社会不適合女と山月記
大学の一般教養の授業で、「山月記」を習った。
高校が別だった兄の国語の教科書を、興味本意で開いた時に、一度軽く読んだことがあったが、ちゃんと話を読むのははじめてだった。
人を拒絶して引きこもり、家族も省みずに虚栄心から詩作に没頭した結果、その罰として虎に変じた男の話。
元々は中国の古典文学の講義だったため、教授は山月記の原作となった、「人虎伝」の漢文と比較させたうえで、エゴイズム、もしくはナルシシズムの結果として虎に変じるというのは、山月記のオリジナルの要素だと講じた。
そしてナルシシズムについて、複数の資料を配付して解説した。
「ナルシストは、本当の意味で自分を愛していないのだ。」
その中のひとつに、そんなことが書いてあった。
ナルシストは本当は自分を誰よりも嫌い憎んでいるがゆえに、それを補うように自分を愛しているように振る舞うのだと、そう書かれていた。大嫌いな自分を、それでも守るために。
なんだか、自分のことを言われているように思った。
もし我欲が故に虎に変じるというのなら、葉菜もまた、虎に変わるだろう。
いつだって自分のことばかりの、醜い自分も、また。
だけどそれはもしかしたら、馴染むことが出来ないまま、人間でいることより、よほど楽なのかもしれない。
たった一匹で、本能のまま生きても大丈夫な力をもっているならば。
(――人が虎に変わるなんて、ありえないけれども)
目が覚めると葉菜は、川のほとりに倒れていた。口のなかに入った土の味に、異世界に来た最初の時を思い出す。
何故、自分はこんなところにいるのだろう。家で盗賊に襲われていたのではなかったのか。もしかして、あれは、木の実の採集の途中で寝入った葉菜がみた、悪夢だったというのか。
もし夢なら、それで良かった。ジーフリートの死がただの夢なら、今から家に帰れば、ジーフリートは優しい笑顔で「おかえり」と言ってくれる。葉菜はそんなジーフリートに抱きつこう。そして恥も外聞もなく、「怖い夢をみたんだ」とジーフリートの胸で泣きわめこう。ジーフリートはそんな葉菜の頭を撫でて、大丈夫だと、よいこだから、と言ってくれるだろう。
体勢を起こすと、葉菜は猛烈な乾きを覚えた。口のなかが、何かが張り付いたかのように乾いていて、なぜか塩辛い。
体が重くて立ち上がることが出来ず、地面を這って川へと近づくと、ごく自然にそのまま水に口をつけた。
清涼な味がする。何か釈然としないものを感じながらも、そのままがぶがぶと、自身の乾きが満たされるまで水を飲み続けた。
すっかり満足して顔をあげた時、葉菜ははじめて水面に映った自身の姿を見た。
葉菜は叫んだ。
だが葉菜の声帯は葉菜の叫びを甲高い悲鳴に変換せず、口から漏れたのは獣の雄叫びだった。
水面には、毛皮を血に染めた一匹の白虎が、悲痛な面持ちで吠える姿が映っていた。




