから、なんと、ほとんど8分近く更新されています」

「先週の大阪国際で高田選手がやはり自己ベストを8分以上縮めて世界記録を作られました。前日にはおふたりで東京にいたとの情報もありますが、なにか関連があるのでしょうか?」

「まずは僕のことを聞いて下さいよ」


不破は笑いながら冗談めかしてそう言った。


「あ、これは失礼しました」


「これで不破さんもグランドチャンピオンシップへの出場権を手に入れたわけですが、やはり最終的な目標は来年のオリンピックでしょうか?」

「そうですね。オリンピックもいいんですが、これからはちょっと違うこともやってみようかと……」

「え?」


インタビュアーが素で疑問符を浮かべてしまった。

聞きようによっては、20歳で世界記録を更新した選手が、世界選手権にもオリンピックにも出ずにマラソンから離れるかのような言い方だったからだ。

それに気がついた不破は、慌てて付け足した。


「いや、ほら、大学卒業まで、まだ2年もありますから、いろんなことにチャレンジしてみたいなと、まあ戯れ言ですよ」

「これからの選手が、いきなりマラソンをやめられるのかと驚きましたよ」

「ははは」


少しおかしくなった空気を元に戻そうと、インタビュアーはお茶の間向けの話題を振った。


「そうえば、先日大阪国際で優勝された高田選手との噂が報じられていますが、実際のところはどうなんですか?」

「え、ほんとに? もちろん高田さんは怖い先輩ですけど、それ以外は特に……あ、強いて言えばトレーニング仲間でしょうか」

「おふたりで何か特別なトレーニングを?」

「ええまあ」

「ええ? それはどのような?」

「そこは、秘密トレーニングと言うことにしておいてください」


不破は茶目っ気たっぷりにウィンクをして見せた。


「わかりました。突然世界記録を叩き出しちゃうようなトレーニングでは仕方ありませんね」


インタビュアーは笑いながらそう言った。

カメラの向こうでADが巻きを指示しているのが見える。そろそろしめようと彼女は最後の台詞を言った。


「それでは不破選手、最後に何か一言お願いします」


そう言われた不破は、一歩カメラの方へ乗り出すと、拳を突き出していった。


「キャシー教官! やりました! ありがとうございました!」

「え? ええ? ちょっと待っ――」


そこでカメラはスタジオへと返された。


「あ、中継が切れたようですね。別府大分毎日マラソンを世界記録で優勝された不破選手の喜びの表情をお伝えしました」


そうして番組はCMに入った。


「なあ、三好。あれって、もしかして」

「不破選手も高田選手も、26日のキャンプ参加者ですよ。まさか翌日に国際大会があったとは思いませんでしたが」

「マラソン前日に、ブートキャンプを受講するって、スポーツ選手ってバ……どっかおかしいのか?」

「でも世界記録で優勝しちゃいましたよ?」

「だよなぁ……しかし、よく余剰SPがあったな」

「お二人とも大学入学と共に、真面目に代々木に通われていたみたいですよ。だから最初のキャンプメンバーに選んだんですけど」

「しかし、こいつら、本当に代々木攻略に力を貸す気なのか?」

「それは……どうですかねぇ? 最前線は無理だと思いますけど」


とは言え、俺たちも最前線はやばいんだよなぁ……マイニングの件があるから。これほど足枷になるとは、取得したときは想像もしていなかった。

しばらく世の中はセーフエリアの開発にかかり切りになるだろうし、俺たちにもやることは沢山あるからいいが、そのうちどうにかしないとなぁ……やっぱり物理量方式を試してみるべきかな、横浜の3層あたりで。

4時間に1度しかリポップしないボスフロアなら、仮に失敗して鉄になっても被害は少ないだろう。


「あ、先輩。そろそろ出ないと、遅くなっちゃいますよ」


スライムテストの薬液は、範囲が広すぎて、思ったよりもはるかに多種類に渡ることになった。

おかげでそろえるのに、今日の午前中いっぱいまでかかったため、ついでに注目のレースを見ていたというわけだ。


「そうだな。じゃ行くか」


俺はTVの電源を落として立ち上がった。


今後の攻略に大きな影を落とすかと思えたマイニング問題は、この後、思わぬところで解決することになるのだが、それはまだ少しだけ先のことだった。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇


