獣と契約
『――汝、真名をもってして、従属の意を示した。ならば我はその意思に応えよう』
『へ?』
いきなり凶悪な笑顔を浮かべた美形が(美形は顔を歪めても美形である)なんか、訳の分からないことを言い出した。
早口な上に、聞いたことがない単語ばかりで、葉菜には正直何を言っているかさっぱりである。
『我名はザクス・エルド・グレアム。東の地を統べる王となるもの。我はグレアムの名と魔剣イブムに誓う。汝が主となることを』
相変わらず何を言っているのか、分からない言葉を、朗々と詠唱しながら、男は下ろしていた剣先をまっすぐに葉菜に向けた。
(もしかして今更、攻撃をするつもりかっ!?)
ジーフリートの親戚と名乗ったのは、葉菜の油断を誘うための罠だったとうのか。だとすれば、今すぐ逃げなくてはいけない。
葉菜は後ろ足に力を込める。熱のようなものが足に集中し、筋肉が引き締まるのが分かった。こうすることで、人間にはけして追いつけ得ない速さで駆けることができるということを、葉菜は最初の狩りで本能的に知った。
100メートル20秒と、鈍足だった人間時代からは考えられない瞬発力である。これも異世界補正と考えるべきか。獣補正と考えるべきか。まあ、そんなことはどうでもいい。
全速力でその場から逃走を図ろうとした葉菜の足は、男のただ一声によって止められた。
『゛ハナ゛』
(う、動けない!!)
ただまっすぐに見据えられ、名前を呼ばれただけ。それなのに葉菜の体は膠着して、指一本動かせない。
さながら蛇に睨まれた蛙のようだ。
視線が勝手に男に固定される。向けられた男の瞳に愉悦が含まれているのが分かった。
(――捕食、される)
あれは、捕食者の眼だ。
獲物を狙う獣の眼だ。
全身に悪寒が走り、毛皮が逆立った。
『汝が求める庇護を与えられるだけ、与えよう。その代わり我に従え。その全ての能力を我に捧げよ。――これは違うことが許されない盟約である』
向けられた剣の先に、白い光が集中しているのが見えた。
なんと非現実な光景。
人が虎に変わるような世界だ。こんな光景も珍しくないのかもしれない。
集まった光は輪のような形になり、葉菜の頭上へと向かってきた。
得体のしれない現象に悲鳴をあげて逃げ出したくたくとも、体は相変わらず動かせない。
光は葉菜の方へとまっすぐに落ちてきた。葉菜の頭を、顔を通りすぎて、首もとで止まる。
『今、この時をもって、主従の契約が成されたことを、ここに宣言する!!』
男が剣を高く掲げて高らかに言い放った瞬間、カチリと何かがはまるような音が聞こえた。
目を開けられないほど首もとの光が強くなり、葉菜は思わず目を瞑った。
再び目を開いた時、順応した葉菜の眼が写したのは、首もとにはまった銀色の首輪だった。
『……さて、改めて自己紹介をしてやろう』
剣を腰元におさめた男が、ゆらりと葉菜の方向へ近づいてきた。
『俺の名は、ザクス・エルド・グレアム。グレアマギ帝国の第一皇太子にして、王位継承者だ。そして…』
ザクスと名乗った男が纏う雰囲気には、つい先刻までの優しげなやわらかい雰囲気が欠片も見えない。
一言でいうならば、「傲慢」
上に立つものの、人を従うもののオーラだ。
ザクスは心底愉快そうに、口端を吊り上げて笑った。
美貌の悪魔が笑ったら、きっとこんな笑みになるのだろう。
美しくも禍々しい笑みだ。
『そしてお前の主だ。゛ハナ゛せいぜい下僕として、全力で俺の役に立ってみせろ』
心を溶ろかすような甘い声で、ザクスはそう言い放った。




