獣と逃走3
抜き足、差し足、忍び足。
意識せずとも完全に足音を消せる、自身の身体強化魔法の強さに、内心自画自賛する。
これは人間の状態ならスパイになれるレベルでないだろうか。
白虎の状態では目立ってしょうがないが。
(しかし、相変わらず誰もいない屋敷だな)
僅かな人の気配も感じない、静まりかえった屋敷の様子に、葉菜は内心呆れる。
葉菜が後宮に来てから、見かけた人物はザクスを除いては、リテマとウイフ、あと名前も知らないヘタレ調理師のみだ。
正室も側室もいないとはいえ、仮にも皇太子が寝泊まりする邸に兵士がいないということは問題だと思う。メイドにしても、リテマしかいないというのはどうなのだろうか。リテマが葉菜の世話をしている間、誰がザクスの世話をしているのか。
(まあ、ザクス人間苦手そうだしな)
そう考えて、一人納得する。
葉菜もたいがいコミュニケーションは苦手だが、言葉よりまず手が出るようなザクスが人間関係を円滑に進められるとは思えない。
人間が苦手というか、人間不振な雰囲気すらある。恐らくは本当に信頼出来る人間しか後宮に据えおいていないのだろう。
セキュリティ的に不安だが、そこはファンタジーの世界。高機能なセ○ム的な魔法がなにかしらあるのではないか。
気を張らなくても、あっさり誰にも遭遇せずに出口へと到着する。
特に複雑でもない錠を開くと、簡単に外へ出られた。
(――すると、ザクスが待ち構えている、と)
扉を出るなり、鬼神もかくやの恐ろしい形相で腕を組んで門の壁に寄りかかっていたザクスが目に入り、即座に回れ右をしたくなる。
ある程度予想はついていた展開だが、それでもビビるものはビビる。
もう少し自由への逃避行を期待させてくれても良いのではないか。
ザクスの怒りに満ちた目が、葉菜を射抜くかのように向けられる。
「………月が美しい、良い夜だな。くそデブ猫。こんな夜分に外へなんか出てどうした?」
「……さんぽ」
怒りがこもった凄惨な笑みで告げられた言葉に、葉菜はそっぽを向いて返す。
「珍しいな、走り込みすら身体強化を使うような怠惰な駄猫が自分から体を動かそうとするとは」
「そういう時も、ある。月、きれい」
「そうか…ところで、知っていたか?エネゲグの輪はな、契約によって結ばれたものが勝手に傍を離れようとすると、赤く発光するんだ。――こんな風にな」
そう言って掲げされたザクスの左手の指輪は、救急車かなにかのサイレンのように赤い光を放っていた。
(へー。ほー。初めて知りました。)
葉菜はそっぽを向いたままその場にしゃがみ込み、ペロペロと自身の腕を舐めて毛繕いをはじめる。
可愛さで誤魔化そうとしているわけでは、ない。そんなものがザクスに通じるわけがない。
単に、遠回しに嫌味を宣うザクスへ対する反抗だ。人間の姿なら、指で耳をほじってみせただろう。
罪悪感の欠片もない葉菜の態度に、ザクスのこめかみに青筋が浮くのが見えた。
「――本当、お前には失望させられる」