「しかし、トップエンドの探索者というのは凄いものですね」


記録会が終了した後、国立スポーツ科学センターの一室では、JADAのアスリート委員会と学術委員会合同の検討会が行われていた。


「確かに、100mと200m、そしてマラソンに関しては、まだまだ世界記録が大幅に伸びる可能性があると、以前、SMUのワイアンド博士(*4)が仰ってましたが……」


この季節にしては異例のことに、最高気温が20度近くまで上がったこの日、高コンディションとは言え、渋チーたちが叩き出した記録は異常とも言えるものだった。

その一覧を見ながら、物腰の柔らかそうな男がそう言った。


長距離は時間の関係で計測されなかったが、計測した短中距離および、フィールド競技ではほとんどが世界記録かそれに近い結果が記録されていたのだ。


「坂上さん、感心するのは分かりますが、ワイアンド博士の発言は、栄養学、生体力学、医療支援、指導法、リアルタイムのデータ収集といった幅広い領域で科学的な知見を積み重ねることで、身体能力の向上を目指すという大がかりなものですよね」


学術委員の坂上が発した能天気な台詞に、神経質そうな男がメガネの蔓を弄りながら言った。


「この記録をマークしたのは、何の練習もしていない、言ってみればただの素人ですよ?」

「素人というのはどうでしょうか。彼らだって探索者の世界ではトップレベルにあるわけですから、単に訓練の質が違うと言うだけでしょう? 大地を毎日、ただ駆けていただけの高地民族が、陸上競技で凄い記録を叩き出すことはままあったんじゃないですか?」

「現在とは走る技術に差がありすぎますよ。それなしでトップを争うのは無理でしょう」


そんな話を聞くとはなしに聞きながら、三塚と共に記録会を進めていた吉田は、自分の現役時代を思い出していたのだろう、それを受けてぽつりと呟いた。


「しかし、これは……真面目にトレーニングしてきた選手は驚愕するでしょうね。屈辱を感じるとまで言えるかも知れない」


三塚は議長に向かって記録表を掲げ、結論を告げた。


「結果は明らかでしょう。同じ技術を持っているなら、ダンジョンプレイヤーに、ノンダンジョンプレイヤーは絶対に勝てません。もしかしたら勝負にもならない可能性さえあります」


彼女はそれを目の前の机の上に放り出すと続けた。


「今までそれが問題にならなかったのは、トップレベルのアスリートは練習が忙しくてダンジョンに潜る暇などないし、トップレベルの探索者はダンジョンに潜るのが忙しくて、本格的にスポーツを行う暇がなかったという、ただそれだけのことだと思われます」


議長の隣に座っていた、がっちりした体格の年のいった、浦辺という男がそれを受けた。彼はアスリート委員会の重鎮だ。


「両方をやっていたものはいたが、それだとどちらも中途半端で、そこそこの成績にしか繋がらなかったということか」

「何しろダンジョンが出来てから、まだ3年しか経っていませんから」

「高田や不破のような選手は、他にはいないと?」


浦辺は委員を睥睨(へいげい)しながらそう尋ねた。


「若い選手には、彼らのような選手がいる可能性はあります」


三塚は説明を続けた。

高田や不破は、丁度ダンジョンができた頃大学へ入学して、興味本位で代々木へ通っていたという点で共通していた。そうして、それによって徐々に記録が伸びるということに気がつき、ダンジョン探索を練習の一環として独自に考えていたふしがあった。


「ダンジョンができた当時、大学入学前後の世代には、同じ事を考えているアスリートがいてもおかしくありません。ダンジョンブームもありましたし」


今ひとつ納得のいかない浦辺は、疑問を口にした。


「しかし、高田や不破だって、先日までは有望とはいえ普通の選手だっただろう」


その質問には、三塚に代わって吉田が答えた。


「聞き取りを行った結果、突然成績が伸びた原因は、これだとしか思えません」


そう言って吉田は、委員の前に置かれている資料の中にある、とあるサイトの抜粋を持ち上げた。


「ダンジョンブートキャンプか……しかし、あれは本来、ダンジョン攻略のための訓練プログラムだろう?」

「ブートキャンプの説明によると、ダンジョンで得られる何らかの力は、何もしなければ蓄積されるだけで、自然に強化される部分は最高でも50%、場合によっては数%しか使用されていないそうです。しかもどんな力が強化されるのかは行動に依存していて、任意には選ぶことは難しいのだとか」

