葉菜と獣1
(――ここは?)
気がつくと葉菜は、見知らぬ空間に一人立っていた。
辺りは薄暗く、まるで霧の中にいるかのように霞がかっていて周りを見渡すことは出来ない。
だけど、そんな得体の知れない場所にいるのに、不思議と恐怖は感じなかった。あるべき場所に戻ってきたかのような、知己の場所にいるかのような、そんな奇妙な安らぎすら感じる。
何となしに自身の手を見た葉菜は、一瞬違和感を覚えた後、ぎょっとした。
目に入ったのは、細く長いとは言えないが、しっかりと五本に指が分かれて節くれだった人間の手。
見慣れてしまった獣の手ではない。
葉菜は、ぺたぺたと自身の全身に手をやる。
いくら触っても厚い毛皮の感触を感じることはない。どこもかしこも、かつて人間だった頃のままだ。
(――いや、胸はもっと大きかった気がする)
両手で自身の胸を掴みながら、誰も突っ込んでくれない寂しい脳内一人ボケをしていると、不意に背後に気配を感じた。
勢いよく振り返った先に見えた、つい先刻までの自身の姿。
真っ白な毛皮を纏い、王者のような風格を持ってたたずみながら、葉菜を見据える白虎。
(――獣)
獣と対峙した瞬間、葉菜は理解した。
ここは、現実ではない。葉菜の精神世界だ。
そして葉菜が魔力をザクスに与えたことで枷がなくなった獣が、葉菜の人格に会いに来たのだ。
人格を喰らって、体の主導権を我が物にする為に。
(怖い)
覚悟をきめたはずだった。
こんな事態になるかも知れないけれども、それでもザクスを救う為に全力を尽くす覚悟をきめた。
だけど、実際に自身の危機を前にすると、やはり怖い。
全身が震えて、かちかちと歯がなる。
獣が一歩、近づいてくる。
葉菜は「ひっ」と小さく悲鳴をあげて、後退りをする。
逃げようにも隠れようにも、こんな場所ではどうにもならない。
葉菜は気休めにもならないと分かっていながら、自身を守るように両手を握りしめて体を縮めた。
獣がさらに近づいてくる。
あの爪で、葉菜を引き裂くのだろうか。
あの鋭い牙で噛み千切るのだろうか。
精神の死でも、肉体と同じように痛いのだろうか。
もし消えるなら、せめて苦痛がないまま一瞬で消して欲しい。
死を死と認識することもないままに。
獣が目の前まで迫った。
葉菜は恐怖故に足に力が入らず、その場にへたりこむ。
獣が大きく口を開いた。
かつて自分のものだったとは信じられない、切れ味がよさそうな鋭い牙が光る。
(もう、だめだ)
葉菜は目をきつく瞑って、最後の時が訪れるのを待った。
しかし葉菜に触れたのは、鋭い牙ではなく、獣の生ぬるい舌だった。
「…へ?」
「ハーナ」
舌で葉菜の頬をぺろりと舐めあげた獣は、無邪気な声で葉菜の名前を呼ぶと、甘えるように葉菜にすり寄ってくる。
獣のしっぽはぴんと立ち上がっているし、表情が読みにくい獣の顔は、どうもこの状況を喜んでいるように見える。
味見の為に葉菜を一舐めしたわけではなさそうである。
「け、獣…?」
「ウレシイ、ハナダ。ハナ二、会エタ。チャント会エタ。ウレシイ。」
獣から発せられる声は、以前聞いたものと同じ声だ。
葉菜が逃走を試みた際、葉菜を批判したザクスに、怒り狂った獣の声だ。
「ねぇ、もしかして…」
「ナーニ?ハナ」
葉菜は意を決して、尋ねてみることにした。
「私のこと、食べないの?」
「ナンデ、ハナ、タベルノ?」
きょとんとつぶらな瞳を丸くして、心底不思議気に首を傾げる獣の姿に、葉菜は大きく安堵のため息をついて脱力する。
脱力した途端、その場に倒れ込んだ。
「!?ハナ、ダイジョウブ!?」
「あ、うん…大丈夫。ちょっと、腰が、ね。うん、多分、すぐ治るから、多分、大丈夫」
安堵の余り、腰が抜けた。
どうやら、精神世界の癖に、こんな肉体的現象はちゃんと起こるらしい。
なんでそんな所が、無駄にリアルなのか。
(こ、怖かったっ!!ほんっとに、怖かった!!)
今度は涙や鼻水まで滲んできた。
心臓がばくばくうるさい。
恐怖の余り、うっかり漏らしてしまわなかっただけ、良かったと思うべきだろうか。




