獣と逃走1
(なにやってるんだろう、私)
ようやく一人になれた寝室。
ふかふかのベッドに寝転びながら、月明かりでぼんやりと見える天井を見上げながら、一人ごちる。
望んだわけではないが、はるばる異世界まで来て、虎にまで変わって、魔力まで予期せず手に入ったのに、駄目な自分は何にも変わっていない。
(環境が変われば人が変わるってのは、嘘か)
大学時代、変わりたくて二週間の短期海外語学留学をした。
ホームステイ先にも、一緒に留学した日本人にも馴染めず、与えられた離れに引き込もって現地のスーパーで買った酒とつまみで晩酌していた。
別に語学力もそう向上しなかった。
社会人時代。変わりたくて田舎から出て、都会に就職した。やっぱりあんま外に出かけず、半引きこもりの休日だった。
コミュニケーション向上になるかとはじめた接客業は、ただ辛いだけで、人と話すのはますます苦痛になった。仕事では信じられないドジと成長の無さに、会社史上一番の駄目社員と評された。
そして、ついに異世界でも駄目っぷりを晒している。
残された道はもう死んで生まれ変わるしかない。
(あ、それ異世界転生チートものっぽい)
輪廻転生があるのか分からないが、もしかしたらそれでも葉菜の駄目さは変わらないのかもしれない。というか、そこまで行ってしまったら、最早葉菜は、葉菜ではないかもしれない。
楽に生きたい。
楽にしてて、普通に生きたい。
誰かに愛されたいなんて大それたことは求めない。
ただ蔑まれたり、見下されたり、害されたりしなければ、それでいい。
そんな贅沢な望みだろうか。
(自分が穢れた盾だと名乗れば、楽になるのか)
ただ、魔力を供給するだけなら、簡単に出来るかもしれない。
訓練のたび、ザクスの冷たい視線にさらされて惨めな気持ちにならなくていい。義務のように魔力を捧げて、あとは好きなように生きればいい。
だけどその為には、自分が虎に変わったことを告げなければならない。
それをザクスに知られるのは、葉菜には躊躇われた。
(なんていうんだったかな…『尊大な羞恥心と、臆病な自尊心』?)
葉菜は山月記にあった、有名な一説を思い浮かべる。
使い方があっているのか分からないが(あれは創作活動に関して述べた言葉だから間違っている可能性が高い)、何となく今の葉菜の気持ちにしっくり来る。
自分の醜さ故に虎に変わったことを知られたくない。
虎の姿に甘んじ、あざとく可愛らしさなどをアピールしてみたり、無知を強調させたことを知られるのが屈辱的だ。
虎の姿で生きることを哀れまれたくない。
葉菜の中での自尊心と羞恥心が、自分が元々人間であることを知られるのを許さない。
今のままでも十分惨めなのだから、何を今更と言われるかも知れないが、相手が自分を虎だと思っている状況と、人間だと知られている状況では、惨めさの感じ方が違う。
(改めて考えてみると、あの森はある意味理想郷だったのか…)
葉菜は少し前までの、一人で森で過ごした日々に思いを馳せる。
ふかふかのベッドも、リテマのマッサージ付きお風呂も、贅沢なご飯もない。
だけど葉菜は葉菜のまま、向けられる視線に一喜一憂することもなく、のびのび生きれた。
誰にも関わらずに、ただ一人だけで。
あれが、本当の意味で、葉菜が望んでいた生活ではなかったのか。
唯一、誰にも煩わされず楽に生きられる方法ではないのか。
(帰りたい)
切実にそう思った。
あの森に帰りたい。
こんなところ、もういたくない。
逃げ出したい。
(――てか、逃げちゃえば良くね?)
葉菜は突如浮かんだ考えに、ガバリと身を起こした。
そうだ、逃げればいい。逃げていい。なんで自分は律儀にザクスの期待に応えようとしているのだ。
そもそも一方的に騙し討ちのようにして結ばされた契約だ。葉菜が負い目を感じる必要はない。
ザクスに逆らえば首輪は締まるが、逃げるなとは言われていない。
ならば、もしかしたらザクスの命令が届かないところにいけばセーフなのではないだろうか。
ザクスに逃走を禁じられる前に、試してみる価値はある。
(よし、逃げよう)
そうと決まれば善は急げ。
計画なんか練っていたら、事は成せない。
どうせ成功確率は低いことなんてわかりきってる。計画なんぞ練っても同じだ。
それならば、考えるよりまず行動だ。どこかの偉い人もそう言っていた。
葉菜はベッドを飛び降りると軽やかな足取りで部屋を抜け出した。




