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異界山月記 ‐社会不適合女が異世界トリップして獣になりました‐   作者: 空飛ぶひよこ
第三章

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獣と逃走6

 獣が、泣いた。

 声もあげず、顔を歪めることもなく、ただ涙腺を決壊させたかのように、静かに涙を溢した。

 

 

 ザクスは冷たい無表情の下で、内心非常に戸惑っていた。

 図太い獣のことだ。ザクスがここまで言っても、いつものように反発してくるのだと思っていた。

 怒り狂い、エネゲグの輪の存在も忘れて攻撃を仕掛けてくるだろうと構えていた。それならば、自分が主であることを思い知らせるべく、徹底的に叩きのめしてやるつもりだった。

 

 こんな反応は、完全にザクスの想定外だった。

 

 

 獣の視線が、不意に何もない宙へと向けられる。その目が先程までとは打って代わって、生気を感じさせない暗いものに代わっていることに気がついて、ザクスは息を飲んだ。

 獣が、消えてしまう――なぜかそう本能的に感じたと共に、左手に激痛が走った。

 

「……っ」

 

 余りの痛みに、小さく声が漏れた。

 痛みの根源を確かめるべく左手を見てみると、紫色に変色した薬指とそれを締め付ける指環が目に入った。

 

 

(まさか、これを泣き止ませるのも『庇護』に入るというのか…!?)

 

 ザクスは愕然とした。

 人との関わりが希薄だったザクスは、泣いている人を慰めたことも、泣いている時に慰められた経験もなかった。

 人前で泣くのは恥だと、そう思って生きてきたザクスが、獣の涙を止める術など知るはずがない。

 

 どうすれば良いか分からず狼狽えている間も、指環はザクスの指を千切らんばかりに締め付けてくる。締め付けは強くなる一方で、つと汗がこめかみの辺りを流れ落ちた。

 

 

(――そうだ、確かに一度だけ)

 

 一度だけ、泣いている所を慰められたことかある。

 ザクスは眠っていた、遠い昔の経験を、記憶の彼方から掘り起こした。

 

 

 それは、大叔父に当たるジーフリートを訪ねた幼い頃だった。

 ザクスは父に叱責され、一人ネウトの森で隠れて泣いていた。

 何が原因だったかは、覚えていない。恐らくはザクスの能力に関することだったのではないかと思う。

 

 悔しかった。

 

 悲しかった。

 

 消えてしまいたい、と情けないことを考えた。

 

 

 そんな自分の傍に、いつの間にかジーフリートが立っていた。

 慌てて涙を隠そうとしたザクスに、ジーフリートは優しく笑んで…

 

 

(確か、こんな風に)

 

 ザクスは虚空を見つめる獣の頭に、躊躇いがちに手を伸ばし、

 

 

 ぎこちない手つきで頭を撫でた。

 

「…泣くな」

 

 そう、ぶっきらぼうに言い放ちながら。

 

 

 その瞬間、獣の目に生気が戻った。

 丸く見開いた目がザクスの方を向き、獣は数度瞬きをした。

 そして次の瞬間、くしゃりと獣の顔が不細工に歪んだ。

 

 

 獣があげた泣き声は、産声に似ていた。

 獣も生まれた時、人間の赤子同様泣くのか、ザクスは知らない。

 だがザクスは獣の泣き声に、恥もプライドも何もない、感情にただ身を任せる幼児特有の純粋さを感じた。

 耳障りなくらい声は辺りに響いたが、不思議と不快には感じなかった。

 

 

「うわっ…!!」

 

 獣が突然ザクスに突進して来て、反応が遅れたザクスはそのまま地面に倒れ込んだ。獣は倒れたザクスの上に覆い被さり、泣きながらザクスの胸に顔をすりつけてくる。

 

「……重いっ!!どけろっ、デブ猫っ!!」

 

 獣の下で叫ぶが、泣くことに夢中な獣の耳には届かない。

 涙やら鼻水で服がぐちゃぐちゃに濡れていくのを感じているうちに、呆れて何だか気が抜けてしまった。

 いつの間にか指の締め付けもなくなっていた。

 

(まるで、子供だ)

 

 今度は躊躇うことなく獣の頭に手を伸ばし、存外手触りの良いその毛並みを撫でながら、ザクスは嘆息した。

 自分と同じくらいの立派な体格をした、大きな幼児。

 

(――いや、もしかしたらそうなのかも知れないな)

 

 魔獣は生態を知られていない。普通の肉食獣の成獣と同じ大きさの子供がいても不思議ではない。

 それならば、あの魔力コントロールの下手さも納得が出来る。種族を問わず、未熟な個体が魔力コントロールを失敗することがしばしばある。魔力と感情は時に連動する。コントロールの失敗の要因は感情の起伏であることが多い。

 もしかしたら魔力の大きさ故に、感情が制御出来ないうちは、自在に魔力コントロールを出来ないようになっている種族なのかも知れない。あの魔力で不安定な感情のままに魔力を行使出来たとしたら、恐ろしいことになる。

 

(そうか。ならば感情を不安定にさせないよう、俺も接し方を変えなければならないな)

 

 

 

 ザクスがそんな風に勘違いして勝手に納得していたことを、ひたすら泣き続けている葉菜は、まだ知らなかった。

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