獣と逃走4
底冷えするような声で告げられた言葉に、葉菜はびくりと体を震わせた。
「単に魔力コントロールが出来ないだけならまだしも、こんな風にこそこそ逃走しようとするとはな」
「…………」
「真名による正式な契約を放棄しようとするとは、流石の俺も思わなかった。魔獣は誇り高き生き物だと聞いていたのだがな。どうやらお前には当てはまらないらしい」
「…望んだ、ちがう…」
「自分が望んだ契約でないから、魂の盟約を無視しても良いとでも思うのか?ほいほいと真名を名乗った自分の無知は棚上げにして?……本当に空っぽでめでたい頭だな!!」
嘲笑うかのようにして告げられた言葉に、葉菜は身を起こし、臨戦体制の状態で牙を剥く。
勝手に結ばれた理不尽な契約を、投げ出して何が悪い。異世界から来たのだ。無知で当たり前ではないか。
ザクスはそんな葉菜の様子を鼻で笑った。
「ああ、お前に誇り云々諭すだけ無駄か。お前に誇りなんかあるわけないな!!そんなもの期待するだけ愚かだ」
「―黙れ」
「怠惰で向上心もなく、僅かばかりの与えられた才に胡座をかいて。自分に優しくしてくれる相手だけに、甘えて媚びて」
「黙れ黙れ黙れ」
「常に楽をすることだけを考えて、辛いことからは逃げて。嫌なことからは耳をふさいで。そうやって生きてきたのだろう?そうでなければ、そうも自分に甘くなれるはずがないものな!!情けないと思わないのか」
「うるさいっ!!お前に私の何が分かるっ……!!」
美しいザクス。
剣聖と讃えられる、才能に溢れるザクス。
帝国の皇太子という、限りなく高貴な地位にあるザクス。
異世界の人間ということを除いても、これ程恵まれた人間に、持たざるものの気持ちなんて、わからない。
報われるかも分からない努力を重ねても、それでようやく「人並み」にしかならない未来を見据える虚しさを、ザクスはきっと分からない。そんな風な劣等感を、きっと彼は抱いたことはないだろう。
その虚しさに直面したくないが故に、努力を放棄する自分はけして褒められたものではないことくらい、分かっている。
分かっていても、あまりに出来ないことが多過ぎて、いつだってその虚しさに押し潰されそうだった。だから、葉菜は自分の心を守るため、ずっと逃避の道を選んで生きてきた。
その結果、僅かな成長の可能性が潰れ、ますます葉菜の劣等感は増大し、それを克服する為にこなさなければならないツケは雪ダルマ式に増えていく。そしてそれに押し潰されないが為に、再び逃避に走る。
どうしようもない、負の連鎖。それでも、24年間で培ったその鎖から、葉菜は縛られ抜け出せない。
もうそれで良いと、諦め望むのをやめたのはいつだったか。
異世界に来てからは、会社のように叱責する上司もいない分、そんな自分を忘れられた。ただ生きることだけに必死で、そんな自分のことを考える余裕はなかった。
たがザクスはそんな葉菜の悪癖を引きずりだし、突き付ける。
「分からないな。分かりたくもない」
葉菜の叫びを一刀両断し、近付いてきたザクスが葉菜の首輪を掴みあげる。
絞まる首輪がザクスから視線を反らすことを許さない。
「だが、俺はお前の主だ。お前を躾る業務がある」
ザクスの無機物を見るかのような目が、獣の姿の葉菜を写す。
冷たい目だ。
葉菜の意思を、権利を、存在を、全て否定する目だ。
「怠惰なお前に主として、一挙一動命令してやる。その曲がった性根がなおるまで。否、契約が続く限り永遠に。お前がどう思おうが関係ない。自分で有用に動けないなら、ただ駒として言われるままに俺に従い役に立て――屑」