「正しい訓練を行うことによって、その溜まっている力を引き出すと言うことか?」

「そう言うことらしいです。探索者の潜在能力を引き出すためのプログラムなんだとか」


それを聞いた瞬間、坂上が思わず吹き出しながら言った。


「クンダリニー・ヨーガですか」


Dファクターをプラーナと言い換えるなら、それは、あながち間違いでもなさそうに思えた。


「古代インドあたりの怪しげな秘技みたいに聞こえますよ、それ」


坂上の台詞に、参加者からは、失笑めいた笑いが漏れた。


「つまり、ブートキャンプを受けても、それまでに蓄積された探索者としての潜在能力がなければ効果は薄いと言うことか」

「逆に言えば、ダンジョンを練習に組み込んでいた選手は、このキャンプを受講することで、一躍世界のトップ選手になることが出来る可能性があります」


吉田の声に、会議室が静まりかえる。

アスリートたちにとって、そのことは何にもまして重要だったからだ。


「不破や高田の記録は、たった1回ブートキャンプを受けた前後で大きく変わっています。サブ2アワープロジェクト(*5)も、このことを知ったら平常心ではいられないでしょう」


渋チーの記録を見た指導者たちの興味は、すでにダンジョントレーニングへと向かっていた。

高地トレーニングがドーピング扱いできない現状、ダンジョントレーニングをドーピング扱いするのは無理だというのが共通の認識ではあったが、それでもそれをよく理解できない指導者の中には、いい顔をしないものが多かった。


だが、出てきた記録がその全てを吹き飛ばした。

これに乗り遅れたものは、今までどんなに栄光の時間を過ごしていたとしても、一瞬で過去の遺物にされることは間違いない。


「……それで、費用はどのくらいなんです?」


おそるおそるといった感じで、30代の女性指導者が手を挙げた。


「不破と高田は3万円だったそうです」

「3万円?! それで世界記録?」

「もっとも、組織枠だと3万ドルだそうです」

「なんだその違いは……」


あまりの料金差に、驚いた委員が呟くように言った。


「しかし3万ドルでも安くないですか? 世界記録に支払われる報奨金を考えれば」


吉田の言葉に、アスリート委員たちはなるほどと頷いていた。


「しかし、応募してもすさまじい倍率で、選考されるのはそうとう難しいそうですよ」


それを聞いた浦辺は、こいつらは権力の使い方をちゃんと学んでないのかと呆れていた。


「日本陸連で、そのキャンプの枠を押さえることができるんじゃないのか? こういう時のために献金しているわけだろう?」

「浦辺さん、ちょっと待って下さいよ。陸連というところは聞き逃せません。そういうことなら水連だって手を挙げさせていただきますよ」


浦辺の台詞に議長が割り込んだ。浦辺は陸連の出身だが、議長は水連の出身なのだ。


日本のスポーツ団体は非常に複雑だ。

以前はある程度、公益財団法人日本スポーツ協会(いわゆる体協)がまとめていたが、1989年に日本オリンピック委員会が体協から独立したため、国体やアジア競技大会は体協への参加が必要だが、オリンピックはJOCへの参加が必要になった。

さらに、国際競技連盟主催の国際競技大会へは、体協へ加盟していなくても、直接当該競技の国際行儀連盟に加盟していれば参加できる。もはや一般人には訳の分からない状態なのだ。


