魂の盟約
葉菜は、目を醒ましたザクスを暫く黙って見つめていた。
言いたいことは山程あった。
だけど、言うべき言葉は、ただ一つだった。
「――我が名は、斎藤葉菜」
普段は片言にしかならない言葉が、なぜかすんなりと音になった。
「サイトー・ハナ。それが、我が真名の全て。その全ての真名を、我が主、ザクス・エルド・グレアムに捧ぐ」
まるで台本をなぞるかのように、勝手に言葉が出てきた。
そんな葉菜を、ザクスが驚愕の面持ちで見ていた。
「我が真名を、我が全てを、主に捧ぐ。誰に強制されたわけではなく、全て我が意に基づいて、我が主に忠誠を誓う。主の許可あらば、我が魂にその忠誠の証を刻もう」
葉菜はザクスの前に伏せるようにして、頭を垂れてみせた。
本来は片膝をついて恭しい忠誠のポーズをとりたい所だが、獣の体では不可能なので致し方ない。
伏せた状態のまま顔をあげるとザクスの口が、小さく動いたのが見えた。
声にすらなっていない、思わず漏らした小さな小さな呟き。
だけど葉菜には、はっきりその言葉が耳に届いた。
『傍に、いてくれるのか』
確かに、ザクスはそう言っていた。
「――傍に、いるよ」
葉菜はザクスに、微笑みかけて普段の言葉で応える。
「ずっと、傍にいる」
だから、この忠誠を、受け取って欲しい。
葉菜は今、自らの意思で正式な主従契約を結ぶことを宣言したのだから。
「……汝、全ての真名をもってして、従属の意を示した。ならば我はその意思に応えよう」
返ってきたザクスの言葉は、震えていた。
「全ての真名を捧げた汝の忠誠に、我も真名をもってして応えよう」
その頬に、一筋光るものが流れ落ちたように見えたのは、葉菜の見間違いだろうか。
「我名はザクスフィス・エルドランデ・グレアム。東の地を統べる王となったもの。我は我が真名に誓う。汝の主となることを」
葉菜とザクスを包むように、どこからか白い光が集まってきた。
「汝が求めるものを、全て与えよう。その代わり汝の全てを我に捧げよ。――これは違うことが許されない魂の盟約である」
集まった光が、目映いばかりに輝きをましていく。
ぱきりと、音をたてて首輪にひびが入っていく。
「今、この時をもって、主従の契約が成されたことを、ここに宣言する!!」
ザクスが宣言した途端、首輪が地面に落ちた。
そのまま首輪は粉々になり、光りに溶けこむように消えていく。
光が消え去ると、ザクスが装飾が何も無くなった自身の手を、唖然とした表情で見ている姿が目に入った。
指輪もまた、同様に消え去ったらしい。
仮契約の時とは異なり、葉菜もザクスも、目に見える契約の証は何も持っていない。
だけど葉菜は、魂に刻まれた確かな契約が、自身の胸の奥にあることを実感していた。
「――宣誓による魂の盟約とは、ずいぶん派手派手しくて重い契約を結んだな」
契約の余韻に呆けていたが、すぐ傍から聞こえて来たフィレアの言葉に引き戻される。
ザクスに意識を取られたあまり、すっかり存在を忘れていた。
「単なる正式な主従契約じゃねぇ。一度結べば、もう二度と他の奴と同じ契約が出来ねぇ、最上級の契約だぞ。わかっててやったのかよ。てめぇら」
(…いんや、分かって無かった。ぜんぜん)
知らずに、浮かんだ言葉をなぞったらそんな契約になっていただけだ。
まさか、そんな重い契約だったとは。
しかし、そんな衝撃的事実を聞いても、不思議と後悔の念は湧かなかった。
例え事前に知っていたとしても、きっと葉菜は同じ契約をザクスと結んだに違いない。
フィレアがザクスの方へ近づいていったので、葉菜は一歩後ろへ下がった。
ザクスの目前にまで来たフィレアは、不良がガンを飛ばすかのような姿勢でザクスを覗きこんだ。
しかし、鳥の姿なので、正直あまり迫力はない。
「…フィレア=レアル・シエク・グレアム。それが、ジーフリートがくれた名の全てだ」
「…っ!?」
ザクスと葉菜が息を飲み込んだのは、ほとんど同時だった。
「魂の盟約はジーフリートと結んだ。それを書き換えることはできねぇし、するつもりもねぇ。だが真名くれぇ、捧げてやるよ」
それは、フィレアがザクスを主と定めることを意味していた。
「俺の生は、忌々しいことにまだ700年残っている。長くて100年程度。気まぐれで王に仕えてみるのも悪くねぇ」
どこか遠くを見ながら発せられたフィレアの言葉は、自分自身に言い聞かせているようでもあり、またどこかにいるジーフリートに語りかけているようでもあった。
「真名を受け取れ、糞太子…いや、糞王。てめぇの為に大衆に正体を晒してやったんだ。せいぜい、俺の庇護に尽力をつくせよ」
ザクスを真っ直ぐに睨むつけながら、告げたフィレアの言葉は相変わらず素直じゃなかった。これでは、どちらが主なのか分からない。
だけどその言葉に隠れた、確かな覚悟はちゃんと葉菜に伝わった。
それは、ザクスも同様なのだろう。
「――汝が真名を、確かに受け取った。汝が望む庇護を与えることを、我が真名に誓う。代わりに我に従い、忠誠を捧げよ。」
先程の魂の盟約の光より淡い光が、ザクスとフィレアを包み込む。
「ここに、もう一つの主従契約が成されたことを宣言する」
少しの余韻を残して契約の光が消え去った途端、バルコニーの階下から割れんばかりの喝采の声が響いた。




