獣と皇太子3
男から出た思いがけない名前に葉菜は目を見開いた。
『ジーフリート、知ってる?』
(あ、しゃべれた)
自分の口から人間の言葉が出たことに葉菜は驚いた。
いや、口から出たと言ったら語弊がある。葉菜の声帯は震えていない。
腹話術か何かのように、口を動かさないまま、言葉にしたかったことが音になって響いた。声質は甲高く、滑舌の悪い、人曰く「残念なアニメ声」。つまりは人間だった頃の葉菜の声のままである。言葉も、こっちの言葉を話しているように片言のままだ。
不思議な感覚だった。
原理は分からないが、とりあえず人間とコミュニケーションが可能だと知って安堵する。会話さえ出来れば避けられる危険も今後あるだろう。
申し開き一つ出来ずに、一方的に害獣だと決めつけられて、殺される可能性が少し低くなった。
勿論葉菜が何を主張しようとも、見かけだけで判断され、害される可能性も大いにあるが。
『あぁ。ジーフリートは俺の大叔父にあたる。……剣を向けてすまなかった。ジーフリートの養い子が獣だとは思っていなかったんだ』
(いや、確かに私は人間でした)
剣を下ろし謝罪の言葉を述べる美形の男に内心そう返しながらも、勝手に納得してくれたなら、と敢えてそれは口にしない。
人間が獣に変じる。それがこの世界でどういう意味を持っているか分からない以上、下手なことは口にしない方がいいだろう。獣だからと襲われるなら、一か八か自分の正体を告げてみるのも考えるが、その危険がないならわざわざリスクを負う必要はない。
それにこの先も、無知で無垢で無害な存在を演じるなら、獣だと思ってもらった方が都合が良いかもしれない。24歳で子どものふりをするより、きっと楽だ。
『大叔父上は…』
男の視線がジーフリートの墓標を捉え、やがて痛ましげに伏せられる。
『殺された…盗賊に。墓、作った』
『あぁ、そのようだな。そして大叔父上は、死ぬ前に俺に遺言を残したんだ』
『遺言……?』
男が真剣な表情で葉菜を見据えながら、頷いた。
『自分の死後、「娘」を頼む、と伝言を受けた。おそらく、君のことだろう?』
(ジーフリート…っ!!)
告げられた言葉に、葉菜の胸は引き裂かれんばかりだった。
ジーフリートが、自分を「娘」だと言ってくれていた。
自分の死後のことまで心配して、人に託してくれた。
年齢さえも正直に打ち明けられず、その死の時さえも、自分のことばかりだった、醜い自分を。
喜びと罪悪感、自己嫌悪で、心の中で埋め尽くされる。
獣の瞳から涙がこぼれ落ちるのが分かった。
男はそんな葉菜の様子を、観察するようにみていたが、葉菜の視界には入らなかった。
『大叔父上の遺言どおり、これからは俺が君を保護しよう。…まずは君の名前を教えてくれないか?』
ジーフリートのことで頭がいっぱいな葉菜は気付かない。
秀麗な美貌をさらに甘く緩ませ、優しくそう告げた男の瞳が、獲物を狙う獣のようにぎらついていたことを。
葉菜は知らない。
この世界で本当の名前を誰かに打ち明けることの意味を。
だから、何のためらいもなく、告げた。
『―葉菜』
と。
気づいていれば、知っていれば、名前なぞけして教えなかったのに。
男の優しげな笑みが、名前を告げた途端一瞬にして凶悪なものに変わった。