「各競技団体がバラバラに申請しても、影響力が薄まってしまいませんか? 体協やJOCに依頼した方が……」

「しかし体協やJOCがとりまとめてその席を確保しても、加盟団体は軽く50を越えるでしょう。各競技の連盟や協会に等しく枠が回ってくるんですか?」


カンカンガクガク様々な人間が、自分の出身の競技団体の利害を代表して声高に主張を述べていた。

学術委員たちは呆れたようにそれを見ていたが、エスカレートするばかりで収束しそうにない議論に、坂上が待ったを掛けた。


「まあまあ、みなさん、落ち着いて下さい。この問題は、おそらく、最終的にはスポ庁預かりで、実際の管理は日本スポーツ振興センター辺りがやることになるんじゃないかと思います。各競技への割り振りについては全体の数が出てから改めて話し合えばいいでしょう」


なにしろここはJADAの会議ですから、と彼はさりげなく当てこすった。


「それで、結局議員の先生たちにお願いするわけですか?」

「日本のためだと言えば、国会の先生方も断りにくいだろう。それに、大して後ろ暗い話でもないわけだし、ここで力を貸しておけば来年のオリンピックの立役者にもなれる」

「そりゃ、食いついてきそうな方もいそうですね」


こういう会議をしている者たちには共通の錯誤があった。

それは政治マターにしてしまえば、なったも同然であり、相手の都合などお構いなしで自分達の考えの通りになるという、通常ならあり得ない発想だ。


しかしそんな中に、こいつらもしかしてバカじゃないのかと、その議論をスルーしていた男がいた。

菅谷(すがたに)恭也(きょうや)34歳。現役時代からアウトロー扱いされていた男で、なまじ実績があっただけに、あちこちに厄介者扱いされたあげく、こんな委員会に放り込まれてくすぶっていたはぐれものだ。


これはJADA、日本アンチドーピング機構の専門委員会だ。

アスリート委員会は、アスリートの視点からドーピング検査や教育活動などの助言や提案をするのが仕事だし、学術委員会は同様にドーピング検査や教育活動に関する調査研究を審議する委員会なのだ。


「それがなんでこんな話になってんのかね……」


しかも争っている事柄自体もおかしい。球技ならいざ知らず、目の前にあるのは陸上の話なのだ。1年で選手をダンジョンに馴染ませるくらいなら、すでに最初からダンジョンに馴染んでいる連中に競技の基礎技術をたたき込む方が早いのは自明の理だ。

記録会の記録を見てもその方がずっと効率が良さそうだ。こいつらを選手として登録しただけで、世界記録は続出だ。ただし、今なら、だろうが。

しかし、ここで議論をしている連中には、すでに自分達が預かっている選手たちがいて、それを切り捨てるということが難しいのだろう。

しかしこの男は違っていた。


「潜在能力か……」


その男は渋チーたちが出した記録の一覧を眺めながらそう呟いた。


こうしてこの日、日本スポーツ界は、不幸にもブートキャンプへの参加を政治マターにしてしまったのだった。


*1) ファストレポート fast report

今世紀に入ってマスコミでは、fastがファストで、firstがファーストと表記される。ちょっと気持ち悪いが、合理的と言えば合理的か。区別できるし。

因みに、業界団体の日本フードサービス協会では「ファーストフード」表記。日本人の大部分も「ファーストフード」表記。


*2) 6話「三好梓 Lady's Kisses 9/28 (fri)」のラストシーン

ちなみに、Lady's Kisses は、バーチ・ディ・ダーマの単なる英訳。当時、どう日本語に翻訳するのが相応しいか悩んだあげくに英訳した。


*3) Q.あれって速いの? A.ウサイン・ボルトの9秒58が世界記録です。


*4) Dr.Peter Weyand / サザンメソジスト大学運動能力研究所所長, 2018


*5) the Sub-2-Hour marathon project

ワイアルド教授も参加している、イギリスに本拠を置くマラソンンで2時間を切るぜーというプロジェクト。

サイトもあるよ。 https://www.sub2hrs.com/


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書籍情報
KADOKAWA様から2巻まで発売されています。
2020/08/26 コンプエースでコミックの連載始まりました。
作者のtwitterは、こちら
― 新着の感想 ―
[良い点] 各種知識量が凄い!というか好奇心?ちゃんと、知識詳細が話しの中に活かされてる!
[一言] あ~あ、一番やっちゃダメなやつ~(笑)
[気になる点] 三好とか三代とか三塚とか、名字に三のつく人が多い……のか? なんとな~く気になるというか、目につきます
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